目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話「田ん坊や」

 ーー「石山県野薔薇市田丸町内・16時37分」ーー



 のどかな田んぼ道に、セミの鳴き声がかすかに残る。


 見渡すかぎりの緑。空は茜色に染まりはじめ、山と雲の境がぼんやりと溶けていく。



 俺、鼻木和馬(はなき・かずま)は、愛犬・草犬のポン酢と共に散歩中。


 この町、野薔薇市田丸町は超がつくほどの田舎で、通行人よりも猫とカエルの方が多い。



「鼻ちゃん、こんにちは」



 声をかけてきたのは、近所の吉岡のおばちゃん。


 家の場所も顔も小学生の頃から知ってる。俺が物心つく前からこの町にいる、地元のレジェンド的存在だ。



「こんにちは、吉おばちゃん。買い物帰り?」


「そうそう。今日の特売でね。ほら、見て。冷凍ハンバーグ半額だったの」



 相変わらず世話好きで、ちょっとおしゃべり。俺にとっては、ちょっと厳しめの親戚のおばちゃんみたいな存在だった。


 そんな他愛のない会話をしていると、どこからか――赤ん坊の泣き声が、風に乗って聞こえてきた。



「オギャー……オギャー……」



 耳に届いた瞬間、首筋に冷たい感覚が走る。



「……赤ちゃんの声、聞こえました?」



 俺が訊ねると、吉おばちゃんはにっこりと微笑んでこう言った。



「……ああ、それはね、“田ん坊や”だよ。鼻ちゃん、あれが聞こえるのかい?」



 次の瞬間、ぞくりとした悪寒が背骨を駆け上がった。


 空気の温度が変わったような錯覚。俺は無意識に愛犬のリードを握りしめる。



「……田ん坊や?」


「ふふふ、懐かしい名前だねぇ。じゃあ少し、昔話をしてあげようか」



 そう言って、吉おばちゃんはゆっくりと語り始めた。


 まるで、深く染み込んだ記憶をすくい上げるように。




 ーー「田ん坊やの話」ーー



 晩遅く、田んぼ道を歩いていた女性がいた。


 名前は山原恵理子(やまはら・えりこ)。24歳。会社勤めの疲れを抱えた彼女は、その夜も遅くまで残業していた。



 疲れた身体を引きずって、コンビニで買った弁当片手に、歩く。


 風は生ぬるく、虫の声が眠気を誘う。



 その時だった。



「……オギャー……オギャー……」



 最初は風の音かと思った。


 けれど、はっきりと、頭の中に響いてくるような泣き声が、鼓膜を震わせた。



(オギャー……オギャー……オギャァァァァ……)



 耳を塞いでも、頭の中に直接響いてくる。まるで心臓の奥に、何かが爪を立てているようだった。



 耐えられず、彼女は周囲を見渡した。



 ……見つけてしまった。



 田んぼの中に、ぬらぬらと揺れる影。


 いや、“赤ん坊”だった。だが、異常だった。


 泥にまみれた小さな身体。なのに、顔に“いくつもの口”が開かれていた。


 鼻の位置に、頬に、こめかみに。笑うような形、泣くような形。


 それらすべてが、同時に泣いていた。



「オギャー……オギャー……オギャァァァ……」



 その赤ん坊は、目を見開いていた。白目がぐるぐると回り、そこから黒い液体がじわりと流れていた。


 恵理子はその場で気を失い、田んぼに倒れたという。




 ーー「現在・田丸町にて」ーー



「……という話なんだよ」



 吉おばちゃんが語り終えた時、夕焼けがすっかり茜に染まっていた。



「……は、ははは。まぁ、見かけても知らんぷりしとけば、ですよね?」



 無理に笑おうとしたその時だった。


 さっきまで遠くに聞こえていた赤ん坊の声が――ピタリと、止んだ。



「……ふふふ」



 吉おばちゃんが、静かに、口元だけで笑った。


 そして。


 俺のすぐ後ろから、“何か”の気配がした。


 熱でもなく、冷気でもない。呼吸の気配に近い、“存在”そのものの圧。


 俺は動けなかった。振り返ることも、言葉を発することも。


 額から、じっとりと冷たい汗が伝う。




 その日は、ポン酢のリードが途中で千切れたまま、犬がいなくなっていた。


 怖かったが、俺は再びあの田んぼ道に戻って、ポン酢を探した。



 そして、見つけた。


 田んぼの畦道に横たわるポン酢。


 その毛並みに、いくつもの口が開いていた。


 まるで、誰かの顔が、そこに刻まれているかのように。



 翌日、吉おばちゃんは行方不明になった。


 誰も、どこへ行ったのか知らない。


 ただ、町のどこかで、風が吹くと――かすかに赤ん坊の声が、聞こえるという。






 ーー「鼻木和馬の自宅・怪異談同好会」ーー



「……という怪異談でしたーッ!」



 話を終えた俺の前で、部長・夜尻真夜は白目を剥いて気絶していた。


 床でぺろぺろと彼女の顔を舐めているのは、復活した愛犬ポン酢。



「……ポン酢は無事だし、吉おばちゃんも元気だから! ちなみにこの話、全部“創作”です。エロい話と違って、こっちはフィクションですからね! ああ、でもおっぱい系は実話だから!」



「……なんで実話の方が気味悪いのよ……」



 美衣子が小声でツッコむ。


「ああ!流石です。この高ぶりの胸に歌を歌います!あーあー♪」


 洋一、歌わんでよろし。しかし歌が上手いので部員一同スルーしてる。


 そして今回から新しく入った部員・猫見蜜柑(ねこみ・みかん)も、ちょっと引き気味に拍手をくれた。



 ホラーフェチズム怪異談。怖くて変で、不思議な話たち。


 今日もまた、野薔薇のように咲いていく。




 田ん坊や 完

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?