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第4話

 若殿、織田三郎信長様は、数えで十七。

 那古野城を預かる身とはいえ、城下では「大うつけ」と囁かれる日々であった。


 父君・織田信秀様は清洲城にあり、尾張下四郡を押さえ、津島湊と熱田社を支配し、商いと戦の両面に才を見せた武将である。

 だが近ごろ、その体に病の影が忍び寄っていた。


 弟の信行様は、真面目一徹。母・土田御前の寵愛も厚く、家臣の間では「安定の御方」と評判だ。

 家中では、家督を兄に継がせるべきか、弟に譲るべきか──密やかな声が廊下の陰を行き来していた。


 重臣の平手政秀殿は何度も若殿を諫めては頭を抱え、林秀貞殿や柴田権六殿は腕を組み、静観の構えを崩さぬ。

 戦国の空は晴れ間を見せても、雲はすぐにかたちを変え、織田の天を覆い始めていた。


 ──そんなある夕刻、清洲から那古野へ、急ぎの呼び出しが飛んだ。


 清洲城は、西に傾く陽を受けて、朱の色を帯びていた。

 障子越しの光は濃く、廊下の板間に長い影を落とす。

 奥からは帳場の紙を繰る音、筆の擦れる気配、墨の香。

 市の喧騒を知る者には、この静けさがかえって異様に重い。


 居間の一隅、鎧櫃を机代わりに、織田信秀が文を整理していた。

 紙の端を押さえる指先に、わずかな震え。痩せた頬は青白いが、眼光は鋭い。

 幾多の戦場を越えてきた男の目は、弱るより先に、光を失わぬ。


 その時──。


 襖が、ためらいもなく開け放たれた。


 紅の紐で結い上げた茶筅髷、派手な縞の小袖に半袴。

 腰には朱塗りの鞘、肩からはいくつもの袋をぶら下げ、懐には餅。

 女物の香が風とともに流れ込み、室の空気を一変させる。

 後ろには小姓二人。片方は市で買い込んだ袋を抱え、片方は信長の機嫌をうかがいながら笑っていた。


 「おう、親父。呼びつけるなんざ珍しい。祝い事でもあるのかえ?」

 座る前から軽口を飛ばす若殿。まだ親の影を離れぬ若さがそこにあった。


 信秀は筆を置き、無言でその姿を見据えた。怒りよりも、まず呆れの色が濃い。


 「城下で金をばらまき、昼夜を問わず遊び歩いていると聞く。真か。」

 低い声の奥には、硬い棘がひそんでいる。


 信長はにやりと笑い、餅をかじった。

 「真でございまする。何か不都合でも? 弟もおりますし、家はびくともしますまい。」


 傍らの太田牛一は目を伏せて嘆息した。

 (この方は……)

 父の苛立ちも、子の無頓着も、どちらも目に余る。


 「その金は、城を守り、家臣を食わせ、戦の費えに充てるためのものだ。」

 「世間を知るために使っておりまする。人を見、物を知るは、武にも通ずるかと。」

 「世間を知るのに、そんな大金をばらまく阿呆がどこにおる。」


 信秀の眉間に深い皺が刻まれる。


 「このあいだ、熱田の神社で喧嘩をしたと聞いた。何を考えておる。」

 「少し揉めただけでございます。向こうが先に絡んで参りましてな。」

 「いちいち騒ぎを起こすな。織田の誇りを持て。」


 信長は餅をもう一口かじり、わずかに口角を上げた。

 「親父、今日はやけにギラついておりますな。母上とでも喧嘩なされたか?」


 「この……ばか息子が。」


 部屋の空気が、刃物のように冷たくなった──。



 夕陽の赤はさらに濃くなり、障子に映る二つの影がじわじわと長く伸びていった。

 信長の笑みは崩れない。父の苛立ちは増すばかりだが、息子の態度は微塵も揺らがぬ。

 その頑なさの奥に、家を継ぐ覚悟のかけらも見えぬのが、なおさら信秀の胸を灼いた。


 牛一は息を殺し、ただ釘付けになる。


 信秀の手が机の文書をそっと押さえ、低く抑えた声が夕暮れの部屋に沈んだ。

 「……このままでは、お前に家督は継がせられぬ。信行に譲る。」


 障子の向こうから吹き込む風が、二人の間をすり抜ける。

 信長は眉をわずかに動かしたが、すぐに鼻で笑い、餅をひとかじりした。


 「あやつは真面目なだけ。真面目だけで、この乱世を渡れるとお思いか。」


 挑むような声音が、父の胸をさらに逆撫でする。

 信秀は机を叩き、声を荒らげた。


 「お前は世間も家臣も、人を統べることも知らぬ! それで家督が継げると思うな!」


 「じゃあ俺が遊びながらでも人を動かせば、文句はないわけだ。」


 空気が刃のように冷たくなり、牛一は喉奥で息を詰めた。


 信秀は立ち上がるなり、信長の胸倉を両手で掴んだ。

 「この馬鹿者が! 織田の名を汚す気か!」


 信長も負けじと父の手を払いのけ、逆に肩を突き返す。

 畳が軋み、障子ががたがたと鳴った。

 夕映えの中で絡み合う影は、まるで虎と狼がひとつの檻に押し込められたかのようであった。


 「やめられませい、若殿! 殿、お身体が!」

 牛一と傍らの家臣が慌てて間に割って入る。

 しかし二人はすぐには離れず、信秀の指は信長の小袖を握りしめ、信長の眼は父を睨み返したまま。


 やがて、信秀の足がふらつき、膝を畳に落とす。

 家臣たちが支えようと駆け寄った。


 「……わしも、もう長くないかもしれぬ。」

 掠れた低い声。それは、老いを悟った武将の吐息であり、息子を案ずる父の弱音でもあった。


 信長は一瞬、視線を落とし、その影を覗き込む。

 だが次の瞬間、口元に強がりの笑みを浮かべた。


 「くそ、そんな芝居に騙されるか!」


 踵を返し、襖を乱暴に開け放つ。

 夕闇が廊下を包み、足音が遠ざかっていった。


 牛一は呆然と、その背を見送った。

 静けさが戻り、松明の灯が入り口で揺れ、長い影を畳に落とす。


 信秀は机上の文を手に取ったが、目を通さず、視線を宙に漂わせた。

 「……あやつの言う通り、弟では戦国は生き抜けぬ。信長が変わるしかない……」


 ふと、胸の奥に遠い日がよみがえる。


 まだ膝ほどの背丈だったあの子は、目をきらきらと輝かせ、庭の砂利道を駆け回っていた。

 竹馬に乗っては「見ろ、親父より高いぞ!」と笑い、寺子屋では書物にかじりつくように学び、素直に頭を下げることもできた。

 ある日、「いつか親父を越える」と口にしたときのことを、信秀はいまも鮮やかに覚えている。

 その無邪気な眼差しに、心の底から喜び、好きにさせてやろうと思った。

 ──それが、誤りであったのか。


 息を吐き、目を伏せる。

 「……わしは子の育て方を誤ったか。」


 牛一は何も言わず、その横顔を見つめていた。

 そこには、疲れと悔い、そしてなお消えぬ闘志が同居していた。

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