昼下がりの教室。
窓の外は雲ひとつない青空が広がり、陽光が机の上を淡く照らしている。
黒板に並ぶ数式をぼんやりと眺めていた俺は、ふと目を瞬かせた。
……おかしい。数字が、じわじわと滲みはじめた。
黒板の白いチョークの線が赤黒く変色し、血のように輝きを失った液体となって垂れ落ちていく。
垂れた跡は真下へ伸び、教壇の木の床に濃い染みを広げた。
鉄の匂いが鼻を刺し、吐き気をこらえて瞬きをもう一度すると、何事もなかったかのように元の数式に戻っていた。
安堵する間もなく、隣の席の女子が、小さく息を漏らすように呟いた。
――「ありがとう」
耳が勝手にその言葉を拾う。
思わず「今なんて言った?」と問い返すと、女子はペンを止め、不思議そうに首を傾げた。
「え? 何のこと?」
そのとき、チャイムが鳴った。だが俺の耳には別の音が重なっていた。
あの戦場で、槍と甲冑がぶつかる金属音――重く、耳の奥に刺さるあの響きだ。
背筋に氷を押し付けられたような冷たさが走る。
何気なく机の下に手をやると、ポケットの隙間から泥がぽろぽろとこぼれ落ちた。
茶色ではない、灰色に近い色。湿っていて、土というより腐葉土と煤を混ぜたような質感。
昨日の夜、墓場から帰ってきてすぐ洗濯したはずのズボンなのに――なぜだ。
放課後、俺はコンビニのトイレに駆け込み、泥を洗い流そうと蛇口を全開にする。
だが、水は泥を弾き、代わりに薄い緑がかった液体をにじませただけだった。
指先で掻き出すと、ざらりとした硬い感触が指腹を擦る。
そこから現れたのは、小さな錆びた刀の柄。
表面は欠け、裏には小さく「織田」と刻まれていた。
息が詰まった。
あの戦場で見た兵士たちの甲冑、その背に印とつけられた木柵と同じだ。
慌ててスマホを取り出し、成海に電話をかける。
「おい、これ……どうなってんだ」
成海はまるで天気の話でもするかのように平然と答えた。
「ああ、それは普通よ。戦場の“切れ端”は、ときどき持ち帰っちゃうものなの」
「普通じゃねえだろ!」
声が自然と荒くなる。だが受話口の向こうで成海は笑った。
「まあ、そのうち慣れるわよ」
慣れる――そんなもん、慣れてたまるか。
翌朝。通学路に出た瞬間、信号機の色がすべて消えているのに気づいた。
青も黄も赤もない、ただの真っ黒な信号灯が空中にぶら下がっている。
それでも通行人は誰も足を止めない。
俺の足だけが、信号の前で硬直していた。
体育の時間、グラウンドを走っている最中、視界がぐにゃりと揺れた。
土煙、鎧姿の影、矢が空を裂く音――戦場の断片が差し込む。
足を止めた俺に、クラスメイトが「どうした?」と声をかける。
振り向いた瞬間、そいつの顔から目が消え、口の裂け目が耳元まで伸びた。
心臓が跳ね、息が詰まる。瞬きをすると元通りの顔に戻っていた。
俺は何も言わず、再び走り出した。
放課後、校門を出たところで成海が待っていた。手にした缶コーヒーを無言で差し出す。
「どういうつもりだ。俺を壊す気か?」
「壊れるかどうかは、あんた次第よ。理不尽はね、鍛えなきゃ呑まれるだけ」
缶を開け、一口。昨日の夜に飲んだ時と同じ温かさが指先から腕へ、同じ苦味が舌の奥に広がる。瞬間、心臓が一拍遅れたように重く脈打った。偶然じゃない――これは昨日と同じ缶だ。中身だけじゃない、温度まで“昨日”のままだ。背中の皮膚がざわりと粟立ち、胃の底がひやりと冷える。
「次は日が昇ってから行くわよ」成海はそれだけ言い、背を向けて歩き出した。
「夜じゃないのか?」と問うが、振り返らずに「昼も夜も関係ないわ」とだけ返ってきた。その声は妙に奥行きを帯び、耳の奥で反響し、脳の内側まで染み込んでくる。
翌日、昼休み。校庭に出ると、真上の青空は澄んでいるのに、遠くの端がじわじわと墨を流したように黒く染まり始めていた。周囲の生徒たちは何も気づかず笑い、弁当を頬張っている。その笑い声の下に、確かに戦場の怒号と金属の衝突音が混じっていた。
視線をグラウンドの端へ向けると、一瞬だけ鎧姿の足軽が立っていた。土と血の匂いが、風に乗って鼻腔を刺す。兵士は俺の方を見て、はっきりと口を動かした――「ありがとう」。その唇の形がやけに鮮明で、音がなくても意味が脳に直撃した。
瞬きをした途端、兵士も匂いも消えた。しかし足元には、昨日の泥と同じ色・同じ質感のものがべったりとこびりついていた。靴底が重く沈む感触が、異界の地面を踏んでいる錯覚を呼び起こす。
俺は泥を見下ろし、吐き捨てるように「……まだ続くのか」と呟く。
その瞬間、成海の声が頭の中に直接響いた。空気を震わせる音ではなく、脳の奥を掻き回す感触で。
『理不尽は終わらないわ。でも、それがあんたの戦場』
喉の奥がひりつく。だが、唇は勝手に吊り上がっていた。俺は缶コーヒーを握りしめ、黒く染まる空の端を睨む。昼の陽光の中で揺れる影が、ゆっくりと形を持ちはじめている。
「上等だ。来るなら来い」
足を踏み出すと、靴底の泥がじわりと音を立てた。まるで、向こう側の世界が俺を引きずり込もうとする合図のように。