目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話 日常が壊れていく

 昼下がりの教室。


 窓の外は雲ひとつない青空が広がり、陽光が机の上を淡く照らしている。


 黒板に並ぶ数式をぼんやりと眺めていた俺は、ふと目を瞬かせた。


 ……おかしい。数字が、じわじわと滲みはじめた。


 黒板の白いチョークの線が赤黒く変色し、血のように輝きを失った液体となって垂れ落ちていく。


 垂れた跡は真下へ伸び、教壇の木の床に濃い染みを広げた。


 鉄の匂いが鼻を刺し、吐き気をこらえて瞬きをもう一度すると、何事もなかったかのように元の数式に戻っていた。



 安堵する間もなく、隣の席の女子が、小さく息を漏らすように呟いた。


 ――「ありがとう」


 耳が勝手にその言葉を拾う。


 思わず「今なんて言った?」と問い返すと、女子はペンを止め、不思議そうに首を傾げた。


「え? 何のこと?」


 そのとき、チャイムが鳴った。だが俺の耳には別の音が重なっていた。


 あの戦場で、槍と甲冑がぶつかる金属音――重く、耳の奥に刺さるあの響きだ。


 背筋に氷を押し付けられたような冷たさが走る。



 何気なく机の下に手をやると、ポケットの隙間から泥がぽろぽろとこぼれ落ちた。


 茶色ではない、灰色に近い色。湿っていて、土というより腐葉土と煤を混ぜたような質感。


 昨日の夜、墓場から帰ってきてすぐ洗濯したはずのズボンなのに――なぜだ。



 放課後、俺はコンビニのトイレに駆け込み、泥を洗い流そうと蛇口を全開にする。


 だが、水は泥を弾き、代わりに薄い緑がかった液体をにじませただけだった。


 指先で掻き出すと、ざらりとした硬い感触が指腹を擦る。


 そこから現れたのは、小さな錆びた刀の柄。


 表面は欠け、裏には小さく「織田」と刻まれていた。



 息が詰まった。


 あの戦場で見た兵士たちの甲冑、その背に印とつけられた木柵と同じだ。


 慌ててスマホを取り出し、成海に電話をかける。


「おい、これ……どうなってんだ」


 成海はまるで天気の話でもするかのように平然と答えた。


「ああ、それは普通よ。戦場の“切れ端”は、ときどき持ち帰っちゃうものなの」


「普通じゃねえだろ!」


 声が自然と荒くなる。だが受話口の向こうで成海は笑った。


「まあ、そのうち慣れるわよ」


 慣れる――そんなもん、慣れてたまるか。



 翌朝。通学路に出た瞬間、信号機の色がすべて消えているのに気づいた。


 青も黄も赤もない、ただの真っ黒な信号灯が空中にぶら下がっている。


 それでも通行人は誰も足を止めない。


 俺の足だけが、信号の前で硬直していた。



 体育の時間、グラウンドを走っている最中、視界がぐにゃりと揺れた。


 土煙、鎧姿の影、矢が空を裂く音――戦場の断片が差し込む。


 足を止めた俺に、クラスメイトが「どうした?」と声をかける。


 振り向いた瞬間、そいつの顔から目が消え、口の裂け目が耳元まで伸びた。


 心臓が跳ね、息が詰まる。瞬きをすると元通りの顔に戻っていた。


 俺は何も言わず、再び走り出した。


 放課後、校門を出たところで成海が待っていた。手にした缶コーヒーを無言で差し出す。



「どういうつもりだ。俺を壊す気か?」



「壊れるかどうかは、あんた次第よ。理不尽はね、鍛えなきゃ呑まれるだけ」



 缶を開け、一口。昨日の夜に飲んだ時と同じ温かさが指先から腕へ、同じ苦味が舌の奥に広がる。瞬間、心臓が一拍遅れたように重く脈打った。偶然じゃない――これは昨日と同じ缶だ。中身だけじゃない、温度まで“昨日”のままだ。背中の皮膚がざわりと粟立ち、胃の底がひやりと冷える。



「次は日が昇ってから行くわよ」成海はそれだけ言い、背を向けて歩き出した。



「夜じゃないのか?」と問うが、振り返らずに「昼も夜も関係ないわ」とだけ返ってきた。その声は妙に奥行きを帯び、耳の奥で反響し、脳の内側まで染み込んでくる。


 翌日、昼休み。校庭に出ると、真上の青空は澄んでいるのに、遠くの端がじわじわと墨を流したように黒く染まり始めていた。周囲の生徒たちは何も気づかず笑い、弁当を頬張っている。その笑い声の下に、確かに戦場の怒号と金属の衝突音が混じっていた。


 視線をグラウンドの端へ向けると、一瞬だけ鎧姿の足軽が立っていた。土と血の匂いが、風に乗って鼻腔を刺す。兵士は俺の方を見て、はっきりと口を動かした――「ありがとう」。その唇の形がやけに鮮明で、音がなくても意味が脳に直撃した。



 瞬きをした途端、兵士も匂いも消えた。しかし足元には、昨日の泥と同じ色・同じ質感のものがべったりとこびりついていた。靴底が重く沈む感触が、異界の地面を踏んでいる錯覚を呼び起こす。


 俺は泥を見下ろし、吐き捨てるように「……まだ続くのか」と呟く。


 その瞬間、成海の声が頭の中に直接響いた。空気を震わせる音ではなく、脳の奥を掻き回す感触で。


『理不尽は終わらないわ。でも、それがあんたの戦場』


 喉の奥がひりつく。だが、唇は勝手に吊り上がっていた。俺は缶コーヒーを握りしめ、黒く染まる空の端を睨む。昼の陽光の中で揺れる影が、ゆっくりと形を持ちはじめている。


「上等だ。来るなら来い」


 足を踏み出すと、靴底の泥がじわりと音を立てた。まるで、向こう側の世界が俺を引きずり込もうとする合図のように。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?