「ここは、ご飯が食べられるだけ、ましですから」
そう、マルレーネは小さく呟いた。
砦の裏手、兵舎裏区画のぬかるみに膝をつき、泥のついた藁を絞りながら、誰にともなく語りかける。
濡れた空気、石壁に染みついた血と鉄のにおい。いつもなら胸を詰まらせるその臭いも、マルレーネにはもう日常の一部になっていた。
痩せ細った腕、泥に汚れた小さな手。
彼女は砦の外れの貧しい家から、この区画に働きに来ている。家族のため、少しでも食い扶持を減らすため。
それでも、文句は言わなかった。むしろ、こうして誰かの役に立てることが、彼女の心をかろうじて支えていた。
「もう少し、手を抜かないと、倒れるぞ」
背後から、声がかかる。
振り返れば、若い奴隷兵が泥まみれの体で心配そうに立っている。
「大丈夫です。私は皆さんの世話を任されています。ここから追い出される方が、よっぽど辛いですから」
マルレーネは微笑みながら答え、また泥を拭き取り始める。
奴隷兵たちは皆、どこか虚ろな目をしていた。
戦場から戻る者、もう戻れない者――ここは、戦いと死のわずかな隙間だった。
昼下がり、通路の隅で足を引きずる兵士が荷の前で立ち尽くしているのを見かける。
マルレーネは、すぐに枝を拾い上げ、それを杖の長さに折って差し出した。
「これ……杖の代わりになるか分かりませんけど」
兵士は驚いたように、しかし静かにそれを受け取る。
「……ありがとよ」
その一言だけで、マルレーネの胸の奥には温かな何かが残る。
たとえ小さなことでも、人の役に立てたと思える――それが、今日を生きる力になっていた。
夕方、食事の時間。
配膳のとき、目を負傷した奴隷兵が、うまく粥の器を持てずに困っていた。
マルレーネは隣に腰を下ろし、器を手にとってスプーンで一口ずつ口へ運ぶ。
「焦らなくていいですから。ゆっくりどうぞ」
男は何度か粥を飲み込んで、小さく笑った。
「マルレーネか。いつも手間をかけるな」
周りでその様子を見ていた兵士たちも、つかの間、場の空気が和らぐ。
「ほんと、あの娘は、こんなところでも笑顔が絶えないな」
「おれたちみたいな者を怖がることもないし、なんか心が癒されるな」
「マルレーネがついでくれると、このまずい飯も、うまく感じるよな」
照れくさそうに首をすくめて、マルレーネは静かに食事場を離れる。
だが、その背中はどこか誇らしげだった。
誰かの役に立てた、ただそれだけで、自分がここにいてよかったと思えるのだった。
夜が更けていくなか、マルレーネは一枚の布を胸に抱えて、そっと兵舎裏の寝床区画へ向かった。
藁の寝床が並ぶその一角は、戦で傷ついた者や、砦に送り込まれてきたばかりの新顔が寝起きしている。
そのなかに、最近ここへ来たノルドの姿があった。
ノルドは他の誰とも言葉を交わさず、石のような沈黙でただ壁に寄りかかっていた。
誰も彼に近づこうとしない。彼もまた、誰にも心を開かない。
けれどマルレーネは、彼の寝床のそばに静かに座り込んだ。
「……包帯、取り替えますね」
ノルドは動かず、目も合わさなかったが、抵抗する様子もなかった。
マルレーネは手早く足の包帯をほどき、清潔な布で傷口をぬぐう。
消毒薬をすり込み、新しい包帯を巻き直した。
「薬草も煎じてきました。これ、夜のあいだに温かいうちに飲んでくださいね」
小さな陶器の器をそっと置く。
ノルドは依然として黙ったまま、マルレーネの手元をじっと見ていた。
その無言の視線に、彼女はかすかな優しさを感じていた。
明け方には、マルレーネはまた寝床の藁を新しいものと取り換え、湿った寝具は外に干して乾かす。
自分がここにいることで、誰かがほんの少しだけ楽になるなら、それで十分だった。
時折、他の兵士が冷やかすように声をかけてくることもあった。
「おい、マルレーネ。そんなに世話焼いても、どうせあいつは何も言わねえぞ」
「よせよ、女の子に恥かかせるな。あの娘がいるだけで、みんな気が休まるんだ」
マルレーネは少しだけ微笑み、何も言わずに仕事に戻る。
その日、珍しくノルドが寝床から身を起こし、彼女の方を見た。
「……包帯、ありがとう」
低く、しかし確かな声だった。
マルレーネは、驚いて思わず顔を上げた。
その瞳には、これまでにない微かな光が灯っている気がした。
「いえ、どういたしまして」
二人の間に静かな時間が流れる。
砦の裏手の湿った空気のなかにも、ごくかすかに、清らかな香りが混じっていた。
新しい朝が訪れる。
マルレーネは布を胸に抱き、また今日も兵舎裏の泥と藁の世界に歩み出していく。