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第39話

「戦争とは騙し合いだ!」


その言葉は、砦の朝に響く新たな号令のように、すべての兵士の心に深く刻み込まれていった。

ノルド――かつてクラウスと呼ばれた男が、ただの奴隷兵としてこの地に送り込まれてから、時は流れている。

彼が選んだ道は、ただ一つだった。生きて戦場から戻すこと。自分に残された責務はそれしかなかった。


砦の空気は重苦しく張り詰めている。

傷だらけの男たち、重い鎖の音、石垣の影をかすめていく冷たい風――

けれど、その静けさの中で、ノルドはいつも仲間たちをじっと見つめていた。

彼が発する言葉だけが、“生き残る”ための唯一の方法だった。


彼は兵士たちと向き合い、語り合い、必ず鍛え直して共に戦うと約束し、過酷な訓練を始めていた。

かつて最年少で将軍に抜擢され、数万の兵を動かした男。その知略は戦局を動かし、数に劣る軍勢でも勝利を掴んできた。


だが今、彼の手の中にあるのは、名も知らぬ、傷ついた奴隷兵三千だけ。

他の将たちからは使い捨てと見なされていた者たちだが、ノルドにとってはそれで十分だった。

目の前の命を見捨てることはできない。

「戦場に戻るならば、共に生きて帰る。そうでなければ、戦う意味すらない」

彼はそう決めていた。

自ら先頭に立ち、時に膝をつき、兵と同じ地に身を伏せる。


「おつかれさま、少しだけ休憩しませんか?」

その声は、剣ではなく花に似ていた。マルレーネが、籠を抱えて現れる。焼きたての芋の香りが風に乗って漂い、兵たちの頬にわずかな緩みが生まれる。


「今日はよく太ったのがあったの。……これで力をつけて」

彼女が手渡す芋に、兵の一人が感謝の言葉とともに手を伸ばす。

その仕草を見て、他の者たちも静かに列を作りはじめる。

鉄のように固まっていた空気が、すこしだけ、やわらいだ。


訓練は苛烈を極めていた。ノルドは兵たちを個別に分類し、適性に応じて役割を与えていく。

腕力のある者は近接戦、素早い者は潜伏と速攻。負傷兵には補助と罠工作。

どんなに不揃いな駒でも、配置次第で刃となる――それが、彼の戦法だった。


「傷、見せてくれる?」

マルレーネがそっと膝をつき、兵の手に包帯を巻いていく。自分の火傷もそのままに、相手の痛みに手を伸ばす。

「がんばってね。みんなでがんばって、みんな死なないで」

兵は言葉も返さず、小さく頷いた。


泥に潜る。敵の中に紛れる。死体に交じって気配を殺す。ノルドが教えるのは、栄光から最も遠い戦い方だった。

それでも彼は言う。「勝てぬなら、欺け。騙して、逃げろ。相手に死んだと思わせろ、背後を見せさせろ。必ず生き延びろ」


マルレーネが洗濯物を抱えて砦に戻ってきた。

「血は乾くと体によくないの。大変だと思うけど、あきらめないで」

誰もが口を開かない中、その言葉は静かに胸に沈んでいく。


再び訓練が始まる。訓練場には重たい空気が流れ、汗と泥が混じり合う。

敵の足跡を読む技術、一瞬で罠を仕掛ける速度。死地を生き抜く知恵を、ノルドはすべて教えた。


「その髪では敵の動きが見えないわ」

マルレーネが一人の兵の前にしゃがみ、研いだ小さな鎌を手に取る。ごつごつした肩に布をかけて、手早く切りそろえる。

「これで、大丈夫。相手の動きもきっとよく見えるはず」

兵の目元が、わずかにほころんだ。


「戦争とは騙し合いだ」

ノルドの声が静かに響く。その哲学が、この部隊のすべてに染み込んでいく。

生き残るために、誇りも手段も選ばない。だが――誰も彼を卑怯者とは呼ばなかった。

なぜなら、彼は常に兵を“死なせない”ために戦っていたからだ。


夕暮れどき、砦の入り口でマルレーネが声をかける。

「街の人も言ってたよ。“この砦の兵、何かが変わった”って」

あどけない言葉に、一瞬だけ、数人の兵が振り返る。

ノルドは、そんな兵たちを見て、小さく頷いた。命令では得られぬ信頼が、静かに根を張っていた。


再び、泥に体を沈める訓練が続く。重い足取り、曇った眼差し。

それでも、一歩ずつ、彼らは“戦える者”へと近づいていく。


その夜、マルレーネは寝付けずにいた若い兵の横に座った。

「皆、怖いの。私も怖い。でも……あなたなら、十人相手でも勝てるわ」

その冗談のような優しさに、兵は少しだけ目を閉じた。


砦の門に伝令の声が響いた。

「敵軍、接近中! 黒い鷲の旗を確認!」


ノルドは、これから始まる熾烈な戦いを予感していた。冷たい雨がぽつりと降り始める。砦の空が、かつてないほど重たく沈んでいた。


ノルドは全員を見渡し、静かに言う。

「……ここまでだ。あとは、お前たち次第だ」

奴隷兵たちは正規兵に組み込まれ、真っ先に死地へ向かう――それは、ノルドも同じだった。


返事はなかった。だが、その沈黙こそが覚悟だった。


雨が強くなる中、マルレーネが濡れた兵の肩に布をかける。

「風邪なんか引いたら戦えないわよ。……ちゃんと勝って、帰ってきて」

そして、彼女は小さく息を吐いた。

「私は、みんなが好き。……必ず、戻ってきて」

あふれる涙を必死にこらえ、気丈に言い切った。


ノルドが顔を上げる。マルレーネと目が合った。その目にあるものは、恐れではなかった。


「……クラウス……生きて、帰ってき……」

彼女は、最後まで言えなかった。目は真っ赤に腫れていた。

そしてノルドは、深く静かに、頷いた。


彼女の小さな手が、そっとノルドの袖を掴んだ。

「私も、強くなりたいんです。あなたが戦場で見てきたもの、私にも教えて……」

ノルドは一瞬だけ言葉に詰まり、やがて短く、力強く言った。

「お前が生きる場所はここだ。だが、お前の心は、どこにでも届く」


マルレーネは静かにうなずき、胸の中で彼の言葉を何度も噛み締めていた。


戦いの足音が、夜の闇を震わせる。砦の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。

それでも、マルレーネの心には、たしかな灯がひとつ、灯り続けていた――

誰にも消せない、ただ一人のための光だった。


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