翌朝の砦は、いつもより少しだけ明るく感じられた。訓練場に並ぶ兵士たちの目は、どこか誇らしげだった。その中心で、ノルドは静かに槍を振るい、淡々と号令をかけていた。
「隊列を崩すな。足並みをそろえろ。守りは皆で作るものだ」
木剣がぶつかる音、泥を蹴る音、息づかい、そして小さな笑い声。皆がノルドの動きに目を凝らし、彼の教えを体で覚えていく。なかでも足の悪かった男は「お前の助言、効いたぞ」と小さく礼を言い、ノルドは短くうなずいた。
訓練後、休憩の場で兵士たちは口々にささやき合う。
「マジで負けなくなったな、ノルド」
「前はずっと黙ってたのに、今は誰よりも前に出てる」
そんな会話を聞きながら、マルレーネは少しだけ離れた位置でそれを見つめていた。焚き火の明かりに照らされたノルドの横顔は、前よりも穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
その晩、マルレーネは小さな器を手に、こっそりとノルドのもとへ近づいた。
「今日のご飯……ちょっとだけ芋が多めです」
ノルドは受け取りながら、小さく「ありがとう」とつぶやく。
「ノルドさん」
「……ん?」
「私、ノルドさんがみんなに教えてるの、すごいなって思います。前よりもっと……えっと、遠くに行っちゃいそうで、ちょっと寂しいけど」
ぽつりと漏らした言葉に、ノルドはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「大丈夫だ。俺は、ここにいる」
「……ほんとに?」
「本当だ。マルレーネがここにいる限り、俺もここを離れない」
マルレーネは、思わずほっと息をつき、照れたように笑った。「じゃあ、ずっとここにいてくださいね」
「……ああ、約束する」
その一言で、二人の間の空気がやわらかくほどけていく。
日が落ち、砦に星が瞬き始めるころ、ノルドは火を囲む仲間たちに目をやりながら、ふと背後にいるマルレーネの存在を強く意識した。
「ノルドさん、今日もお疲れさまです」
「マルレーネもな。……ありがとう」
その「ありがとう」は、仲間たちの耳にも届くほど、まっすぐな声だった。
これまでバラバラだった砦の心が、少しずつ一つになりはじめている。誰かの背中を見て、誰かのために動き、そして誰かを想う。
その輪の中心には、確かに二人の存在があった。
──それはまだ恋とも呼べない、淡くて静かな絆。
けれど、ふたりが同じ場所で同じ夜空を見上げている。その事実だけが、何よりも温かな希望だった。
翌朝の空は澄んでいたが、砦にはいつもと変わらぬ泥と汗と粥のにおいが立ち込めていた。ノルドは早くから訓練場に立ち、すでに槍の手入れを終えていた。
そこへ、マルレーネが両手で器を抱えてやってくる。
「おはようございます、ノルドさん」
「……ああ。今日も粥か?」
「はい。でも、今日はちょっとだけ雑穀を足したんです。昨日、ノルドさんが力をつけろって言ってたから」
そう言いながら、彼女は器を差し出した。
ノルドはほんの少しだけ眉を上げて、器を受け取る。
「……ありがとう。食う」
「えへへ、どうぞ」
そのやり取りを、近くにいた兵の一人が冷やかし半分に口を挟む。
「なんだノルド、お前だけ特別扱いか?」
「いいなー、粥に雑穀だなんて」
マルレーネはあわてて両手を振った。「そ、そんなことないです!たまたま……」
ノルドは軽くため息をついた。「別に、気にするな」
兵士はにやにやしながら離れていき、マルレーネはほっと肩を下ろす。
「……ほんとに、迷惑じゃないですか?」
「いや、助かってる。おかげで、今日も動けそうだ」
「よかった……」
ふたりの距離は、昨日よりほんの少しだけ近づいていた。
訓練が始まると、ノルドの姿を見つめるマルレーネの目が変わる。彼は今日も仲間を導き、戦い方を教えている。
「お前は槍の持ち方が甘い。ここをもう少し強く握れ」
「はい、ノルドさん!」
「……間合いを見ろ。焦るな、必ず隙ができる」
「……はい」
仲間たちの声や笑い声、時折響くどよめき。
焚き火を囲む夜には、男たちが輪になって語り合い、マルレーネはその輪の端で静かに鍋をかき混ぜている。
「ノルドさん、これ、温かいうちにどうぞ」
「悪いな……マルレーネ」
「ううん、全然!」
沈黙がふと流れ、焚き火の火花が夜空に散る。
マルレーネがためらいがちに言葉をつなぐ。
「ノルドさん、最近……みんなのこと、すごく気にかけてますよね」
「……ここにいる全員、生き残ってほしいからだ」
「私も、ノルドさんには、生きててほしいって……思ってます」
ノルドは短く息を吐いた。「……お前が、そう言うなら、もう少しだけ、踏ん張ってみる」
ふたりの視線が重なり、ほんの少しだけ微笑み合う。
そのやりとりを遠巻きに見ていた仲間たちの間にも、自然と柔らかな笑いが広がった。
夜が更ける。焚き火の明かりが淡くなり、砦には静かな眠りが戻ってくる。
だが、その夜、ノルドは寝床でふとつぶやいた。
「……俺にも、まだ守りたいものがあったんだな」
外には星が瞬き、冷たい風が砦の壁をかすかに揺らしていた。
それでも、ふたりの心には、ひそかな炎が静かに灯り始めていた。