体育の水泳の授業で樺とペアになったのだが、あいつは
『鳥居! 溺れたらオレを呼べよ!』と言いながら
自分が足を攣って溺れかけていた。水泳部なのに。
こいつはあほなのだと、しみじみ思った。
何とか助けたが、樺はビート板置き場で膝を抱えて
『……オレ、カッコ悪ぃ……』と落ち込んでいた。
むしろ、お前が格好良い瞬間があったのかと問いたい。
それでも樺は振り返り、律儀に頭を下げた。
『……不覚だけど、ありがとな、鳥居』
『気にするな』
『……つ、次は、オレがオマエを助けるから!』
そんなにお前はおれを溺れさせたいのか と思った。
あほな奴だと思ったが、放っておけなくて、
気がつけば樺の事ばかり見ているようになっていた。
授業中は眠気と必死に戦い、休憩時間は全力でグラウンドに
走って遊んでいる。昼食も笑顔で完食し、部活にも熱心に
打ち込んでいた。
贔屓目かも知れないが、同じクラスで
あいつほど一生懸命に生きてる奴はいないように見えたのだ。
おれが昼食を屋上で一人で食べていると、樺はたまに
追いかけてやって来た。毎日来ないのは、あいつの交友関係が
広すぎるのが原因だった。
おれと昼食を食べない日は吉田や他の友人と学食を食いに
行っているかららしい。
樺が来ない日の昼食は味気なく思えたが、樺が来た時は
(五月蝿いものの)ただの惣菜パンが美味く感じられた。
ある日の昼食時、樺に問いかけられた。
『鳥居、お前いつもパンだな』
『共働きだからな』
『オレんちもそうだぞ?』
『……そういうものか?』
『まあ、各家庭で色々あるからなあ』
そう言うなり、樺が弁当箱から出し巻玉子を取り出し、
差し出してきた。
『仕方ねーから、これやるよ』
『……』
箸の先の玉子焼きを見つめながら、内心で戸惑っていた。
こいつにとっては普通の事かも知れないが、他人から
物を食べさせられるのは、幼稚園の頃に婆さんから
茄子の味噌焼きを食わされて以来だ。
断ろうとしたが、あまりにも輝いた目で勧めてくる樺の
熱意に押し負けて、玉子焼きを食べさせてもらった。
唇に触れた玉子焼きを咀嚼すると、湿り気を帯びた感触が
喉を滑り落ちていった。
『……』
『どうだ? 美味いだろ? ダシにこだわってるからな!』
味は、覚えていない。
ただただ、耳まで熱くなった。
バレンタインのチョコレートを思い出した。
謎の物体ばかりが混入されていたトラウマの食品。
樺の玉子焼きには何かが入っていたとしか思えなかった。
でなければ、こんなに心臓が脈打つわけがない。
樺が笑えば嬉しくなるし、樺が怒っていたら
おれも同じく憤りを覚えるようになっていったから。
樺が何気なくとる行動の全てに困惑するようになってきた。
『鳥居ー! 教科書忘れたから、見せてくれよ!』
『鳥居~! 宿題写させてくれよ!』
『鳥居、シャーペン持ってねぇ? オレ今日筆箱忘れてさー』
……何だか嬉しいが、正直、疲れる。
樺の一挙手一投足に一喜一憂してしまう自分が情けないからだ。
いつでも笑顔で明るい樺を可愛いと思うようになった時、
おれの中で何かが終わった気がした。
そして樺と誰より一緒に居たいと思うようになってきた。
あいつはおれ以外の誰とでも、そんな感じで親しげだったのだ。
『あー! やべ! 現国の教科書忘れちまったー!』
樺は忘れ物も多かった。
『仕方ねーよな……。隣りのクラスの藤原(仮名)に借りるか……』
藤原が誰だか知らないが、何となく面白くなかったので、
『おれのを使え』と差し出した。
『お前、授業どうするんだよ!?』
『内容は全部暗記しているから必要無い』
気を利かせたつもりだったのに、樺は顔を赤くして
『お前には負けねー!』と、教科書の一言一句をノートに
書き出して暗記し始めた。
あほだが、可愛いと真剣に考えてしまった。
樺もおれの事ばかり考えてくれればいいのに、
と思うようになった。
だが、あいつは友人も多いし、趣味も多い。
おれの事はクラスメートの一人としか思っていないのだろう。
それが酷く哀しく思えた。
樺は水泳部だったので、夏はプールで泳いでおり、それ以外の
季節は学校の周辺をランニングしたり、筋トレしていた。
おれの姿を見つけた樺は『おーい! 鳥居ー! 次の
勝負ではゼッテー勝つからなー!』と手を振っていた。
気恥ずかしくて手を振り返せずにいる間に、樺は
走って行ってしまう事ばかりだった。
いつもおれは樺の背中ばかり見ていた気がする。
もしも勝負に負けたら、もう樺はおれに構わなくなるかも
しれない……。
樺は何にでも興味を示すが、その分、とてつもなく飽きっぽい。
一度クリアしたゲームは、あまりプレイし直さないらしい。
『ゲームってのは、落とし甲斐があるくらい難しい方が
燃えるよな!』と言っていた。複雑な気持ちになった。
おれとの競争も、そのゲームの一種なのか?
おれがお前に負けたら、お前はおれに飽きてしまうのか?
おれは、もうポンデリングの事だけを考えて
生きていけそうになかった。
だから全力で樺と勝負し続けた。
樺の全敗記録は日々更新され続けた。
負け続ける樺を見るのは辛かったが、おれは怖かった。
樺が他の誰かと勝負をしたがるようになるのが。
おれだけの相手でいて欲しかったから。
こんな感覚は初めてで、戸惑っていた。
答えは本の中にあった。
恋愛小説を読んでいると、不気味な程に共感する部分ばかりに
なってきたのだ。悲恋を読むと涙が滲むようになってきた。
テイッシュを鼻セレブに変えなければ、目元が
真っ赤になるぐらい泣いた。
そうして気づいた。
これは、恋だったのか、と。
いや、だが男同士で恋愛感情など湧くものなのだろうか?
試しに恋愛小説の主人公を樺で想像してみた。
萌えた。
浜辺で追いかけっこをするシーンを樺で想像すると、眩暈が
するほど熱っぽくなり、不覚にも鼻血を垂らしていた。
鼻セレブを買っておいて良かった。
恋愛小説では、その後にヒロイン(樺)が抱きついてくるという
場面があるのだが、もう先が読めない程に脈拍が上がっていた。
今まで生きてきた中で、最大の出血をした。鼻から。
危うく父親に救急車を呼ばれかけたりした。
婆さんは数珠を握り締めて念仏を唱えていた。
婆さん、おれはまだ死んでいない と鼻血を垂らしながら
訴えると、婆さんは『孫に悪霊が! 悪霊が憑いておるぅう!』と
叫んで倒れてしまった。難儀な婆さんだ。
それよりも、もうおれは終わりだ と
自分自身に死刑宣告をしていた。
男相手に興奮して鼻血を垂らすなんて、生物学的に
どうなのかと本気で悩んだのだ。
だが、樺を想う気持ちは止められなかった。
樺と手を繋いで下校出来たら、どれだけ幸せだろうか 等と
青臭い妄想に浸るようになった。自分自身が気持ち悪かった。
そういうやましい空気が周囲にバレたのだろうか。
樺とおれがホモだという噂が広がっていた。
そうであれば実は嬉しいのだが、健全優良男子の樺には辛い境遇だろう。
その噂が原因で樺に嫌われたくないと思ったおれは、
早朝の下駄箱の前で樺を待っていた。
人気の無い場所で謝りたいと思ったのだ。
水泳部の樺は部活の為、登校が早い。
だから朝の2時から待機していた。途中で
立ったまま寝てしまったが、6時ごろ、
樺は欠伸をしながら登校してきた。頭を撫でたくなった。
そんな樺に噂の事を謝ると、『別に気にしてねーよ』と言われた。
本当にどうでもいい事のように言われた。
安心した気持ちと、そうでない気持ちが半々だった。
一人だけ悩んでいたのかと思うと、それも寂しかった。
だから、言ってしまったのだ。
『おれは、ホモかもしれない』と。
言わなければ良かったと後から思った。
それから樺に露骨に避けられたのだ。
気を抜くと号泣してしまいそうになり、誰とも話したく
なかったので、ずっと一人で居るようになった。
だが、昔は気楽だった孤独の空気が、樺という存在を
知ってから酷く冷たくおれを拒絶するように思えた。
樺はおれを無視する事に罪悪感があるのか、たまに
振り返って此方を見ていた。
だが、これ以上拒絶されるのが怖くて、おれは樺に
近寄らなかった。
そうやって憂鬱な気持ちを持て余しているのに、吉田は
樺と毎日楽しく会話している。心の中で吉田の坊主頭を殴った。
少しだけすっきりした。
だが、虚しかった。
そうしていると、3年生の秋頃に廊下で樺と、ばったり逢った。
1、2年の頃は同じクラスだった樺とは3年のクラス替えで
別々になっていたのだ。
樺のいないクラスは酷く居心地が悪かった。
誰かが誰かを嫌い、排除し合い、貶め合う。
いかに樺の影響力が大きいかを知らしめられた。
なのに、樺は廊下で逢った時、
『よう! 久しぶり!』
と、普通に会話してきた。
樺に告白のようなものをした日から、おれは考え続けていた。
『もしかしたら、おれは男なら誰でも好きになるような
人間なんじゃないか』と。
だから日夜、樺以外の人間で色々想定してみた。
教師や生徒を問わずに。だが、色々と無理だった。
そうして判明したのは、樺以外の男と握手するのも
嫌だという事実だけだった。
だから、おれはホモじゃないのかと思った。
男でも女でも、樺がいいと思えた。
そう思うと、想像は止まらなかった。
どうして樺は男なのだろうか? と。
もしも樺が女だったら、他の女子のようにおれに
何らかの感情を抱いてくれていただろうか?
手紙をくれたり、手作りのチョコレートを贈ってくれただろうか?
抱き締めたり手を繋いでも、おかしくないだろうか?
分からなかった。
樺は女じゃないから。
同じ性別のはずなのに、あいつの事は何も分からない。
分かるのは、あいつと勝負したり、喋っている時間は
人生の中でも一際楽しくてたまらなかったという事実だけだった。
高校時代の数年しか共に過ごしていないのに、
樺となら、ずっと一緒でもいいとすら思うようになっていた。
だから、それらを伝えた。
いつの間にかこんなに好きになっている事を。
お前以外の人間をこんな風に想えない事を。
だが樺はうろたえながら『お前とプリティーでキュアッキュアな
関係になれるわけねーだろ! オレ達、友達じゃん!?』と
盛大に断った。
それでも友達でいられるのなら嬉しかったが、よく考えてみると
樺の友人は多い。吉田と同レベルの軽い存在なのかと思うと、
まるで自分の立ち位置を否定されたように感じた。
これは『フラレている』という状況なのだと察した。
だから『死のう』と思ってしまった。