死んで樺の胸におれが焼きつくのならいいと、
あの時のおれは正直病んでいた。
そして窓から地面にダイブしようとした時、背後から
『死ぬなーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!』
という怒声と共に、樺が抱きついてきた。
樺の身体が背中に密着する。
柑橘系のような良い匂いがした。萌えた。
思わず鼻血が出かけたが、吉田の坊主頭の後頭部を
思い出して滾る感情を押し留めた。
樺は必死に
『Love Or Die って、重すぎるだろ!!!』
『それに今、お前がここからダイブしたりしたら、
『死因・カラフト』になるだろーが! カンベンしてくれよ!!』
と保身に走った言葉で説得してきた。
そんな根性が汚い所も好きだと思えた。
恋は盲目とは上手く言ったものだ。
だが投身しかけたおれを即座に止めてくれた樺は凄い奴だ。
普通、自分に言い寄ってくる気持ちの悪い相手を
守ったりしないだろう。
おれは言い寄ってくる女子が飛び降りようとしても、多分
止めないだろう。救急車は呼ぶが。
そういう計算高さが樺には無いのかもしれない。
そう思っていると、
『お前、非道だよ。それでいいじゃん』
と言われた。そうか……。樺が言うなら、それでいい。
確かにおれは非道だ。
だから、おれに無いものばかりを持っている樺が好きで好きで
たまらなくなって、諦めきれなかった。
絶対に諦めきれない。恋人同士になれるなんて思っていない。
ただ、好きでいさせて欲しい。それ以外は望まないようにする。
そう考えていると、樺は『何でオレを好きなんだよ?』という
ような事を訊いてきた。
理由が沢山ありすぎて、全部語ろうと思うと801ギガくらい
容量が要りそうだ。
語りきるまで樺は付き合ってくれるだろうか(反語)
だから一つに絞れなくて『おれも何で樺を好きに
なったのか、よく分からん』と答えた。
『分からんのかよ!』と樺にツッこまれた。
『気づいたら、樺の事ばかり考えていた』
『やめろ! J-POPの歌詞かよ!』
『樺と浜辺で追いかけっことかしたらどうだろうと
妄想してみたら、ものすごい楽しかった。色々と』
『色々と!? オレを妄想のターゲットにして
愉しんでたのかよ!』
その遣り取りに、おれは樺とつるんでいた頃の事を思い出した。
泣きたいくらいに、温かい記憶。
だから、自然に笑ってしまったのだ。
あの頃、満たされていたのにおれは笑わなかったから。
そうすると、樺は驚いていた。
樺と居ると面白い。楽しい。幸せだ。
樺と一緒がいい。
そう口にすると、樺は『オレは剛力 彩芽ちゃんが好みなんだよ!
お前、腕力が剛力なだけじゃねーか!』と言い出した。
なら、女に性転換して整形すれば樺はおれを好きになって
くれるのか? と真剣に問うたが、樺は『彩芽ちゃんコスの
お前を想像して吹いたww』と、大笑いしていた。
そこは笑う所だったのか?
樺は笑い過ぎて滲んだ涙を拭いながら話を続ける。
『そんな事しなくても、鳥居は鳥居だろ』
『樺……』
『ちょっ、その獲物に飛びかかる肉食獣の目は止めろ!』
すまん……。お前の前では野生が目覚めそうになるんだ。
それから樺とは、何となく連絡を取り合うようになれた。
それだけで嬉しいと思えたのに、どうして人間の欲望とは
際限が無いのだろうか。
おれは現実で叶わない欲求を紙にぶつけるように
小説を書き続けていた。それが何の因果か受賞し、作家として
やっていけるようになった。それが高校3年の頃だった。
何だかよくわからないうちに小説がドラマ化したり、
舞台化したりしたが、あまり興味が無いので他人任せにしていた。
大学を出ていた方がいいと思ったが、二束の草鞋を
こなせそうにないので、おれは作家の道に専念する事にした。
樺には『何の小説を書いてるんだ?』と訊かれるのが
怖かったので『フリーターだ』と言っておいた。
バイトも少しだけしていたので、嘘ではない。
まさか『お前をモデルにした恋愛小説を書いているんだ』とは
口が裂けても言えない。
複雑なもので、読者から『樺ちゃん(樺を男子として
書くと色々問題なので女子として描写していた)可愛いです』と
感想を貰うと、地味にイラッとした。樺の可愛さはおれだけが
知っておきたいと思ったのだ。あまりにも勝手な事だが。
樺が大学に合格し、新歓コンパというもので知り合った女子と
付き合っている事を吉田経由で知った。
樺は恋人が出来た事をおれには言わなかった。
おれの気持ちを知っている樺なら、言わないだろうと思えた。
勿論、相手の女子には嫉妬した。
異性である事、樺の好みの容姿をしている事。
おれがどう足掻いても敵わないものを生まれながらに
持っている相手が羨ましくて仕方なかったのだ。
おれには見せない表情をその女子には見せているのだろうか。
おれとの時間は、もう無くなってしまうのだろうか。
だから、少しだけ、願った。
樺の傍から、あいつを好きなヤツが居なくなればいいのに と。
最低だった。
樺が離れていった孤独の辛さを知っている癖に、おれは樺にも
孤独を強要したのだ。
おれは何処まで非道なのかと自分を責め続けた。
樺には謝っても謝りきれない。
ちなみに、その所為で原稿を幾つか落としかけた。
担当の今井(仮名)が『先生! 原稿をお願いしますよ!
仕上げてくれないと僕は、ちまき川に飛び込みますよ!』と
土下座していた。
面倒なので『そうしてくれ』と告げると、今井は号泣しながら
走り去った。仕方ないので追いかけると、ヤツは
近所のファミレスでコーヒーを飲んでいた。お前の所の原稿は
適当に書いてやる と心の底からいらついた。
そうしていると、樺から相談を受けた。
辞書を買いたいので買物に付き合って欲しい との事だった。
樺から頼りにされた……! と、前日は
緊張と興奮で眠れなかった。
勿論、彼女のいる樺が他の相手に靡くわけもなく、おれを
恋愛対象として見てくれていない事も熟知していたので、何事も
ないまま普通に喋り、普通に飯を食い、普通に帰宅した。
それでいいと思えた。
樺の世界におれが居られるのなら、それでいい。
だが、その日々は続かなかった。
携帯電話に樺から電話がかかってきたのだ。
また辞書の相談だろうか。英語でもドイツ語でもスワヒリ語でも
何語の辞書でも迷わずに説明出来るように勉強していたので
ソワソワしながら電話に出た。
すると、見知らぬ女からだった。
色々と話しかけてきた気がするが、正直どうでも良かった。
むしろ何故お前が樺の電話を使用しているのかという疑問が
胸を支配する。
女の名前を聞いてから、事態を察した。
樺の恋人だ と。
あろう事か彼女はおれに乗り換えようとしていた。
おれの心境は今時の言葉で表現するならば『激おこ』状態だった。
樺のような色々凄い上に気遣いも出来て面白い性格で
人望もあり、可愛くて格好よい男を恋人にしておきながら、
非道で人間のクズのおれに乗り換えたいとは、
お前は何を考えているのかと。
いや、それよりも何よりも、樺を傷つけようとする相手は
誰であろうと許せなかった。
この事を知ったら、樺は哀しむだろう……。
おれは悩んだ。
勿論、原稿は落としかけた。
今井は『先生! また締め切りがヤバい事になってますよお!
何悩んでんですか! 誰か殺したい相手でもいるんですか!?
そういう顔してますよお!?』と後ろで騒ぎ出した。五月蝿かった。
お前ともう1人殺したい相手がいる と伝えると、
『僕はムリですが、もう一人をコロせば原稿をしてくれますか!?』と
血走った目で台所から包丁を持ってきた。包丁は捨てた。
どうすれば樺は幸せでいられるのかと悩み続けて、何も手が
つかなかった。おれでは樺を幸せに出来ないと分かっていたから。
せめて樺を守りたいという結論に達した。
だから、嫌で仕方なかったが、樺の恋人とも逢ってみたのだ。
剛力 彩芽似だった。
おれは剛力 彩芽が嫌いになった。
剛力(仮名)は色々と誘いをかけてきたが、そのどれにも
曖昧な返答をしつつ、録音しておいた。
もしも何かがあった時、これが役に立つと思ったのだ。
まさか本当に役に立つとは思わなかったが。
余談だが、おれの様子にただならぬものを感じた今井が
尾行して録画していたらしい。
それを見つけて問い詰めると『先生の弱味を握れば
原稿をしてくれると思いましてえ!』と口にしていた。
今井の『いまい』は忌々しいの『いまい』だとイラッとした。
それから何度か剛力に誘われたが、全て断っていると
ぷっつりと連絡がこなくなった。
樺の元に戻ったのだろうか。何事もなく幸せに過ごして
いられるのなら、それがいいのだろう。
樺が永久に幸せでいられるように と神社に参拝しておいた。
いつか訪れる式の時の為に、祝儀も用意しておいた。
樺から連絡が無かったが、剛力と上手くやっているのだろう と
狭い部屋の小さな窓から空を見上げて目を細めたものだった。
その晩、執筆中に樺から電話がかかってきた。
樺は泣いていた。
何かあったのか!? と、タクシーを呼んで樺の家に
飛んで行こうとしたが、電話口からは『いや、来んなよ!?
絶対来んなよ!?』と先読みされた言葉が返ってきた。
どうやら樺は剛力と上手くいかなかったらしい……。
酔っ払っているらしい樺の言葉は、胸を引き裂かれるように
痛々しいものだった。傍にいられないのが辛くてたまらなかった。
『もうオレ、学校行けない』
なら辞めておれの元に来ればいい。お前一人くらい余裕で
養える と告げるも、今度は『フラれて死にたい気分が
ようやく分かった。ちまき川に沈んでくる』と言い出した。
川に沈んだなら、何度でもおれが助けるし、お前が
沈もうとしたら、高校時代のようにビート板を腹に
結びつけるぞ と告げた。
『でもお前とは付き合わない』
それでいい。弱っているお前を追い詰めておれのものに
した所で、お前は幸せになれないだろう と語り続けると、
受話器の向こうから嗚咽が聞こえてきた。
樺は子供のように泣き続けていた。
おれは人生で、ここまで他人を憎めるのかと思う程に、
怒りに駆られていた。出来る事なら、樺を苦しめる全てを
この世から消し去ってやりたい。
だが犯罪行為に手を染めては樺にも迷惑がかかってしまう。
樺の濡れ衣を晴らし、彼を健全な大学生活に戻す為に、
正攻法で攻める事にした。
今井から録画したデータを取り上げ、樺の大学に向かったのだ。
今井が『ボーナスで買った、僕のキャメラー!』と
叫んでいたが、無視した。
女が多い場所は騒がしくて苦手だったが、我慢して
剛力を捜した。彼女の友人、取り巻きが居るのを見つけたので、
近づくと剛力達が騒ぎ出した。
『キャー! やだ、イケメン!』
『外人!? 外人なの!? キャー! キャー!』
『モデルなんじゃないの? 足、なっがーい!』
『でしょ? イケメンでしょー?』
何故か得意気な剛力の前で、例のデータを大音量で再生した。
途端に凍りつく剛力。白い顔が青くなっていくのが分かった。
ついでに今井の盗撮画像も再生した。
剛力の顔から表情が消失した。
更にトドメとして、それをプリントアウトした束を
辺り一面にばら撒いた。
ゴミを撒いてすまん とは思ったが、
樺の無実を証明するには、あいつの傷口を広げた『噂』という
方法で傷を閉じるのが早いと思ったのだ。
剛力は友人や取り巻きらに問い詰められていた。それでも
気が済まなかったので、帰り際に言い残した。
『お前と付き合うくらいなら、ビート板と添い遂げた方がマシだ』
と。
自分でも意味不明だった。いや、ビート板は浮くし……
役に立つから、剛力より魅力的なのだろう。たぶん……。
これで樺が大学生活を無事に送れればいいのだが と
思っていると、突然樺が家に来た。
連絡してから、来てくれ……と心の底から思った。
原稿の真っ最中で、服装はTシャツとジーンズだったし、
部屋の中は惣菜や弁当のカラで溢れていたからだ。
この部屋の素敵な部分は、黒猫のような壁の
しみくらいだろう。
その黒猫のしみに樺は驚きつつも、
『鳥居、ありがとうな!』と駆け寄ってきた。土足で。