事務所の窓は薄く曇り、外の街灯が白くにじんでいた。
夜の匂いが、まだ閉め切った空気の中にじわりと染み込んでくる。
成海は机いっぱいに、古びた新聞記事と黄ばんだ警察資料を広げていた。
紙は湿気を吸い、端がわずかに波打ち、インクがかすかににじんでいる。
「……朝倉隼人。女子高生監禁の容疑で指名手配。その後は行方不明」
低く淡々とした声。だが、その奥には針のように冷たい硬さが潜んでいた。
記事の中には、別の被害者たちの顔写真も並んでいる。
その中の一人――紗英と名乗る少女の下に、赤ペンで一本の線が引かれていた。
「霧島蒼君。次の依頼者は、この場所よ」
視線を上げた成海の目は、いつもより暗く深い。
「……紗英は、その被害者の一人なのか?」
「そうね。殺されてしまったらしいわ。たぶん、その男の狂った愛で――死んでも縛られている、可哀そうな少女よ」
俺の背筋に、湿った風が吹き抜けたような感覚が走る。
名前だけでなく、状況までが妙に生々しく頭に入り込んでくる。
窓の外はもう完全に夜の色。
町は人通りを失い、湿った舗道の上に街灯の光だけが落ちている。
遠くで、水が滴る音が規則的に響いていた。
現場は駅裏の細い路地の奥に建つ、三階建ての古びたアパートだった。
外壁はところどころ塗装が剥げ、二階の外廊下は錆で赤茶け、金属の手すりは夜風に合わせて軋んでいる。
足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。
濃い湿気が肺に絡みつき、靴底から冷えが這い上がってくる。
「……助けて」
掠れた声が、鉄の手すり越しに漂ってきた。
「今のが噂の幽霊」
背後から成海の声。彼女はその方向に一瞥をくれ、短く吐息を漏らす。
「強く助けを求める霊魂の声よ。あの部屋にまだ縛られている」
「助けに行くわよ」
アパートの廊下を進む。
半開きの扉の隙間から、冷気がじわりと染み出していた。
湿った黴の匂いが鼻の奥にまとわりつき、息を吸うたびに肺の奥まで冷たさが侵入する。
その時、中から低く湿った声が響いた。
「この部屋に近づくな」
瞬間、黒い鎖が廊下を走った。
金属音ではなく、濡れた布を引きずるような鈍い音と共に。
反射的に飛び退くが、先端が足首をかすめた瞬間、骨の芯まで凍りつく感覚が走った。
成海が小声で告げる。
「厄介ね。男がこの部屋にいる……死んでるわ。あの鎖、霊的干渉が可能よ。注意して」
霊的干渉――幽霊が実体に影響を与える力。
俺にも同じ能力がある。幽霊は見えるし、攻撃もしてくる。嫌な才能だ。
だが、思念を使えば俺も叩き返せる。
強引に扉を押し開けると、月明かりが差し込み、光の中に女の姿が浮かび上がった。
紗英――細身の体、肩までの黒髪は濡れたように艶を失い、白いワンピースが冷たい光を返している。
肌は青白く、輪郭は薄く透け、その背後にはひび割れた壁が覗いていた。
足元からは黒い鎖が何本も伸び、体を縛り上げている。
両手は天井から垂れた鎖に吊られ、指先がかすかに震えていた。
その正面に、男の影。
三十代後半、ぎらつく眼光と歪んだ薄笑い。
足元から無数の黒い鎖が伸び、床や壁に絡みつき、この空間を占領している。
「紗英に触るな。紗英は俺を愛している。紗英は俺の物だ、俺の全てだ!」
湿った空気がその言葉を吸い込み、鎖の擦れる音と混ざって耳に残った。
「お前たちは邪魔だ!」
男の身体から黒い鎖が放たれた。
冷たい重みが肩と胸を締め上げ、思念が押し潰される。呼吸が詰まり、膝がきしむ。
成海の声が鋭く飛んだ。
「やり返しな!」
――わかってる。
奥歯を噛みしめ、鎖に締め付けられる身体の内側で思念を膨らませる。
意識を一点に集め、撚り合わせた糸をさらに太く、硬く。
黒い輪郭が揺らぎ、やがて煙のようにほどけていく。
「諦めろ。彼女を離せ。お前なんか愛してない……サイコパス野郎が」
苛立ちがそのまま言葉になった。
男は一瞬だけ目を見開き、そして嗤った。
「ハハハ……バカが。紗英は俺を愛していた。だから俺が殺した。永遠に一緒にいるためにな」
その声は湿った壁に吸い込まれ、部屋全体にじっとりと染み渡る。
紗英の瞳が震えた。
「……私を解放して」
掠れた声。それでも奥に、確かな意志の光が宿っている。
成海が俺を射抜くように見た。
「同調しなさい。彼女の恨みを借りれば、鎖は切れる」
短く息を吐き、思念の糸を紗英へ伸ばす。
触れた瞬間、氷のように冷えた心に熱が走り抜けた。
視界が一気に鮮明になり、鎖の一本一本が光の筋となって浮かび上がる。
その根は、すべて男の胸元へと集まっていた。
「なぜだ、紗英……なぜだ!」
男が絶叫し、黒い鎖を一斉に放つ。
紗英の心と一つになり、霊魂の剣を振るう。
刃が鎖を断ち切るたび、金属音と火花のような光が弾けた。
同時に、胸の奥が焼けるように痛む。彼女の苦しみが、俺の中へそのまま流れ込んでくる。
呼吸が荒くなり、視界の端が揺らぎ始めた――その時、室温が急激に下がった。
壁際に霜が広がり、闇が凝縮する。
長身の影が立ち上がる。黒い外套が床を擦り、骨面の仮面が月明かりを反射した。
手には銀色の長い鎌。
「……奇妙な場面ですね」
死神。底の見えないあの存在が、俺たちを見下ろしていた。
「成海様、あなたでしたか。私の邪魔をされると困るのですが?」
「面倒な奴が出てきたわね。お前がちゃんと仕事をしないからでしょう」
死神は肩をすくめ、視線を男に向けた。
「なるほど、私の責任にされますか……それも面白い」
成海が顎で男を指す。
「その男の魂はあんたにくれてやる。狂気で満ちてるから旨いはずよ」
「女の魂は私が貰う。恐怖は消えた。旨くないわよ」
死神は二人を見比べ、微かに頷いた。
「……まあ、それで良いでしょう」
鎌が閃き、男の身体が頭から真っ二つに裂けた。
驚愕と恐怖の表情のまま、影となって消えていく。
死神の掌には、脈打つ漆黒の魂。
「おお……これは格別。欲望、恐怖、傲慢……見事に熟している」
そのまま口を大きく開き、一飲みにした。
俺に見せるように飲み込んでいた。次の瞬間、俺へ視線が向く。
「霧島蒼君……君の魂はどんな味だろうか。楽しみにしていますよ」
背筋が凍り、言葉が喉で固まった。
死神は優雅に一礼し、壁の闇に溶けるように消えていった。
成海は笑みを浮かべたまま俺を見る。
「怖いでしょう? 私でも怖いわ。あれは底が知れない。……いつでも食えるのに、熟すまで待っている気がする」
視線が紗英に移る。
彼女を縛っていた鎖はすべて消え、白いワンピースが月光を透かして輝いていた。
諦めの色を帯びた表情は、静かな笑みに変わっている。
「……ありがとう」
その声とともに、足元から淡い光が立ち上がり、輪郭が薄れていく。
「これで、やっと……行ける」
霧のように消えると同時に、部屋に充満していた湿った匂いが静かに薄れた。
成海が俺の肩を軽く叩いた。
「次は騙されないことね。悩みは誰にでもある。それは自然なことだから」
かすかな声で「わかった」と返す紗英の残響が、耳の奥に残った。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
成海が横目で俺を見ながら言う。
「……死神が動く事件、これから増えるわ」
俺は答えず、拳を固く握った。
あいつを――必ずぶっ飛ばす。