放課後、成海から届いたメッセージは、たった一行だった。
――「今夜、特訓だ」
呼び出し方が軍隊か借金取りみたいだ。だが、あの死神に会ってから、俺の中で何かが確かに変わっていた。強くならなければ、次はただ喰われるだけだと骨の奥で分かっていた。
町外れの墓場。錆びたフェンスをくぐると、石碑はあちこち傾き、雑草が膝まで伸びている。湿った風が草を揺らすたび、土の匂いに苔の青臭さが混じった。
成海は墓石に腰を下ろし、缶コーヒーを開けた。銀のプルタブが外れる音が、やけに鋭く静寂に響く。
「死神に勝ちたいなら、ここで強くなるしかないわ」
「勝つ? 会ったら殴れば済むだろ」
「殴れるならな」
その言い草に、腹の奥で火がつく。
日が沈むまで、成海は無言。俺もそれ以上、口を開かなかった。
やがて西の空が紫に沈み、空気が急に重くなる。虫もカラスも鳴き止み、墓場全体が水底に沈んだように静まり返った。
石碑の間から灰色の靄が立ち上り、ゆっくりと形を帯びていく。顔のない人影、腕だけの塊、口ばかりの異形……数は十や二十じゃきかない。
「救えない連中よ。今日はそいつらを“抑え込む”訓練」
「話し合いはナシか。上等だ」
カバンを放り投げ、一歩前へ出た。
最初の霊がふらつきながら近づいてきた。顔はなく、痩せ細った手だけが異様に長い。
その手が胸を掴んだ瞬間、全身に飢えが走った。胃が捩れ、腹が背中に貼り付くような痛み。
視界の端に、かつての光景がよぎる――空っぽの米びつ、干からびた葉っぱ、寝返りすら打てない夜。
足がもつれそうになるが、「飢え如き耐えてやる。くそ、腹が減る……意識が飛ぶ」と歯を食いしばった。
胸から叩きつけるように思念を放つと、霊は一瞬だけ人間の顔を取り戻し、消えた。
次の影は炎のように揺れ、近づくだけで熱を帯びた風が肌を刺す。
背中に何かが這い上がり、瞬く間に焼けるような熱が全身を覆った。肺の中の空気まで焼け付き、息を吸うたび喉の奥が焦げる。
「しゃれにならない。マジで熱い……これは死ぬだろ。いや、幻覚だ。体が焼ける!!」
周囲が一瞬、燃え盛る家の中に変わる。木材が崩れ落ちる音、誰かの悲鳴。
「思念だ……思念を強くしろ」何度も心の中で自分に命じ、焼ける痛みを押し返す。
霊は煙のように消え、去り際に――自分の痛みを理解してもらえたのが嬉しかったのか――かすかな子供の笑い声が聞こえた。
そして、上半身だけの何かが地面を這ってきた。目はなく、口から長い刃のような舌が伸びている。
舌が鼻や口から入り込む錯覚と同時に、肺の奥が裂ける痛み。息を吸うたび、内側から刃物で切られるような激痛。血の味と鉄の匂いが口いっぱいに広がる。
膝が崩れそうになるが、唇を噛んで意識を繋ぎ止めた。
「こんどは殺人鬼かよ……絶対、負けねえ」痛みも恐怖も半端じゃない。何度も心が折れそうになりながらも、俺の思念は確実に研ぎ澄まされていく。
霊は俺の思念に干渉し、消える間際に小さく――「ありがとう」とだけ残した。
だが、今度は一つじゃない。四方から、群れを成して迫ってくる。
呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。
墓場の景色がゆがみ、音も遠ざかっていく。
足元が揺れ、視界が一気に暗転――そして、そこは墓場ではなかった。
泥と血の匂い、甲冑がぶつかる鈍い音、怒号と悲鳴が入り混じる。
俺は戦場の真ん中に立っていた。
手には刃こぼれした刀、胸には木の胸当て。
足元で矢が地面に突き刺さり、泥が跳ねた。
右も左も、味方も敵もなく、ただ殺し合いだけが支配していた。
反射的に刀を構え、突き出す。しかし、刃は相手の中をむなしく素通りする。
次の瞬間、横から槍が俺の腹を貫いた。熱と冷たさが同時に走り、肺が詰まる。
だが、立っていた。
咄嗟に槍を奪い返し、相手の胸を突き刺す――が、やはり体はすり抜けた。
その隙に背中から斬撃。盾を構えても、刃は盾ごと通り抜けて肉を断ち切った。
「なんだこれは……生き地獄じゃねえか!」
叫んだが、戦場は応えることなく次の死を押しつけてくる。
――そうか。ここでは、何度でも殺され、何度でも立ち上がるのだ。
敵の槍が腹を貫き、背後から斬られ、地面に叩きつけられるたび、視界が白く弾ける。
それでも膝をつかず、刀を振るった。
苦痛も恐怖も、ただ思念で押し殺す。
――理不尽だ? 知ったことか。俺は絶対に負けない。
しかし、激しい痛みと怨念、恐怖が容赦なく思念を削っていく。
やがて意識がもうろうとし、自分の名前も、何をしていたのかも忘れかけていた。
残ったのは、生き延びたいという本能と、負けないという執念だけ。
俺はその二つに縋って、永遠にも思える戦いを続けていた。
――そのとき、ほっぺたに妙な違和感が走った。心臓がドクンと高鳴る。
『そろそろ戻らないと、戦場から出られなくなるよ』
成海の声だ。何様だと毒づきかけたが、その声は確かに俺を現実に引き戻した。
その瞬間、俺は「霧島蒼」という名前を思い出した。
……くそ、あいつの声で正気に戻るとは。
戦場の音が遠ざかり、視界の端から色が剥がれていく。
気づけば、また荒れ果てた墓場に立っていた。
全身は汗で重く、息は荒い。
「お疲れ様」
成海が缶コーヒーを差し出す。缶は温かく、指先に生の感覚が戻る。
「よく頑張ったわね。それは、わたしのおごり」
無言で一口飲むと、喉を焼く苦味が広がり、顔をしかめた。
「感想は?」
「二度とやりたくねぇ」
「なら三度はやるわね」
あいつは平然と笑った。
墓場を出る頃には、夜風が頬を撫でていた。
だが、胸の奥にはまだ戦場の熱と鉄の匂いがこびりついている。
理不尽はまだ終わらない――だが、俺はそれを耐え抜くために歩き出した。