目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第41話

翌日の昼頃、前線の砦から赤い狼煙が立ちのぼった。

それは緊急時の合図であり、敵軍の接近、あるいは砦が包囲されたことを街に知らせるものだった。

やがて、夕方までには最前線四つすべての砦から、赤い煙が天を焦がした。


クスタリカの兵士たちは騒然となる。「勝っていたのではなかったのか?」「なぜ狼煙が上がる?」「前線がすべて敵に迫られているのか?」

「この街はどうなるんだ」「また、みんな死ぬのか」といった嘆きの声をかき消すように、誰かが叫ぶ。


「クラウス将軍がこの街に向かっているらしい!」


「あの小国は滅びたのではなかったか?」「将軍は生きていて、この国の将軍になったらしい」


「三千の兵で五万の軍を破り、最後には単騎で敵の王の首を取った。その国では英雄と呼ばれていたらしい」


戦火の絶えぬこの時代、将軍たちの噂話は兵士たちの数少ない娯楽だった。

その手の噂は、しばしば誇張され、拡大されていくものでもあった。


翌朝、早馬の伝令が総司令部へと駆け込む。

その知らせは、ロクス司令官のもとにも届けられた。


──総司令官が殲滅戦に赴いた先で敵軍に包囲され、総司令官および副官四名が戦死。兵たちは散り散りに逃走し、状況は不明。各砦にも敵軍が向かっている──


報告を受けたロクス司令官の顔は青ざめ、椅子に崩れ落ちるように呟いた。


「……どうなっているんだ……」


一般兵の間にも不安と恐怖が広がっていく。


「俺たちだけで守れるわけがない……」「もう終わりだ……」


その混乱をよそに、奴隷兵たちは静かに民家の影へ身を消していった。


一方その頃、クラウスはマルレーネとともに鎧の装着を終えようとしていた。

マルレーネにとって鎧を着るのは初めてのことであり、クラウスが丁寧に装着を手伝っていた。


奴隷兵と入れ替わるように、顔を覆う上等な鎧を身に着けた兵士たちが現れ、「我らは王都から派遣された援軍である」と名乗る。


クラウスとマルレーネ、そして鍛え上げられた選抜奴隷兵たちは、正規軍でもまだ導入されていない新型のフルフェイス型鎧に身を包み、悠然とロクス司令官の前に姿を現した。


クラウスの装備は、かつての総司令官ガリウスをも凌ぐほどの美しさと重厚な威圧感を放っていた。


ロクス・ハーリン司令官の執務室は、重い扉が音を立てて閉まったその瞬間、張りつめた沈黙に包まれた。


「……お前は、ノルドか?」


男は軽く頭を下げたが、その返答は意外なものだった。


「ノルドではありません。クラウスです」


その名を聞いた途端、ロクスの表情がわずかに引きつる。


「最近の噂でよく耳にする……クラウス将軍、なのか?」


男は微笑むこともなく、ただ静かにうなずく。


「はい、そうです。ノルドは仮の名でした」


ロクスはじっと彼を見つめる。装備の美しさ、そして内に秘めた覚悟と威圧感には、確かに将軍の風格があった。


「なぜお前は、そんな格好をしている?」


「これは、私が将軍だった頃の装備です」

クラウスは落ち着いた声で応える。


「……何をしに来た」


「あなたを、私と共に総司令部へお連れするためです」


「馬鹿なことを言うな!」


ロクスは椅子を蹴って立ち上がり、怒声を上げた。


だがその瞬間、空気が一変した。

クラウスが静かに鞘から剣を抜き、風を切るような音とともに、部屋の中央にあった巨大な木製のデスクを一刀両断する。


音もなく割れる机。

鋭く断たれた切断面が傾き、床に散らばる破片だけが、それが現実であることを示していた。


「……大変申し訳ありませんが、あなたの選べる道は二つです」

クラウスの声は終始穏やかだった。


「私と共に来ていただくか──この場で死んでいただくか」


ロクスは一歩、後ずさる。震える唇から、ようやく絞り出すように声が漏れた。


「……わかった。本当に……お前がクラウス将軍なのだな……」

「連れて行く……連れて行くから、私を殺さないでくれ……」


クラウスは軽く一礼し、剣を静かに鞘へと収めた。


「では、参りましょう」


街ではさらに混乱が広がっていた。総司令部の前には住民たちが詰め寄り、「お前たちにこの街が守れるのか!」と叫び声を上げる。過去には考えられなかった光景だった。軍の権威が地に落ち、住民の不安が臨界点に達していた。


ロクス司令官は、まるで追い立てられるように先頭を歩かされ、その後ろを、白馬にまたがったクラウス将軍がきらめく鎧を身にまとい、悠然と進んでいく。さらにその後方には、怯えるように従う二千の正規兵、そして最後尾には三千の選抜奴隷兵が、重装備で進軍していた。


ノルドたちの奴隷部隊――いまや装備も士気も、正規兵をしのぐ最強の軍勢となっていた。その進軍はゆっくりと、あえて「見せる」ための行進だった。


「クラウス将軍だ……!」「あれが、あの英雄か!」


どこからともなく囁きが上がり、やがて歓声に変わる。「総司令部に向かっているぞ!」「この街を救うために王都から派遣されたらしい!」


「援軍は来るのか?」「いや、すぐには来られないらしいぞ!」


若い娘たちが黄色い声を上げる。「白馬の王子様って、本当にいたんだ……!」


その横で、鎧を着たマルレーネが少しジト目になってクラウスを見つめていたが、クラウスは正面を見据えたまま。気づいているのかどうかは誰にも分からない。


クラウスが総司令部の門前に到着するころには、街の屈強な男たちも次々と鎧を身にまとい集まり、その規模は一万にも膨れ上がっていた。


クラウスはロクス司令官に命じる。


「総司令部の門を開けなさい」


命令に従って門が開かれると、群衆も一斉に押し寄せ、司令部の構内へとなだれ込んだ。それを上階の司令室から見下ろしていた軍上層部の面々は、ただ茫然と立ち尽くすばかりだった。


クラウスは、選び抜かれた数十名の兵士とロクスを伴って、堂々と司令室へと向かう。


「この方は、王都より至急派遣されたクラウス将軍である!」


ロクスは怒鳴るように叫びながらも、足元はわずかに震えていた。


「決して手を出すな!」


重厚な扉が音もなく開き、クラウスは総司令官室に足を踏み入れる。


部屋にいた司令官たちは、その異様な気配に息を呑み、ただその場で凍りついていた。


クラウスは一礼もせずに視線を巡らせ、正面の最高司令官席にいる男へ向かって、静かに口を開いた。


「初めまして。私が総司令官代理として派遣されたクラウス将軍です。共にこの街を守りましょう」


沈黙が室内を支配した。やがて、一人が声を震わせて尋ねる。


「……王命は、どこに?」


「至急のことゆえ、王命は後ほど届きます」

クラウスは微笑むこともなく、落ち着いた声で答えた。


どよめきが広がる前に、さらに言葉を重ねる。


「あなた方の力でこの街を守れるのであれば、私は今すぐ退きます。ですが、王命が後から届いたとき──この街が失われていれば、あなた方の首は確実に落ちるでしょう」


一瞬、全員が息を呑んだ。


「もっとも──その前に、この街ごと、あなた方が消えているかもしれませんが」


室内は再び静まり返った。


クラウスはわずかに前へ歩み寄り、重く低い声で問いかけた。


「──どうされますか?」


軍上層部の面々に、もはや選択の余地はなかった。

むしろ、この街を救ってくれるのなら、もはや誰であっても構わない──そう思っていた。


やがて、一人の司令官が膝をつき、静かに答える。


「……分かりました、クラウス総司令官代理殿。私たちは、あなたの指示に忠実に従います」


クラウスは一つうなずき、背後の兵士に命じた。


「至急、前線のすべての砦の兵──逃げ遅れている者も含め、クスタリカに戻すよう狼煙を上げなさい」


誰も動こうとしない中、クラウスの声が鋭く響く。


「これは命令です。すぐに動け!」


その瞬間、伝令が踵を返して走り出した。


クラウスは広げられた地図の前に立ち、指先で砦の配置をなぞる。


「──それでは、これより街を守る計画に入ります。現状を報告してください」


マルレーネは鎧姿のまま、部屋の隅の椅子に座っていた。頭の中は真っ白だった。


説明は受けていた。だが実際に、総司令部でクラウスが総指揮官として冷静に指揮を執る姿は、あまりにも力強く、美しかった。胸の鼓動だけが、抑えきれずに鳴り続けていた。


クラウスは、マルレーネをどこか安全な場所へ避難させようと何度も勧めていた。

だが彼女は、いつも同じ言葉でそれを拒んでいた。


「いきるのも、しぬのも、いっしょでないと、いやです!」と、なみだめで。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?