――雲ひとつない朝だった。
青空のもと、広場には兵も民も、老いも若きも集まり、張り詰めた静寂に包まれていた。
壇上のクラウスは、鎧と剣を陽光に輝かせながら、ゆっくりと街の人々を見渡した。そのまなざしは、まるでひとりひとりを抱きしめるかのように、やさしくも強かった。
「クスタリカの民たちよ!」
高く澄んだ声が、石畳を走り抜け、隅々まで響き渡る。
思わず息を呑むように、誰もがその場に立ち尽くした。
「私がクラウス将軍である!」
その名を、子どもたちまでもが知っている。英雄の噂は、物語となり、願いとなり、この街の希望そのものとなっていた。
「王の命を受け、この街の防衛を任された」
クラウスの声は迷いなく響いた。
「だが、今の状況では、その任を全うすることはできない」
空気が震える。
「敵は十万を超える大軍。対する我が兵力は三万に過ぎない」
ざわめきと動揺の波が広場を駆け抜ける。
しかし、クラウスは続けた。
「総司令官ガリウス・デヴァルドの精鋭二万はここにはいない。
この街を守る兵の多くは、奴隷兵であり、装備も万全とは言えない。
敵は兵数でも、武器でも、我々を圧倒している」
事実を、決して誤魔化さず告げる。その誠実さが、かえって民たちの胸を打った。
「それでも私はこの街を守ると決めた」
言い切った瞬間、誰もがその横顔に目を奪われた。
「この街を守る方法はひとつしかない──民の力を結集することだ」
「武器を取れとは言わない。戦うのは我々兵の責務だ。だが、諸君たちの協力なくして勝利はない」
「私は一人たりとも死なせない。命をかけて、この街を守る」
真剣なまなざしが、遠くの塔の上まで貫いた。
「君たちは、この街と共に滅びる道を選ぶのか?」
「女子どもが奴隷にされることを、受け入れるのか?」
「私は断じて、そんな事は許さない。命を投げ出してでも敵を止める」
声が震えるほどの熱と、涙がにじみそうなほどのやさしさ――
「あなたたちも、命を懸ける覚悟でこの街を守ってください」
「そうすれば、必ずこの街は救えます」
広場に沈黙が満ちた。
やがて、どこからともなく男が叫ぶ。「俺たちの町だ!」
次いで別の声が続く。「俺たちが守る!」
それは雪崩のように、街の隅々まで伝わり、
「英雄クラウス将軍なら守ってくれる!」「そうだ!」「間違いない!」
最後には、広場が一つの声になる。「英雄クラウス将軍万歳!」
クラウスは民の熱に包まれながら、静かに剣を天に掲げた。
その時、朝の光は一段と強く降り注ぎ、彼の鎧を、そして人々の決意を、黄金色に照らした。
壇上の周囲では、彼を支える司令官たちが鎧をまとい、黙ってその背中を見つめていた。
マルレーネもまた鎧姿で、広場の端からクラウスの横顔を見つめていた。
あの朝からずっと続く胸の鼓動は、いまだ静まる気配を見せなかった。
ただ一人、ロクス司令官だけは、拳を強く握りしめ、噛みしめていた。
――クラウスから「あなたも名将になれる」と言われた、その一言が胸に残っていた。
クラウスの演説から街は動き出した。
民たちは家を出て広場に集まり、若い者は力を、老いた者は知恵と手を、女や子どもは物資を、互いに惜しみなく差し出した。
鍛冶場には朝から火が絶えず、町中から鉄や木材が集まった。
新しい武具と盾、投石器、鎖の仕掛け。
家々の壁は解体され、防衛線や遮蔽物として外壁に積み上げられた。
罠を仕掛ける者、通路を封鎖する者。
まきびしやロープ、袋小路の構築、仕掛け壁の設置など、知恵を絞り工夫が繰り返された。
ただし火だけは使わなかった。延焼を恐れて――それがクラウスの判断でもあった。
街全体が「自分たちの町を守る」という強い意志に包まれた。
誰一人諦めてなどいない。
正規兵も奴隷兵も区別なく、鍋を囲んで同じ粥をすすり、夜はともに火を囲みながら、明日を語り合った。
「お前、手伝えるか?」「うん、縄を結ぶのは得意なんだ」
「なあクラウス将軍、本当に……勝てるのか?」
「勝つさ。必ず」
クラウスは準備の合間にも民の中を歩き、時に膝をついて子どもと話し、老婆の手を取って感謝を述べた。
その姿に、住民も兵も誇りと勇気を取り戻していった。
夜になると、砦の外から不穏な太鼓の音が響きはじめた。
「いよいよ来るぞ」
「ここが正念場だ」
月のない漆黒の空の下、クスタリカの四方の門には、小さな灯が並んでいた。
静かに揺れるその炎は、闇を照らす光であり、人々の胸にともされた決意と希望そのものだった。
やがて総攻撃を告げる重いドラの音が、街全体を震わせた。
クラウスは、マルレーネにそっと言葉をかける。
「お前は安全な場所にいろ」
「いやです、私は一緒に戦います!」
クラウスは苦笑しながらもう一度抱きしめた。
「じゃあ、隣にいてくれ。お前がいると、俺は何があっても立ち続けられる」
マルレーネはうなずき、涙をこぼしそうになりながら「必ず、生きて帰ってきて」とだけ伝えた。
敵軍のたいまつの列が、闇の彼方にゆらめく。
クラウスは剣を手にし、民と兵士たちの前に立つ。
「ここが、我々の街だ!」
――決戦の夜が、静かに、しかし確かに、始まろうとしていた。