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第44話

クスタリカの南方丘陵に、灰色の幕が張られたように、濃い霧が沈んでいた。夜明け前の冷たさが一帯を包み、夜の帳だけが静かに広がっている。


その霧の向こうで、グラディオス・ダルザーンはじっと地図を見つめていた。幕舎の中では、燃えさしの炭が赤く灯り、参謀たちの報告を淡々と聞きながら、彼の表情はほとんど動かない。


「街の様子は」


「包囲は完了しました。敵は砦に引きこもり、出てくる気配はありません」


「兵力は」


「およそ四万と見られますが、ほとんどが奴隷兵か弱兵と考えられます」


グラディオスは小さく息を吐いた。


「変わった情報は?」


「王都から新たな司令官が派遣されたとのことです。名はクラウス──かつて“小国の英雄”と呼ばれた人物だと」


その名を聞いた瞬間、グラディオスは鼻で笑った。


「他国出身の者を、すぐに将軍に据える? しかも、最前線に? いや……それほど、あの王は愚かではない」


参謀たちが顔を見合わせるなか、彼は地図の上を軽く指先でなぞる。


「名前で揺さぶるしかない時点で、指揮官の質が知れる」


参謀のひとりが口を挟む。


「残り三つの砦を落とし損ねたのは痛手でした」


「それでも、一つ落とせただけ上出来だ。十万の兵を前にすれば、まともな指揮官なら精鋭を即座に引かせる。残したということは……やはり敵将は愚者の様だ」


「密偵の報告は途絶えています。門は閉ざされ、内部の動きは一切不明です」


「ふむ……だが、それも当然か。密偵を断つ程度の警戒は、さすがに取るだろう」


グラディオスは再び地図に目を落とした。


「力攻めでも落とせるが、それなりの被害は覚悟せねばならん。急ぐ理由もない。少し様子を見るか」


「兵には、夜襲に備えた警戒を徹底させておけ」


──その言葉通り、夜はすでに、動き始めていた。


闇に紛れ、音もなく進む一万の騎兵。その先頭にいるのは、くたびれた鎧をまとい、痩せた馬に乗った兵たち。軍勢というより、烏合の衆にも見える光景だった。


その一団の先頭に立つのは、ロクス・ハーリン。大声で、震える声ながらも確かに指示を飛ばしている彼は、かつてクラウスの奴隷部隊の指揮官だった。


そのロクスに命令を下しているのは、粗末な奴隷兵の装いのクラウス将軍だった。


ロクスの指揮する部隊は、約二千が正規兵の装備をまとい、残る八千が粗末な奴隷兵の姿をしていた。


馬はやせ細り、脚を引きずる者すらいた。


だが、それはすべて偽装だった。


武器は研ぎ澄まされ、鎧の内側は最新の鋼鉄で補強されている。


馬には泥と灰が塗られ、老馬のように見せかけているが、その脚筋は鍛え抜かれていた。


そして異様なのは、後方に控える騎馬二千の背後に、それぞれ一体ずつの死体が縛り付けられていたことだった。


それぞれに、正規兵と奴隷兵の装備をつけていた。


その死体は、最前線の砦から傷を負って帰還したものの息絶えた者、あるいは街で病や老衰で命を落とした者たちだった。


クラウスが手を挙げると、ロクスがそれを合図に声を張り上げた。


「突撃っ……!」


その声は震えていたが、恐怖からではない。


クラウス将軍の一言が、胸に焼きついていた。それがロクスを突き動かしていた。


──「街を守れたら、あなたは“名将”と呼ばれます」


その言葉を頭に思い描きながら、ロクス・ハーリンは、敵陣へと騎兵を駆けさせた。


「グラディオス総司令官殿。予想通り、敵襲は南の方角にて確認されました」


報告を受けたグラディオスは、顔色一つ変えず参謀を促した。


「被害は?」


「軽微です。敵には多大な損害を与えたとの報告です」


「詳しく話せ」


「敵はおよそ八千の騎兵による突撃でした。一部には精鋭と見られる部隊があり、突破を許してしまいましたが、その他の敵兵は脆弱で、四千ほどを討ち取ったとのことです」


「率いていたのは、ロクス・ハーリンという将軍でした。以前の密偵の話では、独裁的な指揮で兵を従わせていた人物とのことです」


「それは確かか?」


「はい。敵兵の死体も確認済みとの報です」


グラディオスは喉の奥で小さく笑った。


「ロクス・ハーリン──滑稽なものだ。夜襲など、この私に見抜けぬとでも思ったのか」


その顔には、勝利への確信と満足げな色が浮かんでいた。


参謀も同様に、唇の端に侮蔑の笑みを浮かべた。


「今回の戦い、我らの大勝利となるかと」


グラディオスは地図を指でなぞりながら、静かに言葉を続けた。


「敵は無策。すべてはこちらの掌の上だ。明日には、クスタリカの城門が開かれるだろう」


そう言い放つ声には、一切の油断も焦りもなかった。


だが、その静けさの裏で、クスタリカの城壁の内側では、クラウスがすでに次の手を打ち始めていた。


夜明けの霧が晴れる頃、新たな戦局が静かに動き出そうとしていた。


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