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第20話

翌朝の学校で、ドンパッチは、珍しく焦っていた。

いつもは影のように静かに過ごす彼が、今朝に限って、妙にそわそわしていたのだ。鞄を何度も開けては閉め、教科書のページをぱらぱらめくっては、内容が頭に入らずため息をつく。いつになく、落ち着きがない。


昨日の試合以来、学校全体の空気がまるで別の学園にでもなったかのように変わっていた。

廊下では男子たちが、どこか神妙な顔でこちらを見てくる。「あいつ……ただ者じゃないぞ」みたいな目で。

女子たちに至っては、普段は見向きもしなかったドンパッチの姿を追いかけるように、やたらと視線が飛んでくる。目が合えば、なぜかフワッと笑われたりする。いや、怖い。なにそれ。


「これは、いったい……」

そう思っていたドンパッチ──もといアルヴァン王子の胸中は、いたって深刻だった。

なぜなら──一番振り向いて欲しい、ティーナだけが、まったく話してくれなかったからだ。


教室で隣の席に座っても、彼女はチラッと視線を寄越すだけで、すぐに目を逸らしてしまう。

教科書を読むふりをしながら、顔の向きをほんの数度だけ変えるという高等テクニックで、完全に「見てないですよ」オーラを出してくる。


近くにいても、気づかないふりをされる。

話しかける隙が、まったくない。

でも彼女がこちらを見ていることは、わかっていた。

なぜなら──彼もずっと、見ていたからだ。


「……これが、疎外感というやつか……」

王族としても初体験の感情に、胸が妙にキュッとなる。王宮では味わったことのない種類の孤独だった。


そうして悩みに悩んだ末、アルヴァンはついに一つの“作戦”を思いついた。


──わざと、消しゴムを落とす。


これである。

古典的ながら、実に効果的。偶然を装い、自然に会話へとつなげる。

その筋の者から「小道具きっかけ型接触法」と呼ばれる、由緒正しきアプローチ。


「この作戦なら、誰にも怪しまれずに話せる……完璧だ」

消しゴム作戦の利点を脳内で何度も検証しながら、彼は自席に腰を下ろし、机の上に置かれた小さな白い消しゴムを凝視した。


それは、ただの文具。

だが──彼にとっては、ティーナと心を通わせるための橋。王国の運命をも左右しかねない重要な触媒だった。


──王子アルヴァン。文武に秀で、礼儀作法も完璧、剣も詩も音楽もこなす「万能王子」。

だが、恋愛だけは、からきしだった。


女性を「好きになる」という現象そのものが、彼にとって初めてのことだった。

心が勝手に揺れるなんて、どういう原理だ。誰か論理的に説明してくれ。

──そんな気持ちで、いま彼は恋に落ちていた。


消しゴム作戦は、いよいよ決行の時を迎えようとしていた。

机の端に、ちょこんと置かれた小さな白いヤツ。

それを、指先で──コツン、と押す。


コロコロ……


音もなく床に落ちたその小さな物体に、ティーナが気づく。


ティーナは、何かが落ちた小さな音に耳をとめた。

視線を足元に落とすと、転がる白い消しゴムが、彼女の椅子のすぐ脇に止まっていた。


それを静かに拾い上げたティーナは、ふと横を見る。


そこにいたのは、ドンパッチ──ぼさぼさの髪に顔を半分隠した、例の転校生だった。

そして、タイミングよく──いや、あまりにもタイミングよく、彼と目が合った。


ぱちん、と視線が重なる。


逃げようと思った。

目を逸らすべきだと、頭は叫んでいた。


けれど──なぜか、心は落ち着いていた。

昨日までは彼と視線が合うだけで、なぜか心臓がバクバクしていたのに。

今日の彼は、どこか違って見えた。


ティーナは、そのまましばらく彼の目を見つめていた。


教室の後方では、その様子を複数のクラスメイトが、見ていた。

まるで学園ドラマのワンシーンを目の当たりにしたように、静まり返っていた。


「……なんか、絵になるな」

誰かがぽつりとつぶやいた。


その一言が、不思議な魔法のように、周囲の空気をぬるりと変えていく。


ふたりの視線が交差した、その小さな時間に──


ドンパッチが、やさしい声で言った。


「……ぼくのです。ありがとう」


小さなそのひと言は、まるで音ではなく、優しさそのものがふわりと伝わるようだった。


その瞬間、ティーナの胸が、ほんの少し揺れた。

けれど、恐怖ではなかった。苦しさでもない。

ただ、あたたかく包まれるような、そんな気持ちだった。


そして彼女は、自然に言葉を返していた。


「……どういたしまして」


それは、ごく当たり前の返答だった。

けれど、彼女にとっては奇跡だった。


ドンパッチ君に、こうして「普通に話す」ことができたこと。

それが、どれほど勇気のいることだったか──


彼女の頬に、かすかな紅が差す。

そしてその隣で、ドンパッチもまた──心の中でガッツポーズを決めていた。


それは控えめながら、全身をつかっての無言の雄叫び。


ありがとう、消しゴム。

ありがとう、偶然。

ありがとう、神よ。


ちなみに、「ガッツポーズ」の語源は──昭和のボクサーが勝利した時のポーズである。


その後、ふたりはほんの短い会話を交わした。

ぎこちなく、けれど確かに、そこには笑顔があった。


休み時間になると、案の定、ティーナのまわりに三人娘が集結した。


「ねえねえ、なになに、今の!」

「まさかの、進展!?」

「どういうこと、どういうこと~~っ?」


ミーナとクラリスとエレオノーラの三人が、まるで実況中継のように騒ぎ立てる。

その中心で、ティーナはただ小さく微笑んだ。


──そしてその瞬間。

エレオノーラが唐突に、後ろからティーナに抱きついた。


「ふふ、もう、惚れ直しちゃうわ! 私、応援してますからね!?」


その様子を、ちらりと見ていたドンパッチが、「僕も……」と小さくつぶやいたような気がした。


だが、ティーナの耳には届いていなかった。

たぶん。きっと。おそらく。聞こえていない、はず……?


だけど、その背中には──わずかに漂う、王子のジェラシー。


物語は、またひとつ、ふたりの距離を近づけていた。


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