目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第42話

クラウスの判断は正しかった。


敵は十万を超える大軍で、クスタリカに迫ってきた。その進軍は、森の静寂も山の気配も踏みにじり、圧倒的な存在感で町を包み込もうとしていた。


要塞といえど、五千の兵で五万の敵を受け止めるのが精一杯。もし敵が本気で決死の突撃を仕掛けてきたなら、二万にも満たない守備隊で城を守り抜くことはできない。どれほどの名将でも、数と地形の理は動かせない。


すでに一つ、最前線の砦は壊滅していた。燃え盛る石壁、煙と炎が敗北の予感を町に突きつけていた。だがクラウスの的確な指示で、残る三つの砦の部隊は、辛くもクスタリカに撤退できた。


もし彼の即断がなければ、先鋭部隊一万五千は消えていた。


今、クスタリカに残る兵力は、鍛え抜かれた先鋭一万五千と、戦力にならぬ二万の兵士。数の上では三万五千だが、その質の差が勝敗の行方を決めてしまう。


一方の敵軍は、いまだ無傷。恐れられていた味方のガリウス総司令官の精鋭師団二万は、すでに失われている。


そして、侵攻を率いるのは、名将グラディオス・ダルザーン。幾度も勝利をもたらした老将であり、戦場の支配者として敬意さえ集める人物だ。


「……グラディオスか」


地図を見つめ、クラウスが静かに名を呟いた。歯を食いしばる音が、部屋の空気を震わせる。


もはや並の策では、この町を守りきることはできない──その現実を、クラウスは即座に悟っていた。


クスタリカは防衛のための町ではない。人が暮らし、火を焚き、日々の営みがある場所だ。火矢一本で、町はすぐに炎に包まれる。特殊部隊が潜入すれば、中から崩壊が始まるだろう。


勝つためには、万に一つの可能性に賭けるしかない。常識や正攻法では届かない、危険な賭け。


たとえその賭けが勝利をもたらしても、払う代償は計り知れない。多くの兵が倒れ、自らの命も引き換えになるかもしれない。


クラウスの視界に、かつて燃え落ちた祖国の光景が蘇る。守れなかったあの町、救えなかった人々の影。それだけは、二度と繰り返すわけにはいかなかった。


「……もう、同じ炎で、この町を焼かせはしない」


彼はそう胸の内で誓った。


その代償が、たとえ命を捧げることでも、クラウスは迷いなく選ぶ。


もしそうなれば、マルレーネと生きる未来は潰える。だが英雄クラウスには、迷う余地などなかった。


そこへ、マルレーネが静かに近づく。炉の煤がまだ頬に薄く残り、瞳だけはまっすぐに彼を見つめている。


「私も、この町の人たちを守りたいの」


その言葉に、クラウスはごく短く頷いた。


「この状況で町を守る道は一つしかない。俺の命も兵の命も、全てを賭して勝つしかない」


マルレーネは、彼の目を見て言った。


「それで救えるなら、私はかまわない。クラウスも、本当は救いたいのでしょう?町も、人も、あなた自身も」


彼は返す言葉を持たなかった。だが、マルレーネのまなざしに、かつて自分が持っていた勇気を見た気がして、視線を外すことはできなかった。


「私はね、あなたが死んでも、生きるわ」


その静かな声に、クラウスの胸は強く貫かれた。


彼は、その芯の強さを誰よりも知っていた。マルレーネが、どれほどの覚悟でこの場に立っているかも。


だからこそ、強く、ためらいなく応える。


「……わかった。君がそう言うなら、この街は必ず守る」


「君は──生きてくれ。何があっても、生き延びてほしい」


「……はい」


マルレーネの返事に、クラウスの迷いはすべて消え去った。


彼はマルレーネを静かに、そしてしっかりと抱きしめる。それが最後の抱擁かもしれないと知りつつも、彼女のぬくもりを確かめていた。


マルレーネは、まだ年若い少女だった。

それでも、荒くれ者たちの奴隷兵たちを相手に、日々の世話をこなし、彼らの傷を癒やし、時には心までも支えてきた。

その芯の強さは、戦場に生きるクラウスですら──自分よりも強いのではないか、と思わせるほどだった。


夜が明け、決戦の日が訪れた。


クラウスは、一万の騎兵を率い、クスタリカの南門に静かに立つ。

朝靄の中、街道の彼方には、黒い雲のような敵軍が押し寄せてくる。

旗が翻り、剣と槍が陽にきらめく。大地を踏みならす音は、遠雷のように空気を震わせていた。


誰もが、その数に圧倒されていた。だがクラウスの表情に、迷いはなかった。


「全軍、隊列を組め!」


その号令に、兵士たちはわずかな緊張とともに陣を整える。

敵は十万。こちらは一万。だがその一万は、数々の死地を潜り抜け、鍛え上げられた勇者たちだった。


クラウスは、剣を高く掲げる。

その剣先に、朝陽が反射して一筋の光が走る。

兵たちは、ただその姿に見惚れていた。

英雄の名にふさわしい立ち姿──それが、絶望の淵にあった者たちに新たな命を吹き込んだ。


「諸君! 恐れるな! 我々には、守るものがある!」


声は力強く響き、兵士たちの胸を打つ。


「この町を、家族を、仲間を、恋人を、必ず守る! そのために、我々はここに立っている!」


「死を恐れるな! この命を懸けるに値するものが、クスタリカにはある!」


騎兵たちの視線が一点に集まる。


「突撃の時、ただ前を見よ。お前たちの背後には、この町の未来がある!」


誰ひとり、退く者はいなかった。


クラウスは、最後にマルレーネを振り返る。

彼女は鎧姿で、じっと彼を見つめていた。


「君は、必ず生き延びろ。……それが、俺の願いだ」


「はい」


マルレーネの返事は、静かだが揺るぎなかった。

クラウスはもう一度うなずき、馬上から剣を振り下ろした。


「全軍、突撃──!」


勇者たちの雄叫びが、南門から轟き渡った。


クラウスを先頭に、一万の騎兵が一斉に駆け出す。

大地を震わせ、怒濤の勢いで敵軍に突き進んでいく。


その姿を、クスタリカの町の人々は固唾を呑んで見守っていた。

誰もが、英雄クラウスの背中に、自らの希望と未来を託していた。


戦の喧騒の中、マルレーネは祈るように手を組んだ。

「どうか──クラウスを、みんなを、守ってください……」


空は高く、雲は静かに流れていく。


そして、伝説の一日が、始まった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?