「戦争とは騙し合いだ!」
その言葉は、砦の朝に響く新たな号令のように、すべての兵士の心に深く刻み込まれていった。
ノルド――かつてクラウスと呼ばれた男が、ただの奴隷兵としてこの地に送り込まれてから、時は流れている。
彼が選んだ道は、ただ一つだった。生きて戦場から戻すこと。自分に残された責務はそれしかなかった。
砦の空気は重苦しく張り詰めている。
傷だらけの男たち、重い鎖の音、石垣の影をかすめていく冷たい風――
けれど、その静けさの中で、ノルドはいつも仲間たちをじっと見つめていた。
彼が発する言葉だけが、“生き残る”ための唯一の方法だった。
彼は兵士たちと向き合い、語り合い、必ず鍛え直して共に戦うと約束し、過酷な訓練を始めていた。
かつて最年少で将軍に抜擢され、数万の兵を動かした男。その知略は戦局を動かし、数に劣る軍勢でも勝利を掴んできた。
だが今、彼の手の中にあるのは、名も知らぬ、傷ついた奴隷兵三千だけ。
他の将たちからは使い捨てと見なされていた者たちだが、ノルドにとってはそれで十分だった。
目の前の命を見捨てることはできない。
「戦場に戻るならば、共に生きて帰る。そうでなければ、戦う意味すらない」
彼はそう決めていた。
自ら先頭に立ち、時に膝をつき、兵と同じ地に身を伏せる。
「おつかれさま、少しだけ休憩しませんか?」
その声は、剣ではなく花に似ていた。マルレーネが、籠を抱えて現れる。焼きたての芋の香りが風に乗って漂い、兵たちの頬にわずかな緩みが生まれる。
「今日はよく太ったのがあったの。……これで力をつけて」
彼女が手渡す芋に、兵の一人が感謝の言葉とともに手を伸ばす。
その仕草を見て、他の者たちも静かに列を作りはじめる。
鉄のように固まっていた空気が、すこしだけ、やわらいだ。
訓練は苛烈を極めていた。ノルドは兵たちを個別に分類し、適性に応じて役割を与えていく。
腕力のある者は近接戦、素早い者は潜伏と速攻。負傷兵には補助と罠工作。
どんなに不揃いな駒でも、配置次第で刃となる――それが、彼の戦法だった。
「傷、見せてくれる?」
マルレーネがそっと膝をつき、兵の手に包帯を巻いていく。自分の火傷もそのままに、相手の痛みに手を伸ばす。
「がんばってね。みんなでがんばって、みんな死なないで」
兵は言葉も返さず、小さく頷いた。
泥に潜る。敵の中に紛れる。死体に交じって気配を殺す。ノルドが教えるのは、栄光から最も遠い戦い方だった。
それでも彼は言う。「勝てぬなら、欺け。騙して、逃げろ。相手に死んだと思わせろ、背後を見せさせろ。必ず生き延びろ」
マルレーネが洗濯物を抱えて砦に戻ってきた。
「血は乾くと体によくないの。大変だと思うけど、あきらめないで」
誰もが口を開かない中、その言葉は静かに胸に沈んでいく。
再び訓練が始まる。訓練場には重たい空気が流れ、汗と泥が混じり合う。
敵の足跡を読む技術、一瞬で罠を仕掛ける速度。死地を生き抜く知恵を、ノルドはすべて教えた。
「その髪では敵の動きが見えないわ」
マルレーネが一人の兵の前にしゃがみ、研いだ小さな鎌を手に取る。ごつごつした肩に布をかけて、手早く切りそろえる。
「これで、大丈夫。相手の動きもきっとよく見えるはず」
兵の目元が、わずかにほころんだ。
「戦争とは騙し合いだ」
ノルドの声が静かに響く。その哲学が、この部隊のすべてに染み込んでいく。
生き残るために、誇りも手段も選ばない。だが――誰も彼を卑怯者とは呼ばなかった。
なぜなら、彼は常に兵を“死なせない”ために戦っていたからだ。
夕暮れどき、砦の入り口でマルレーネが声をかける。
「街の人も言ってたよ。“この砦の兵、何かが変わった”って」
あどけない言葉に、一瞬だけ、数人の兵が振り返る。
ノルドは、そんな兵たちを見て、小さく頷いた。命令では得られぬ信頼が、静かに根を張っていた。
再び、泥に体を沈める訓練が続く。重い足取り、曇った眼差し。
それでも、一歩ずつ、彼らは“戦える者”へと近づいていく。
その夜、マルレーネは寝付けずにいた若い兵の横に座った。
「皆、怖いの。私も怖い。でも……あなたなら、十人相手でも勝てるわ」
その冗談のような優しさに、兵は少しだけ目を閉じた。
砦の門に伝令の声が響いた。
「敵軍、接近中! 黒い鷲の旗を確認!」
ノルドは、これから始まる熾烈な戦いを予感していた。冷たい雨がぽつりと降り始める。砦の空が、かつてないほど重たく沈んでいた。
ノルドは全員を見渡し、静かに言う。
「……ここまでだ。あとは、お前たち次第だ」
奴隷兵たちは正規兵に組み込まれ、真っ先に死地へ向かう――それは、ノルドも同じだった。
返事はなかった。だが、その沈黙こそが覚悟だった。
雨が強くなる中、マルレーネが濡れた兵の肩に布をかける。
「風邪なんか引いたら戦えないわよ。……ちゃんと勝って、帰ってきて」
そして、彼女は小さく息を吐いた。
「私は、みんなが好き。……必ず、戻ってきて」
あふれる涙を必死にこらえ、気丈に言い切った。
ノルドが顔を上げる。マルレーネと目が合った。その目にあるものは、恐れではなかった。
「……クラウス……生きて、帰ってき……」
彼女は、最後まで言えなかった。目は真っ赤に腫れていた。
そしてノルドは、深く静かに、頷いた。
彼女の小さな手が、そっとノルドの袖を掴んだ。
「私も、強くなりたいんです。あなたが戦場で見てきたもの、私にも教えて……」
ノルドは一瞬だけ言葉に詰まり、やがて短く、力強く言った。
「お前が生きる場所はここだ。だが、お前の心は、どこにでも届く」
マルレーネは静かにうなずき、胸の中で彼の言葉を何度も噛み締めていた。
戦いの足音が、夜の闇を震わせる。砦の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
それでも、マルレーネの心には、たしかな灯がひとつ、灯り続けていた――
誰にも消せない、ただ一人のための光だった。