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第36話

 砦の外壁を冷たい風が叩く。まだ夜明け前で、空にはどんよりとした雲が漂っていた。

 クラウスは薪と水袋を背負い、無言で砦の裏手を歩いていた。その歩みは重く、かつて「将軍」と呼ばれていた面影は今や、くたびれた着衣に隠れている。


「……なぜ、あの時、死ねなかったんだろうな」

 誰にともなく呟く声が、白い息とともに空へ消えていく。


 砦が陥ちて、王都も焼け落ちた。仲間も、誇りも、みんな過去の中だ。

 生き残ったはずなのに、毎朝歩くたび、心がきしむ。

 それでも、生きている。それだけが今のクラウスの現実だった。


「……また見てる」

 炊き場の端から、じっと視線を向ける少女がいた。

 マルレーネ。年は十七、まだ恋も知らないはずの娘だ。

 でも彼女は、毎朝必ず、クラウスのために一つだけ器をよそってくれる。


「クラウスさん、どうぞ」

 白粥に、小さな干し芋をそっと添えて差し出す。


「……」

 クラウスはちらりとも見ず、無言で受け取って歩き去る。


「今日も、おいしそうに食べてくれるといいな……」

 マルレーネは小さく呟きながら、胸の中にふわりと温かいものが広がるのを感じていた。

 彼が無言でも、そっけなくても、優しく思えてしまう自分がいる。

 “私がこの人の心を、少しでも救いたい”──そう思わずにはいられなかった。


***


 数日後の夜。


 焚き火のそばに、ひとり膝を抱えるクラウスの背中があった。

 誰も寄りつかない静かな場所。

 マルレーネは迷いながらも、その隣に静かに腰を下ろす。


「……俺は、どうすればいいんだろうな」

 低く漏れた声が、焚き火の揺らぎにまぎれる。


 マルレーネはそっと息を吸い、勇気を振り絞った。

「……生きてください」

 その言葉に、クラウスは何も返さなかった。ただ、炎の明かりが横顔を静かに照らす。


***


 翌朝。


 マルレーネは配膳棚に姿を見せなかった。

 クラウスはぼんやりと残された空の器を見る。その理由もわからないまま、心の奥に小さな不安が刺さる。


 寝所にも、炊き場にも、井戸端にも、彼女の姿はない。

 気づけば足が早まっていた。砦の外れ、崖沿いの小道へ――


 風に揺れる草の中、どこかで見た布切れ。

 その先に、マルレーネが足首を抱えてうずくまっている。


「マルレーネ!」

 思わず声が出た。

 彼女は顔を上げ、困ったように笑う。


「ごめんなさい、探しに来てくれたんですか?」

 その笑顔が、どこか頼りなげで、けれど心に刺さる。


 クラウスは言葉もなく、黙って彼女のそばに膝をつく。

 無言で背中を差し出し、短く言った。


「……乗れ」

 その一言で、マルレーネは素直に彼の背中に身を預けた。


「ありがとうございます……」

 ぽつりと小さく、彼女の声が背中越しに響いた。


砦への帰り道、ふたりの間に言葉はなかった。風が草を揺らし、崖の下からは朝霧が立ち昇っていた。マルレーネは黙ってクラウスの背にしがみつく。その小さな体の重みが、クラウスの心に静かな余熱となって残る。


「クラウスさん……」

小さな声が、彼の肩越しにふわりと落ちる。


「私のために、生きてくれませんか……」

かすかな震えを含んだ問いかけだった。

クラウスはすぐには答えられなかった。歩を進めながら、ひときわ強く地を踏みしめる。

これまで誰のために生きるでもなく、ただ責任と後悔だけを背負っていた。だが今――この問いかけが胸の奥深くに届いているのを、はっきり感じていた。


長い沈黙がふたりを包む。やがて、砦の見張り台の灯りが遠くに見え始めたころ、クラウスはようやく絞り出すように呟く。

「君のために……か」

声は小さく、それでも不思議な温かさがあった。


「はい。私のために」

マルレーネの言葉は、はっきりと強く響いた。背に乗る彼女の息遣いが、背中を通じてクラウスの心臓にまで伝わってくる。


足が一瞬止まる。クラウスは自分でも驚くほど静かな声で言った。

「……それも、悪くはない」

その答えは、まるで霧の朝に差す一筋の光のようだった。


ふたりの間に流れる空気が、昨日までのそれとは違って感じられる。

マルレーネは彼の背の上で、小さく息を呑む。

クラウスは静かに歩き出す。その背中に、そっと目を閉じたマルレーネのぬくもりが伝わる。


やがて砦の門が見えてきた。早朝の砦はまだ静かだが、すでに目覚めた者たちが忙しなく働いている。

ふたりの姿を見つけた数人が、小さな驚きと安堵の混ざった表情を浮かべている。


クラウスは無言でマルレーネをおろす。彼女は照れくさそうに微笑み、

「ありがとうございました」と小さな声で礼を言う。


その瞬間、砦の見張り台の火がかすかに揺れていた。

冷たい空気のなか、ほんのわずかに、二人の間に確かな絆の気配が生まれていた。


その日、クラウスはいつもよりしっかりと粥を食べ、マルレーネは少しだけ早く炊き場に戻っていった。

日常は何も変わらないようで、ふたりの心だけが確かに揺れていた。


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