月に数度の市の日、清洲城下は、まだ日も昇りきらぬうちから喧噪に満ちていた。
東の空は淡く色づき、朝露に濡れた土の匂いが立ちこめる。城門から伸びる通りは、すでに人と荷車であふれ返り、米俵を担ぐ農夫、塩樽を積んだ荷車を押す若者、干物を背負った漁師らが声を張り上げる。
露店からは餅を焼く甘い香り、鍋物の湯気、三味線の調べが入り混じり、朝の空気をさらに騒がせていた。
その雑踏を、私——太田牛一は帳面を抱えて端から見ていた。
川瀬殿から「市の賑わいも殿の財の源」と聞かされ、銭と品の流れを記録するためである。
人の出入りや値段、取引の様子がやがて数字となり、帳場の紙の上に刻まれるのだ。
やがて、人混みの奥でざわめきが湧いた。
囁きと笑いが混じり、人々が道を開ける。
「来たぞ」「またか」——その声とともに現れたのは、真紅の紐で派手に束ねた茶筅髷の若者。
袖に金糸の入った小袖は羽織らず、袴も着けず、腰には瓢箪や火打袋をぶら下げ、真っ赤に塗られた鞘の刀をぶら下げている。
肩には小猿がちょこんと乗り、後ろには家臣らしき男数人と、町娘二人。
若殿・織田信長である。
「おう! 饅頭焼けたか!」
茶屋の娘が差し出すと、熱々のまま頬張り、餡を口元に付けたまま顎で拭けと合図。娘は笑いながら袖で拭い、もう一人は横でけらけら笑っている。
八百屋では大根を掴み、「五本十文でどうだ」と値切り、断られると「二十文くれてやる。釣りはいらん、市を盛り上げろ!」と金を投げつけ、背を向ける。
射的屋では矢を山と買い込み、的を射抜くたびに景品を近くの子に放り投げる。子は喜び、大人は呆れ顔だ。
「さすが若殿、景気のいいことよ」
「いや、あれじゃ銭がいくらあっても足らん」
周りの声は、褒めるでもなく、叱るでもない、ただの諦めだ。
若殿は耳にも入れず、昼前から酒屋の屋台に腰を下ろし、盃を傾ける。
町娘が酌をし、家臣と大声で笑い合い、酔うと横笛を吹き始めた。調子も節も定まらぬ音色だが、人垣ができ、拍手が湧く。
私は帳面の隅に小さく書き込んだ。
「若殿、今日も奇行。銭散ず」
将来の主君とは思えぬ姿に、胸の奥が冷えるのを感じた。
清洲の広間は、夕陽が障子を透かして朱に染めていた。
畳の上に伸びた光は、庭の松の影と交じり、縞のように部屋を割っている。
信秀はその光の縞の中、脇息に肘をかけ、ゆるく盃を傾けていた。湯上がりの衣は薄く、額には微かな汗。咳の気配を押し殺しながら、黙して庭を見ている。
そこへ取次役が、膝を進めて口を開いた。
「殿……若殿が那古野よりお戻りに。市場にて……酒宴を催しておられたとのこと」
言葉の終わりは小さく、障子の桟に吸い込まれていった。
信秀の眉間が寄る。
「またか……」
脇に控えた佐久間、柴田ら重臣が進み出た。
佐久間は膝を正し、声を低めて言う。
「このままでは織田家の威信が……」
柴田は腕を組み、口を結んだままうなずく。
「尾張中に“大うつけ”の名が広まりまする」
その時、襖ががらりと開いた。
夕陽の中に入ってきたのは、紅の紐で茶筅髷を結い上げた若者。小袖は派手な縞模様、袴はなく、腰には真紅の鞘が夕陽を浴びて血のように光っている。
歩みとともに、安酒の匂いが広間に広がった。
「父上、ご機嫌麗しゅう」
軽い調子で放たれた言葉に、広間の空気が少し沈む。
信秀は盃を置き、低く言った。
「お前は城主だ、町人ではない」
「町人も俺の家臣。笑わせてやるのも務めでござろう」
その声は軽く、真心のひとかけらも見えぬ。
膝を打つ音が響いた。
「ふざけるな、この馬鹿息子!」
信秀の声は広間の柱を震わせ、控えていた家臣たちが息を呑んだ。
しかし信長は怯まず、唇の端をつり上げた。
「ならば、もっと賑やかにいたしましょう。城下総出で祭りでも開きまするか」
まるで父の怒りを楽しんでいるかのようだ。
信秀は顔を背け、長い息を吐いた。
「……あやつは、このままでは早死にするやもしれぬ」
それは諦めと、かすかな哀れみの混じった声であった。
廊下を去る信長の背は、夕陽を浴びて長く伸びた。
家臣たちは押し黙ったまま、その影を見送る。
信秀は盃を取り直し、ぽつりと洩らした。
「あの馬鹿……それでも、わしの息子よ」
障子の外では、春風が庭を渡り、城下のざわめきの欠片を運んできた。
その風の中、私は柱の陰で筆を握っていた。
——若殿、また大うつけの振る舞い。評判、悪し。
紙の上に墨が広がるたび、この家の行く末が少しずつ重くのしかかるようであった。