この砦では、奴隷兵にも容赦ない軍事訓練が課されていた。朝靄の残る広場、木剣が激しくぶつかり合い、叫び声や息の音がこだまする。特に対戦形式の演習で敗れた者には、仲間からの蔑みが降りかかり、ひどい時にはその日の配給さえ減らされることもあった。
ノルド──かつては将軍だった男も、負傷の治癒後は幾度となく負け続けていた。泥にまみれ、汗と埃と血にまみれた日々。心の中にはまだ、あの惨劇が深く根を残している。戦う理由も、誰かを守る気持ちも、一度はすべて失っていた。だが、彼の中で静かに何かが芽吹き始めていた。
「……もう負けてばかりはいられない」
砦の片隅、食事を終えたあとでマルレーネがそっと声をかける。
「ノルドさん、最近……なんだか顔つきが違います」
彼は少し驚いたように振り返るが、すぐに目をそらした。
訓練の時間、彼は最初に重い木剣を手に取った。何度も倒されても立ち上がり、相手の動きを見極める。次第に、かつての勘が戻ってくるのがわかった。筋肉が動きを思い出し、戦場の本能が蘇ってくる。
「ここで立ち止まってはいけない。守りたいものがあるから」
そう、彼の心に新しい意志が灯った。守るべき存在ができた。この砦、この場所、そして――あの少女を。
訓練で一度も負けなくなったのは、その翌日からだった。彼の動きは鋭さを増し、対戦形式でも戦術演習でも、誰一人として敵わなくなっていく。広場の空気が少しずつ変わり、周囲の兵たちもその背中に何かを感じ取り始めていた。
焚き火のそばで男たちが小声で囁く。
「なあ、ノルドって本当にただの奴隷なのか?」
「いや、あいつは違う……本物の戦士の目をしてる」
やがて、ノルドは自分の小隊を作り始めた。最初に声をかけたのは、無骨で口数の少ない男。足の怪我から立ち直ったばかりで、どこか影のある表情をしている。
「以前は?」
低い声で問うと、男は短く「鉱山兵だった。突撃槍」と答えた。
そこに、別の者たちも加わっていく。門を守っていた者、野戦帰りの兵、鍛冶場から戻った力自慢。誰もが最初は半信半疑だったが、ノルドの冷静な指示と鍛錬を重ねるうち、確かな手応えと信頼を得ていった。
夜になると火を囲み、槍の構えや盾の持ち方、足の運びを細かく教えるノルド。
「隊列は信頼の線だ。無駄に声を出すな。目で合図しろ」
数日もすれば、彼の指導を受けたいと願う者が増えていった。
「教えてくれ、俺も強くなりたい」
「ノルド、もっとやってくれ!」
砦の空気が、目に見えない熱で変わり始めていた――
砦の朝は、かつての重苦しい沈黙とは違う熱を帯びていた。ノルドが訓練場に立つと、仲間たちは自然と集まり、昨日より一歩でも前に進もうと懸命に槍や盾を構えた。負傷した者も、臆病だった者も、不思議とノルドの前では力を抜かず、己を奮い立たせていた。
夜の焚き火を囲む輪は、日ごとに大きくなった。ノルドは余計な言葉は使わないが、技の一つ一つ、動きの意味をきちんと分かりやすく示した。
「盾を前に出せ、間を詰めすぎるな。互いの肩を信じろ」
「槍を振るうときは、一瞬の隙にすべてを賭けろ」
その教えは、今までの砦にはなかった規律を生んでいく。炊き場の隅で様子を見ていたマルレーネも、ノルドの周囲に新しい信頼が芽生えていくのを感じていた。
「……あの人、本当に変わったな」
「俺たちにも勝てる希望があるかもしれない」
訓練が終わると、仲間同士でそんな声がささやかれる。
ある夜、ノルドは小さな地図を膝の上に広げていた。砦の構造、崩れた壁、裏門の死角、敵がどこから来るか。仲間たちも焚き火を囲んで一緒に耳を傾ける。
「南の岩場が手薄だ。次はそこを狙われる」
「偵察が見てきたが、侵攻も大半が南からだった」
その冷静な予測に、皆が真剣な表情でうなずく。
「だったら、見張りを増やそう」
「訓練も南側を重点的にやるべきだな」
ノルドの提案は次第に砦の守備全体を動かし始めていた。
やがて砦内の誰もが、彼を「ノルド」と呼ぶことに違和感を持たなくなっていた。
「なあ、あいつは本当に英雄だったんじゃないか」
「そうだな……俺たちの英雄だ」
彼自身は、仲間の声援や尊敬の眼差しに照れる様子も見せず、淡々と日々を重ねていく。ただ、その目だけは遠く、守りたい者と、もう過去に戻らないという強い意思を静かに灯していた。
その変化に、マルレーネは一歩離れて静かに見守るしかなかった。夕暮れ、鍋をかき混ぜながら、ふとノルドがこちらを見ていることに気づく。
「マルレーネ」
彼が小さく名を呼ぶ。それだけで胸が熱くなり、彼女は短く「はい」とだけ返した。
「ありがとう」
その一言が、今までで一番まっすぐで、心に届いた気がした。
「……私は、あなたに守ってほしいわけじゃない。ノルドさんが自分で選んでくれるなら、それでいいの」
思い切って口にした言葉に、ノルドは静かにうなずいた。
「守る。ここで生きる全てを」
焚き火の輪は、さらに大きくなっていた。訓練で鍛え上げられた者たちは、次の戦いに向けて確かな手ごたえを得ている。
ノルドの背中には、新しい誇りが宿っていた。