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第2話 鎖に縛られた少女

 事務所の窓は薄く曇り、外の街灯が白くにじんでいた。

 夜の匂いが、まだ閉め切った空気の中にじわりと染み込んでくる。


 成海は机いっぱいに、古びた新聞記事と黄ばんだ警察資料を広げていた。

 紙は湿気を吸い、端がわずかに波打ち、インクがかすかににじんでいる。


「……朝倉隼人。女子高生監禁の容疑で指名手配。その後は行方不明」

 低く淡々とした声。だが、その奥には針のように冷たい硬さが潜んでいた。


 記事の中には、別の被害者たちの顔写真も並んでいる。

 その中の一人――紗英と名乗る少女の下に、赤ペンで一本の線が引かれていた。


「霧島蒼君。次の依頼者は、この場所よ」

 視線を上げた成海の目は、いつもより暗く深い。


「……紗英は、その被害者の一人なのか?」

「そうね。殺されてしまったらしいわ。たぶん、その男の狂った愛で――死んでも縛られている、可哀そうな少女よ」


 俺の背筋に、湿った風が吹き抜けたような感覚が走る。

 名前だけでなく、状況までが妙に生々しく頭に入り込んでくる。


 窓の外はもう完全に夜の色。

 町は人通りを失い、湿った舗道の上に街灯の光だけが落ちている。

 遠くで、水が滴る音が規則的に響いていた。


 現場は駅裏の細い路地の奥に建つ、三階建ての古びたアパートだった。

 外壁はところどころ塗装が剥げ、二階の外廊下は錆で赤茶け、金属の手すりは夜風に合わせて軋んでいる。


 足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。

 濃い湿気が肺に絡みつき、靴底から冷えが這い上がってくる。


「……助けて」

 掠れた声が、鉄の手すり越しに漂ってきた。


「今のが噂の幽霊」

 背後から成海の声。彼女はその方向に一瞥をくれ、短く吐息を漏らす。

「強く助けを求める霊魂の声よ。あの部屋にまだ縛られている」


「助けに行くわよ」


 アパートの廊下を進む。

 半開きの扉の隙間から、冷気がじわりと染み出していた。

 湿った黴の匂いが鼻の奥にまとわりつき、息を吸うたびに肺の奥まで冷たさが侵入する。


 その時、中から低く湿った声が響いた。

「この部屋に近づくな」


 瞬間、黒い鎖が廊下を走った。

 金属音ではなく、濡れた布を引きずるような鈍い音と共に。

 反射的に飛び退くが、先端が足首をかすめた瞬間、骨の芯まで凍りつく感覚が走った。


 成海が小声で告げる。

「厄介ね。男がこの部屋にいる……死んでるわ。あの鎖、霊的干渉が可能よ。注意して」


 霊的干渉――幽霊が実体に影響を与える力。

 俺にも同じ能力がある。幽霊は見えるし、攻撃もしてくる。嫌な才能だ。

 だが、思念を使えば俺も叩き返せる。


 強引に扉を押し開けると、月明かりが差し込み、光の中に女の姿が浮かび上がった。


 紗英――細身の体、肩までの黒髪は濡れたように艶を失い、白いワンピースが冷たい光を返している。

 肌は青白く、輪郭は薄く透け、その背後にはひび割れた壁が覗いていた。


 足元からは黒い鎖が何本も伸び、体を縛り上げている。

 両手は天井から垂れた鎖に吊られ、指先がかすかに震えていた。


 その正面に、男の影。

 三十代後半、ぎらつく眼光と歪んだ薄笑い。

 足元から無数の黒い鎖が伸び、床や壁に絡みつき、この空間を占領している。


「紗英に触るな。紗英は俺を愛している。紗英は俺の物だ、俺の全てだ!」

 湿った空気がその言葉を吸い込み、鎖の擦れる音と混ざって耳に残った。


「お前たちは邪魔だ!」


 男の身体から黒い鎖が放たれた。

 冷たい重みが肩と胸を締め上げ、思念が押し潰される。呼吸が詰まり、膝がきしむ。


 成海の声が鋭く飛んだ。

「やり返しな!」


 ――わかってる。


 奥歯を噛みしめ、鎖に締め付けられる身体の内側で思念を膨らませる。

 意識を一点に集め、撚り合わせた糸をさらに太く、硬く。

 黒い輪郭が揺らぎ、やがて煙のようにほどけていく。


「諦めろ。彼女を離せ。お前なんか愛してない……サイコパス野郎が」

 苛立ちがそのまま言葉になった。


 男は一瞬だけ目を見開き、そして嗤った。

「ハハハ……バカが。紗英は俺を愛していた。だから俺が殺した。永遠に一緒にいるためにな」

 その声は湿った壁に吸い込まれ、部屋全体にじっとりと染み渡る。


 紗英の瞳が震えた。

「……私を解放して」

 掠れた声。それでも奥に、確かな意志の光が宿っている。


 成海が俺を射抜くように見た。

「同調しなさい。彼女の恨みを借りれば、鎖は切れる」


 短く息を吐き、思念の糸を紗英へ伸ばす。

 触れた瞬間、氷のように冷えた心に熱が走り抜けた。

 視界が一気に鮮明になり、鎖の一本一本が光の筋となって浮かび上がる。

 その根は、すべて男の胸元へと集まっていた。


「なぜだ、紗英……なぜだ!」

 男が絶叫し、黒い鎖を一斉に放つ。


 紗英の心と一つになり、霊魂の剣を振るう。

 刃が鎖を断ち切るたび、金属音と火花のような光が弾けた。

 同時に、胸の奥が焼けるように痛む。彼女の苦しみが、俺の中へそのまま流れ込んでくる。


 呼吸が荒くなり、視界の端が揺らぎ始めた――その時、室温が急激に下がった。

 壁際に霜が広がり、闇が凝縮する。


 長身の影が立ち上がる。黒い外套が床を擦り、骨面の仮面が月明かりを反射した。

 手には銀色の長い鎌。


「……奇妙な場面ですね」

 死神。底の見えないあの存在が、俺たちを見下ろしていた。


「成海様、あなたでしたか。私の邪魔をされると困るのですが?」

「面倒な奴が出てきたわね。お前がちゃんと仕事をしないからでしょう」


 死神は肩をすくめ、視線を男に向けた。

「なるほど、私の責任にされますか……それも面白い」


 成海が顎で男を指す。

「その男の魂はあんたにくれてやる。狂気で満ちてるから旨いはずよ」

「女の魂は私が貰う。恐怖は消えた。旨くないわよ」


 死神は二人を見比べ、微かに頷いた。

「……まあ、それで良いでしょう」


 鎌が閃き、男の身体が頭から真っ二つに裂けた。

 驚愕と恐怖の表情のまま、影となって消えていく。

 死神の掌には、脈打つ漆黒の魂。


「おお……これは格別。欲望、恐怖、傲慢……見事に熟している」

 そのまま口を大きく開き、一飲みにした。


 俺に見せるように飲み込んでいた。次の瞬間、俺へ視線が向く。

「霧島蒼君……君の魂はどんな味だろうか。楽しみにしていますよ」

 背筋が凍り、言葉が喉で固まった。


 死神は優雅に一礼し、壁の闇に溶けるように消えていった。


 成海は笑みを浮かべたまま俺を見る。

「怖いでしょう? 私でも怖いわ。あれは底が知れない。……いつでも食えるのに、熟すまで待っている気がする」


 視線が紗英に移る。

 彼女を縛っていた鎖はすべて消え、白いワンピースが月光を透かして輝いていた。

 諦めの色を帯びた表情は、静かな笑みに変わっている。


「……ありがとう」

 その声とともに、足元から淡い光が立ち上がり、輪郭が薄れていく。

「これで、やっと……行ける」


 霧のように消えると同時に、部屋に充満していた湿った匂いが静かに薄れた。


 成海が俺の肩を軽く叩いた。

「次は騙されないことね。悩みは誰にでもある。それは自然なことだから」

 かすかな声で「わかった」と返す紗英の残響が、耳の奥に残った。


 外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 成海が横目で俺を見ながら言う。

「……死神が動く事件、これから増えるわ」


 俺は答えず、拳を固く握った。

 あいつを――必ずぶっ飛ばす。

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