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第52話

ある晩、アルヴァン王子が幸福に満たされていたその頃──

一人の男は、ひとりきりで絶望の淵に立たされていた。


無骨な石造りの部屋。その中央で、護衛隊長シグルドは漆黒の髪をぐしゃぐしゃにかき乱していた。

指の動きには怒りと焦りが滲み、それがそのまま彼の心の内を物語っていた。


「バカ王子……俺の首が飛ぶだろうが」


誰に向けたわけでもない、独り言だった。


「お前は目立ちすぎるから来るな、だと?」


「クソッ……俺がどれだけ優秀でも、傍にいなけりゃ守れねぇだろうが……」


シグルドはアルヴァン王子と同い年であり、幼い頃に遊び相手として王宮に召された。

共に遊び、学び、剣を交えて育ってきたふたりの間には、臣下と主君という関係を超えた信頼があった。


王子が最も信頼する人物として、今やシグルドは欠かせない存在だった。


シグルド自身も、王子の誠実さや国を思う気持ちを深く理解していた。

アルヴァン王子が国王になれば、この国はきっと良くなる──

シグルドは、そう信じていた。

だからこそ、どんな危険が待ち受けていようと、王子を守り抜くと、自らに誓いを立てていた。


シグルドは中流貴族の三男として生まれ、王子との身分差は歴然としていた。

それでも──ふたりの間には、立場を越えた信頼があった。

長い年月を共に過ごすなかで育まれたその絆は、親友と呼ぶにふさわしいものだった。


しかし、アルヴァン王子が「ドンパッチ」と名乗って学園に通い始めてから、シグルドは同行を禁じられていた。


「お前がいたら、バレるからな」


シグルドはこの国では珍しい黒髪の持ち主で、背が高く、体格も王子より一回り大きかった。

顔立ちはやや厳しく、鋭い目元と無口な性格が相まって、クールで近寄りがたい印象を与える外見だった。


このような人物が学園に現れれば、目立つのは当然だった。

王子の判断は、客観的に見て妥当なものだった。


──変装して学園に通うという、王子の行動のほうが間違っている気がする。


シグルドは、最初に王子の変装姿を見たとき、思わず吹き出しそうになった。


「……やりすぎだろ、これは。すぐに嫌われて諦めると思ったんだけどな」


そのため、あのときは「かしこまりました」とだけ答えてしまった。


しかし、予想に反して、王子は今も学園に通い続けていた。

さらに、ティーナとも順調に関係を築いている。

親友としては喜ばしいが、護衛隊長としては頭の痛い状況だった。


「……俺まで道連れかよ」


シグルドは、深く息を吐きながら心の中でそうつぶやいた。



学園では、近いうちに演劇の発表会が行われるという噂が広がっていた。

「校長がそう言っていたらしい」との根拠の薄い話だったが、生徒たちはすっかり浮き足立っていた。


「また劇か? あの校長、真面目すぎるんだよ」

「演じる側も観る側も大変なんだから、もう少し考えてほしいよな」


男子たちの間では不満の声が目立ったが、反対に女子たちは期待に胸を膨らませていた。


「今度は王子様とお姫様の話なんじゃない?」

「ドンパッチ君とティーナ、劇の練習してたって聞いたよ」

「あんな廊下で告白なんて、普通じゃありえないでしょ。でもあれ、迫真の演技だったよね」

「お姫様役、選ばれたいな……」


これらの噂の発信源は、他ならぬアルヴァン王子本人だった。

廊下でのあの一幕は、王子がやらかしたことではあるが、ティーナの立場を考えると、「劇の演技」として処理する以外に方法はなかった。


すべては、ティーナを守るためだった。


そして、ドンパッチが登校する前日。

新たな話題が教室をにぎわせていた。


「新しい転校生が来るって! 背がすごく高いらしいよ」

「ドンパッチ君も不思議な魅力あるけど、新しい子も楽しみ~」


女子たちは嬉々として話し、男子生徒たちは警戒感を強めていた。


「マジか……もうライバルは勘弁してほしい」


一方、ドンパッチは最近、すっかり周囲に溶け込んでいた。

下を向くこともなく、自然に友人たちと会話を交わし、表情にも次第に余裕が見え始めていた。


おそらく、かなりの腕を持つ職人に変装を依頼したのだろう。


近くで見ても違和感がなく、顔立ちはふくよかで、目も小さく目立たなかった。


ただ、その瞳の色だけは──美しく、深く澄んだ王家特有のブルーを宿していた。


生徒たちに問い詰められたとき、ドンパッチは落ち着いた様子で答えた。


「僕、劇なんて初めてで、不安で……頭がぼーっとしてて……。ティーナさんなら、うまく合わせてくれると思ってて……。気づいたら、ああなってて……。正直、何を言ったか覚えてないんだ。ティーナさん、本当にごめんなさい」


ティーナはその隣で、静かに微笑みながらうなずいた。


「……私も、ちゃんとできていたなら嬉しいです」


お姫様抱っこが本気だったのではないかと問いかけられても、

ドンパッチはただ、


「僕も……頭が真っ白で……本当に、よく覚えていなくて。騒がせてごめん」


と繰り返すばかりだった。


ティーナは、ドンパッチ君の横で静かにうつむいていた。

頬は赤く染まり、胸の奥に込み上げてくる熱を、懸命に抑えていた。


──私のために、変装までして気持ちを伝えてくれた。


アルヴァン王子の深い愛情は、静かに、しかし確かにティーナの心に届いていた。


最終的には、生徒たちも納得し、「迫真の演技だった」と彼を称賛していた。



翌朝。教室がざわめきに包まれる中、一人の転校生が教師に伴われて入ってきた。

その生徒は、教壇の前まで堂々と歩いて進んだ。


「新しくこの学園に転校してきた、グレイヴさんです。みなさん、仲良くしてください」


教師は淡々とした口調で紹介し、その生徒は低く渋い声で応じた。


「俺は、グレイヴ。よろしく頼む」


彼は長身で、がっしりとした体格ながら、手足が長く、全体としてバランスの取れた体型をしていた。

目元はややつり上がり、鋭い印象を与える表情をしていたが、それがかえって独特の魅力となっていた。

淡いブルーのロングヘアが、朝の光を受けて静かに揺れていた。


女子たちはざわめきながら口々に声を上げた。


「ちょっと怖そう……近づかないでおこうかな」

「でも、ソロウルフ系のイケメンじゃない? このタイプ、なかなかいないよね。友達になりたい……!」


一方、男子たちは顔を見合わせ、揃って嘆いた。


「……このクラス、もうダメだろ。レベル高すぎる」

「他のクラスの女子と仲良くなるしかないか……」


ドンパッチは、どこか諦めたような表情を浮かべていた。


ティーナは、いつものように、あたたかい気持ちで心の中でつぶやいた。


──グレイヴくんも、早くみんなと仲良くなれたらいいな。


「席は……ドンパッチ君の隣になります」


教師の言葉に、教室内がざわついた。

後方にはまだ空席があるのに──と、多くの生徒が思った。

しかし、ドンパッチの隣に座っていた気弱そうな生徒は、すでに何も言わずに別の席へと移動していた。


こうしてクラスは、ますます濃く、にぎやかで、個性の強い構成へと変わっていった。


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