砦の外壁を冷たい風が叩く。まだ夜明け前で、空にはどんよりとした雲が漂っていた。
クラウスは薪と水袋を背負い、無言で砦の裏手を歩いていた。その歩みは重く、かつて「将軍」と呼ばれていた面影は今や、くたびれた着衣に隠れている。
「……なぜ、あの時、死ねなかったんだろうな」
誰にともなく呟く声が、白い息とともに空へ消えていく。
砦が陥ちて、王都も焼け落ちた。仲間も、誇りも、みんな過去の中だ。
生き残ったはずなのに、毎朝歩くたび、心がきしむ。
それでも、生きている。それだけが今のクラウスの現実だった。
「……また見てる」
炊き場の端から、じっと視線を向ける少女がいた。
マルレーネ。年は十七、まだ恋も知らないはずの娘だ。
でも彼女は、毎朝必ず、クラウスのために一つだけ器をよそってくれる。
「クラウスさん、どうぞ」
白粥に、小さな干し芋をそっと添えて差し出す。
「……」
クラウスはちらりとも見ず、無言で受け取って歩き去る。
「今日も、おいしそうに食べてくれるといいな……」
マルレーネは小さく呟きながら、胸の中にふわりと温かいものが広がるのを感じていた。
彼が無言でも、そっけなくても、優しく思えてしまう自分がいる。
“私がこの人の心を、少しでも救いたい”──そう思わずにはいられなかった。
***
数日後の夜。
焚き火のそばに、ひとり膝を抱えるクラウスの背中があった。
誰も寄りつかない静かな場所。
マルレーネは迷いながらも、その隣に静かに腰を下ろす。
「……俺は、どうすればいいんだろうな」
低く漏れた声が、焚き火の揺らぎにまぎれる。
マルレーネはそっと息を吸い、勇気を振り絞った。
「……生きてください」
その言葉に、クラウスは何も返さなかった。ただ、炎の明かりが横顔を静かに照らす。
***
翌朝。
マルレーネは配膳棚に姿を見せなかった。
クラウスはぼんやりと残された空の器を見る。その理由もわからないまま、心の奥に小さな不安が刺さる。
寝所にも、炊き場にも、井戸端にも、彼女の姿はない。
気づけば足が早まっていた。砦の外れ、崖沿いの小道へ――
風に揺れる草の中、どこかで見た布切れ。
その先に、マルレーネが足首を抱えてうずくまっている。
「マルレーネ!」
思わず声が出た。
彼女は顔を上げ、困ったように笑う。
「ごめんなさい、探しに来てくれたんですか?」
その笑顔が、どこか頼りなげで、けれど心に刺さる。
クラウスは言葉もなく、黙って彼女のそばに膝をつく。
無言で背中を差し出し、短く言った。
「……乗れ」
その一言で、マルレーネは素直に彼の背中に身を預けた。
「ありがとうございます……」
ぽつりと小さく、彼女の声が背中越しに響いた。
砦への帰り道、ふたりの間に言葉はなかった。風が草を揺らし、崖の下からは朝霧が立ち昇っていた。マルレーネは黙ってクラウスの背にしがみつく。その小さな体の重みが、クラウスの心に静かな余熱となって残る。
「クラウスさん……」
小さな声が、彼の肩越しにふわりと落ちる。
「私のために、生きてくれませんか……」
かすかな震えを含んだ問いかけだった。
クラウスはすぐには答えられなかった。歩を進めながら、ひときわ強く地を踏みしめる。
これまで誰のために生きるでもなく、ただ責任と後悔だけを背負っていた。だが今――この問いかけが胸の奥深くに届いているのを、はっきり感じていた。
長い沈黙がふたりを包む。やがて、砦の見張り台の灯りが遠くに見え始めたころ、クラウスはようやく絞り出すように呟く。
「君のために……か」
声は小さく、それでも不思議な温かさがあった。
「はい。私のために」
マルレーネの言葉は、はっきりと強く響いた。背に乗る彼女の息遣いが、背中を通じてクラウスの心臓にまで伝わってくる。
足が一瞬止まる。クラウスは自分でも驚くほど静かな声で言った。
「……それも、悪くはない」
その答えは、まるで霧の朝に差す一筋の光のようだった。
ふたりの間に流れる空気が、昨日までのそれとは違って感じられる。
マルレーネは彼の背の上で、小さく息を呑む。
クラウスは静かに歩き出す。その背中に、そっと目を閉じたマルレーネのぬくもりが伝わる。
やがて砦の門が見えてきた。早朝の砦はまだ静かだが、すでに目覚めた者たちが忙しなく働いている。
ふたりの姿を見つけた数人が、小さな驚きと安堵の混ざった表情を浮かべている。
クラウスは無言でマルレーネをおろす。彼女は照れくさそうに微笑み、
「ありがとうございました」と小さな声で礼を言う。
その瞬間、砦の見張り台の火がかすかに揺れていた。
冷たい空気のなか、ほんのわずかに、二人の間に確かな絆の気配が生まれていた。
その日、クラウスはいつもよりしっかりと粥を食べ、マルレーネは少しだけ早く炊き場に戻っていった。
日常は何も変わらないようで、ふたりの心だけが確かに揺れていた。