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カリブの時の島
カリブの時の島
晴見紘衣
歴史・時代外国歴史
2025年08月10日
公開日
1.7万字
連載中
1714年、海で遭難したフアンが流れ着いたのは、インディオとスペイン人入植者が住む島だった。 奇妙なのは住人の誰もが懐中時計を持っていること。これほど小さい時計はまだ発明されていない。さらに謎なのは、フアンが持つと動き、持ち主に返すと止まることだ。 島のことを知ろうとするフアンに、「島から出ていけ」と迫る人物が現れる。天才時計師であり、およそ200年におよぶ孤独と、島の秘密を抱える人物だった。 クリストバル・コロンから始まった悲劇。インディオの少女が見てきたこと。世界のどこにもない時計。不意に現れては消える謎の子供。父の足跡と母の行方。 すべての真実に触れたとき、フアンはなぜ自分がこの島に来たのかを理解する。

フアン・アレナスの章

1 木彫りの懐中時計

 嵐が船を襲ったとき、フアンは世界にひとつきりの時計を眺めていた。


 手のひらにすっぽり収まるこれがもし誰かの目にとまったら、すぐに「それは何だ」と興味津々で質問されるだろう。その問いにうまく答えられない自分が簡単に想像できた。だからフアンはいつもこっそり眺めることにしている。


 船長以外は個室などないので、今もフアンのほかに数人が横になっていた。船の揺れに合わせてかすかに揺れる吊り床アマカを、天井のカンテラがぼんやりと照らしている。


 フアンが手にしているのは木彫りの懐中時計だ。


 表蓋も裏蓋も、針も文字盤もすべて木で作られている。蓋には何の装飾も施されていないので、木目から受ける印象は素朴なぬくもりだった。


 表蓋を開けると風防のガラスがない。だから針に直接触ることができる。


 とはいっても針は固くて、無理に指で動かそうとすると折ってしまいそうだった。だから時刻を合わせるときには紐についている鍵を使う。中央の穴に差してまわすと針も動くのだ。ただし、そこが限界だった。針は自動で動かない。


 裏蓋を開けると剥き出しの構造がよく見える。


 いくつもの歯車がかさなりあっている様はまるで芸術だ。その歯車だらけの中にゼンマイを巻くための穴がある。


 時刻を合わせるときの鍵と同じ鍵でまわせるのだが、どれだけ巻いても歯車が動き出す気配はなく、当然ながら長針も短針も自動で動くことはなかった。


 フアンが父親からこの時計を譲られたのは、今回の航海に出る直前だった。妙な頼みと一緒にこの時計を託されたのだ。フアンは複雑な気持ちで聞いたが、手にした懐中時計には興味がわいた。


 たとえ王侯貴族でもこれほど小さな懐中時計は見たことがないに違いない。


 少なくともフアンはこれほど小さい時計が発明されたという話を聞いたことがなかった。ドイツにもフランスにもイギリスにも、もちろんスペインにも、こんな時計はどこにもないのだ。


 本当に動けばすごいんだけどなあ。


 フアンが惜しい気持ちで時計を眺めていると、船が傾いた。吊り床アマカが一斉に同じ方向へ揺れる。フアンたちは転げるように飛び降りた。


「なんだ? 座礁か?」


「やめてくれ、海賊のほうがマシだ」


 仲間たちの言葉にフアンは顔をしかめた。けれど、のんびりした物言いとは裏腹に彼らの気配は張り詰めている。それを感じ取ってすぐに気持ちを切り替えた。急いで時計を腰のポケットにしまいながら、やっぱり軽い調子を装って告げる。


「どっちもごめんだよ。行こう」


 フアンたちは裸足のまま寝室を飛び出した。


 甲板に駆けあがったとたんに強い風を受けて息が止まった。船がさらに大きく揺れて体ごと持っていかれそうになる。砕けた波が甲板に叩きつけていた。目に入った空は不気味なほど暗い。まだ昼過ぎだというのに。


「来るぞ!」


 誰かの叫ぶ声がした。フアンは左舷を見た。盛り上がる海面を雨が踏みしだいて走ってくる。


 凶暴な水の槍がたちまち船を襲った。真上でジグザグの光が走り、ほぼ同時に鳴った轟音が空気を揺さぶる。


 フアンは風をかわすために帆を制御しようと走った。


 嵐には何度か遭遇してきた。このエデルミラ号なら絶対に持ちこたえられる、そう思いながら索具をつかんだ。


 雨風にあおられながら作業をするうちに小降りになった。船の揺れはまだ大きかったが、このまま乗り切れるかとフアンは暗い空を見上げた。


 その時、かみつくように突風が吹いた。とっさに索具にしがみついたフアンは、飛ばされまいと必死に踏ん張った。耳元でうなる風にまぎれてミシミシと嫌な音が聞こえてくる。


 不吉な予感にフアンは振り仰いだ。帆柱が途中で折れて、傾いている。傾きがどんどん大きくなるのを見るや否や、フアンは慌ててその場を離れた。


 帆柱が落ちる衝撃で船が大きく揺れた。今まで経験したことのない角度で船そのものが傾いた。軋みながら左舷が宙に浮く。


 フアンはつるつるした甲板を為す術もなく滑り落ち、右舷の縁まで転がった。そこはもう海の中だ。帆も水没してしまっている。


「小舟だ! 小舟を出せ!」


 指示を出す大声と、何を言っているのか聞き取れない叫び声がエデルミラ号を飛び交う。どの声も遠くかすれて聞こえた。容赦ない飛沫が仲間の姿を何度もかき消す。


 海中に放り出されたフアンは、重くのしかかってくる水のうねりに逆らった。自力で浮上して周囲に視線を巡らせる。まっさきに目に飛びこんできたエデルミラ号を信じられない思いで見つめた。


 船はかつてないほど大きく傾き、横倒しになろうとしていた。


 これは沈む、フアンは直感した。そうなったら壊れた船の一部や大きな波が押し寄せてきて、自分も巻き添えになる。


 すでに多くの仲間が小舟に乗りこもうとしている。フアンもこの危機的な状況から逃れるために泳いだ。


 誰も乗っていない小舟が波に翻弄されていた。気がついたフアンは、泳ぎ着いて舟べりをつかんだ。


 転覆しないように苦労しながら乗りこんだとき、突如、真っ白な閃光に包まれた。光と同時に凄まじい破裂音にも襲われた。耳元で複数のラッパ銃をぶっ放されたような轟音だ。


 雷が落ちたのだ。フアンの目の前に。




 1714年、沈みゆくエデルミラ号のそばでフアンは気を失った。


 フアンを乗せた小舟はエデルミラ号から離れ、いざなわれるように一定の方向へ漂った。


 やがて、とある島に流れ着いた。


 フアンの腰のポケットには木彫りの懐中時計がある。


 それは存在しないはずの時計だった。世界にたったひとつ、父が息子に託した母の時計が、静かに目覚めの時を待っていた。


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