ーー「石山県野薔薇市田丸町内・16時37分」ーー
のどかな田んぼ道に、セミの鳴き声がかすかに残る。
見渡すかぎりの緑。空は茜色に染まりはじめ、山と雲の境がぼんやりと溶けていく。
俺、鼻木和馬(はなき・かずま)は、愛犬・草犬のポン酢と共に散歩中。
この町、野薔薇市田丸町は超がつくほどの田舎で、通行人よりも猫とカエルの方が多い。
「鼻ちゃん、こんにちは」
声をかけてきたのは、近所の吉岡のおばちゃん。
家の場所も顔も小学生の頃から知ってる。俺が物心つく前からこの町にいる、地元のレジェンド的存在だ。
「こんにちは、吉おばちゃん。買い物帰り?」
「そうそう。今日の特売でね。ほら、見て。冷凍ハンバーグ半額だったの」
相変わらず世話好きで、ちょっとおしゃべり。俺にとっては、ちょっと厳しめの親戚のおばちゃんみたいな存在だった。
そんな他愛のない会話をしていると、どこからか――赤ん坊の泣き声が、風に乗って聞こえてきた。
「オギャー……オギャー……」
耳に届いた瞬間、首筋に冷たい感覚が走る。
「……赤ちゃんの声、聞こえました?」
俺が訊ねると、吉おばちゃんはにっこりと微笑んでこう言った。
「……ああ、それはね、“田ん坊や”だよ。鼻ちゃん、あれが聞こえるのかい?」
次の瞬間、ぞくりとした悪寒が背骨を駆け上がった。
空気の温度が変わったような錯覚。俺は無意識に愛犬のリードを握りしめる。
「……田ん坊や?」
「ふふふ、懐かしい名前だねぇ。じゃあ少し、昔話をしてあげようか」
そう言って、吉おばちゃんはゆっくりと語り始めた。
まるで、深く染み込んだ記憶をすくい上げるように。
ーー「田ん坊やの話」ーー
晩遅く、田んぼ道を歩いていた女性がいた。
名前は山原恵理子(やまはら・えりこ)。24歳。会社勤めの疲れを抱えた彼女は、その夜も遅くまで残業していた。
疲れた身体を引きずって、コンビニで買った弁当片手に、歩く。
風は生ぬるく、虫の声が眠気を誘う。
その時だった。
「……オギャー……オギャー……」
最初は風の音かと思った。
けれど、はっきりと、頭の中に響いてくるような泣き声が、鼓膜を震わせた。
(オギャー……オギャー……オギャァァァァ……)
耳を塞いでも、頭の中に直接響いてくる。まるで心臓の奥に、何かが爪を立てているようだった。
耐えられず、彼女は周囲を見渡した。
……見つけてしまった。
田んぼの中に、ぬらぬらと揺れる影。
いや、“赤ん坊”だった。だが、異常だった。
泥にまみれた小さな身体。なのに、顔に“いくつもの口”が開かれていた。
鼻の位置に、頬に、こめかみに。笑うような形、泣くような形。
それらすべてが、同時に泣いていた。
「オギャー……オギャー……オギャァァァ……」
その赤ん坊は、目を見開いていた。白目がぐるぐると回り、そこから黒い液体がじわりと流れていた。
恵理子はその場で気を失い、田んぼに倒れたという。
ーー「現在・田丸町にて」ーー
「……という話なんだよ」
吉おばちゃんが語り終えた時、夕焼けがすっかり茜に染まっていた。
「……は、ははは。まぁ、見かけても知らんぷりしとけば、ですよね?」
無理に笑おうとしたその時だった。
さっきまで遠くに聞こえていた赤ん坊の声が――ピタリと、止んだ。
「……ふふふ」
吉おばちゃんが、静かに、口元だけで笑った。
そして。
俺のすぐ後ろから、“何か”の気配がした。
熱でもなく、冷気でもない。呼吸の気配に近い、“存在”そのものの圧。
俺は動けなかった。振り返ることも、言葉を発することも。
額から、じっとりと冷たい汗が伝う。
その日は、ポン酢のリードが途中で千切れたまま、犬がいなくなっていた。
怖かったが、俺は再びあの田んぼ道に戻って、ポン酢を探した。
そして、見つけた。
田んぼの畦道に横たわるポン酢。
その毛並みに、いくつもの口が開いていた。
まるで、誰かの顔が、そこに刻まれているかのように。
翌日、吉おばちゃんは行方不明になった。
誰も、どこへ行ったのか知らない。
ただ、町のどこかで、風が吹くと――かすかに赤ん坊の声が、聞こえるという。
ーー「鼻木和馬の自宅・怪異談同好会」ーー
「……という怪異談でしたーッ!」
話を終えた俺の前で、部長・夜尻真夜は白目を剥いて気絶していた。
床でぺろぺろと彼女の顔を舐めているのは、復活した愛犬ポン酢。
「……ポン酢は無事だし、吉おばちゃんも元気だから! ちなみにこの話、全部“創作”です。エロい話と違って、こっちはフィクションですからね! ああ、でもおっぱい系は実話だから!」
「……なんで実話の方が気味悪いのよ……」
美衣子が小声でツッコむ。
「ああ!流石です。この高ぶりの胸に歌を歌います!あーあー♪」
洋一、歌わんでよろし。しかし歌が上手いので部員一同スルーしてる。
そして今回から新しく入った部員・猫見蜜柑(ねこみ・みかん)も、ちょっと引き気味に拍手をくれた。
ホラーフェチズム怪異談。怖くて変で、不思議な話たち。
今日もまた、野薔薇のように咲いていく。
田ん坊や 完