ある晩、アルヴァン王子が幸福に満たされていたその頃──
一人の男は、ひとりきりで絶望の淵に立たされていた。
無骨な石造りの部屋。その中央で、護衛隊長シグルドは漆黒の髪をぐしゃぐしゃにかき乱していた。
指の動きには怒りと焦りが滲み、それがそのまま彼の心の内を物語っていた。
「バカ王子……俺の首が飛ぶだろうが」
誰に向けたわけでもない、独り言だった。
「お前は目立ちすぎるから来るな、だと?」
「クソッ……俺がどれだけ優秀でも、傍にいなけりゃ守れねぇだろうが……」
シグルドはアルヴァン王子と同い年であり、幼い頃に遊び相手として王宮に召された。
共に遊び、学び、剣を交えて育ってきたふたりの間には、臣下と主君という関係を超えた信頼があった。
王子が最も信頼する人物として、今やシグルドは欠かせない存在だった。
シグルド自身も、王子の誠実さや国を思う気持ちを深く理解していた。
アルヴァン王子が国王になれば、この国はきっと良くなる──
シグルドは、そう信じていた。
だからこそ、どんな危険が待ち受けていようと、王子を守り抜くと、自らに誓いを立てていた。
シグルドは中流貴族の三男として生まれ、王子との身分差は歴然としていた。
それでも──ふたりの間には、立場を越えた信頼があった。
長い年月を共に過ごすなかで育まれたその絆は、親友と呼ぶにふさわしいものだった。
しかし、アルヴァン王子が「ドンパッチ」と名乗って学園に通い始めてから、シグルドは同行を禁じられていた。
「お前がいたら、バレるからな」
シグルドはこの国では珍しい黒髪の持ち主で、背が高く、体格も王子より一回り大きかった。
顔立ちはやや厳しく、鋭い目元と無口な性格が相まって、クールで近寄りがたい印象を与える外見だった。
このような人物が学園に現れれば、目立つのは当然だった。
王子の判断は、客観的に見て妥当なものだった。
──変装して学園に通うという、王子の行動のほうが間違っている気がする。
シグルドは、最初に王子の変装姿を見たとき、思わず吹き出しそうになった。
「……やりすぎだろ、これは。すぐに嫌われて諦めると思ったんだけどな」
そのため、あのときは「かしこまりました」とだけ答えてしまった。
しかし、予想に反して、王子は今も学園に通い続けていた。
さらに、ティーナとも順調に関係を築いている。
親友としては喜ばしいが、護衛隊長としては頭の痛い状況だった。
「……俺まで道連れかよ」
シグルドは、深く息を吐きながら心の中でそうつぶやいた。
*
学園では、近いうちに演劇の発表会が行われるという噂が広がっていた。
「校長がそう言っていたらしい」との根拠の薄い話だったが、生徒たちはすっかり浮き足立っていた。
「また劇か? あの校長、真面目すぎるんだよ」
「演じる側も観る側も大変なんだから、もう少し考えてほしいよな」
男子たちの間では不満の声が目立ったが、反対に女子たちは期待に胸を膨らませていた。
「今度は王子様とお姫様の話なんじゃない?」
「ドンパッチ君とティーナ、劇の練習してたって聞いたよ」
「あんな廊下で告白なんて、普通じゃありえないでしょ。でもあれ、迫真の演技だったよね」
「お姫様役、選ばれたいな……」
これらの噂の発信源は、他ならぬアルヴァン王子本人だった。
廊下でのあの一幕は、王子がやらかしたことではあるが、ティーナの立場を考えると、「劇の演技」として処理する以外に方法はなかった。
すべては、ティーナを守るためだった。
そして、ドンパッチが登校する前日。
新たな話題が教室をにぎわせていた。
「新しい転校生が来るって! 背がすごく高いらしいよ」
「ドンパッチ君も不思議な魅力あるけど、新しい子も楽しみ~」
女子たちは嬉々として話し、男子生徒たちは警戒感を強めていた。
「マジか……もうライバルは勘弁してほしい」
一方、ドンパッチは最近、すっかり周囲に溶け込んでいた。
下を向くこともなく、自然に友人たちと会話を交わし、表情にも次第に余裕が見え始めていた。
おそらく、かなりの腕を持つ職人に変装を依頼したのだろう。
近くで見ても違和感がなく、顔立ちはふくよかで、目も小さく目立たなかった。
ただ、その瞳の色だけは──美しく、深く澄んだ王家特有のブルーを宿していた。
生徒たちに問い詰められたとき、ドンパッチは落ち着いた様子で答えた。
「僕、劇なんて初めてで、不安で……頭がぼーっとしてて……。ティーナさんなら、うまく合わせてくれると思ってて……。気づいたら、ああなってて……。正直、何を言ったか覚えてないんだ。ティーナさん、本当にごめんなさい」
ティーナはその隣で、静かに微笑みながらうなずいた。
「……私も、ちゃんとできていたなら嬉しいです」
お姫様抱っこが本気だったのではないかと問いかけられても、
ドンパッチはただ、
「僕も……頭が真っ白で……本当に、よく覚えていなくて。騒がせてごめん」
と繰り返すばかりだった。
ティーナは、ドンパッチ君の横で静かにうつむいていた。
頬は赤く染まり、胸の奥に込み上げてくる熱を、懸命に抑えていた。
──私のために、変装までして気持ちを伝えてくれた。
アルヴァン王子の深い愛情は、静かに、しかし確かにティーナの心に届いていた。
最終的には、生徒たちも納得し、「迫真の演技だった」と彼を称賛していた。
*
翌朝。教室がざわめきに包まれる中、一人の転校生が教師に伴われて入ってきた。
その生徒は、教壇の前まで堂々と歩いて進んだ。
「新しくこの学園に転校してきた、グレイヴさんです。みなさん、仲良くしてください」
教師は淡々とした口調で紹介し、その生徒は低く渋い声で応じた。
「俺は、グレイヴ。よろしく頼む」
彼は長身で、がっしりとした体格ながら、手足が長く、全体としてバランスの取れた体型をしていた。
目元はややつり上がり、鋭い印象を与える表情をしていたが、それがかえって独特の魅力となっていた。
淡いブルーのロングヘアが、朝の光を受けて静かに揺れていた。
女子たちはざわめきながら口々に声を上げた。
「ちょっと怖そう……近づかないでおこうかな」
「でも、ソロウルフ系のイケメンじゃない? このタイプ、なかなかいないよね。友達になりたい……!」
一方、男子たちは顔を見合わせ、揃って嘆いた。
「……このクラス、もうダメだろ。レベル高すぎる」
「他のクラスの女子と仲良くなるしかないか……」
ドンパッチは、どこか諦めたような表情を浮かべていた。
ティーナは、いつものように、あたたかい気持ちで心の中でつぶやいた。
──グレイヴくんも、早くみんなと仲良くなれたらいいな。
「席は……ドンパッチ君の隣になります」
教師の言葉に、教室内がざわついた。
後方にはまだ空席があるのに──と、多くの生徒が思った。
しかし、ドンパッチの隣に座っていた気弱そうな生徒は、すでに何も言わずに別の席へと移動していた。
こうしてクラスは、ますます濃く、にぎやかで、個性の強い構成へと変わっていった。