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第45話

闇夜がすべてを覆っていた。亡骸、偽装──そのどれもが、綿密に仕組まれた戦いの一部となっていた。


後方では、死体を馬に乗せた騎馬兵たちが、敵からは見えない位置に静かに展開している。彼らは合図となる白い旗を掲げていた。その旗は夜目にもかすかに浮かび上がる。


ロクス司令官は勇敢に敵陣へ突撃していた。だが、敵の兵力は二万、こちらは六千──まともな戦では到底勝ち目はない。それでも兵たちは、死をも恐れずに戦い抜いていた。


ロクスは合図の笛を鳴らす。各隊はじりじりと後退しつつ、敵を扇状に展開させ、あらかじめ決められた地点へと誘導する。その動きには寸分の狂いもない。白い旗が目に入る位置まで来ると、さらに別の笛が鳴り響く。旗はゆっくりと降ろされ、その瞬間、兵たちが叫び声を上げた。


「助けてくれ!」「殺される!」「死にたくない!」


彼らは本気で逃げ惑うふりをし、馬の速度を細かく調整して、敵を見事に指定の場所まで誘い込む。その様子は、命からがら退却していく敗軍そのものだった。


やがて白旗の下に控えていた二百騎ほどの部隊が、後退してきた部隊と合流しつつ、馬上から死体を地面へ投げ落としながら、さらに後方へと退いていく。


その最中、戦の太鼓が響き、金属がぶつかる音、断末魔の叫び声、「逃げろ!」という声が夜の野に広がった。


敵軍は、地面に転がる死体の山を目にし、これを勝利の証と信じて疑わなかった。


暗闇の中、敵の追撃はそこで止まり、戦利品をあさる者たちは拠点へ引き返していった。


この作戦の肝は、「死体の数」で敵を欺くことにあった。しかし、ただ死体を転がしているだけでは、すぐに敵に見破られる。本気の戦闘、犠牲を覚悟の偽装をやりきる必要があった。


ロクス司令官は、戦いながら撤退するという芸当を成し遂げた。彼は要領がいい、あるいは卑怯だと陰口を叩かれることもあったが、その実力は間違いなかった。


クラウスは、無能に見える指揮官を前面に立てることで、敵を油断させるほうが効果的だと考えていた。その作戦は、的確に敵の盲点を突いていた。


この偽装作戦を成功に導いたのは、クラウスと共に死線をくぐり抜けてきた、かつての奴隷兵たちだった。


彼らの役割は明確に分けられていた。激しい戦闘を受け持つのは正規兵、混乱や逃走、演技は奴隷兵。双方が緊張感を絶やさず、戦場の芝居を完璧に演じきった。


クラウスの主力二千は、敵陣を直接叩くための部隊だった。彼らの目的は、敵を削ると同時に、新たな亡骸を確保することにあった。これは、並の兵には務まらない、高度な技術と覚悟を要する任務である。


最強の千は奴隷兵の装い、残る千は正規兵の姿。兵力を巧みにごまかし、損耗を最小限に抑えるための采配だった。


一方、ロクス司令官の隊が敵を扇状に広げ、誘導するあいだ、クラウスは別動隊を率いて敵の簡易砦へと突撃した。


「必ず、自分より弱い兵と戦え。負けそうになったらすぐに引け。生きて帰ることが最も重要だ」


クラウスは、作戦前に兵たちへそう伝えていた。


だが、兵士たちは皆知っていた。もしここで敗れれば、自分だけでなく、家族にも報復が及ぶことを。それが、この戦場で生きる者の現実だった。


だからこそ、彼らは死を恐れず、クラウスの確信に満ちた声と背中を頼りに突撃した。


クラウスは自ら先陣を切り、敵兵をなぎ倒していく。その後ろから、奴隷兵と正規兵が混ざり合い、激しい突撃を繰り返す。彼の鬼神のごとき突破力に、敵兵は怯え、混乱し、隊列を崩していった。


その混乱をさらに押し広げるように、精鋭千騎が次々と敵陣を突破していく。まるで波が岩を削るように、彼らは敵の戦線を崩し、隙間を生み出していった。


混乱に乗じて、何人かの正規兵が戦場から亡骸を回収し、馬に乗せて布で覆い、素早く闇へと運び去っていく。その一部始終は、短時間で完遂された。


敵軍には、何が起きているのか理解できない者が多かった。クラウスたちが去ったあとに残ったのは、味方と敵の亡骸、そして血に染まった黒い布がいくつか──それだけだった。


クラウスはまた、上官と思われる者は極力殺さないよう命じていた。常識では考えられない命令だが、それもまた欺きのための布石だった。生き残った上官たちは、自軍の損害は軽微で、敵には多大な被害を与えたと錯覚した。


あらゆる手段を尽くして退路も確保されていた。


クラウスが砦へ戻ったとき、彼の鎧も顔も、真紅の血に染まっていた。それは、敵にも味方にも「鬼神」と恐れられる瞬間でもあった。


この戦いで、クラウスの部隊は約千の損害を出した。しかし敵の認識は違った。自軍の損害は軽微、相手には四千の損害を与えた。指揮していたのは、無能なロクス。装備も練度も低い、ただの弱兵だ──そう敵は判断した。


それこそが、クラウスの策略だった。敵に油断と過信を生ませ、こちらの残存兵力を過小評価させる。巧妙な偽装であり、さらなる勝利の布石だった。


さらに、敵の損害が「軽微」と報告されたのは、クラウスたちが亡骸を持ち帰ったからだ。敵は、仲間の死体が見当たらないことで、多くが逃亡したと勘違いした。


失敗は小さく、成果は大きく──そう報告するのが戦場の常だと、クラウスは知っていた。


だが、これはまだほんの序章に過ぎない。すべては、この先に仕掛ける決戦のための、最も重要な布石であった。


──ここから、クラウス率いるクスタリカ軍と、名将グラディオス・ダルザーン率いる十万の大軍との、本当の総力戦が始まるのだった。


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