夜の清洲は、昼の熱を鎮めたかのように、深い水底のような静けさに沈んでいた。
城下の濠にかかる月は白く、その光は奥御殿の障子にゆらりと映っている。畳には二筋の光が斜めに走り、香炉から立ちのぼる煙が、その筋を裂きながら揺れていた。
湯上がりの薄衣をまとい、鎧櫃を机代わりにして腰を据えるのは織田信秀。頬には昼間の取っ組み合いでついた擦り傷が紅く残り、その奥の眼はまだ熱を帯びている。袖の下、指先にかすかな震え。向かいに座る女──土田御前──だけが、そのことを知っていた。
御前は茶を点てる手を止めず、声を静かに落とす。
「……殿、昼の声は城中まで響いておりました」
信秀は鼻で笑った。
「あの馬鹿息子め。父に掴みかかるとはな」
ひと呼吸置き、ふと口調を緩める。
「だが……あやつの腕は、思いのほか強かったぞ」
御前の唇がわずかにほころぶ。
「父上譲りでございます」
その一言で、信秀の笑みは消えた。
「威勢だけは一人前だが、考えが足らぬ。城下で金をばら撒き、神社で喧嘩をし……織田の看板に泥を塗っておる」
御前は茶碗を置き、ため息をひとつ。
「若さゆえの無茶です。殿も若い頃は——」
「わしは父が早くに死に、無茶をしている暇はなかった」
遮るように言い放つと、信秀は視線を逸らした。
廊下の板を踏む足音が近づき、小姓が控え口で膝をついた。
「美濃より急ぎの飛脚にて——」
差し出された封書には、“極密”の二文字。蝋封を切ると、熱を帯びた蝋の匂いが立ちのぼり、斎藤方からの密書が現れた。
林、山口両家中の者が今川と内通の疑い──。しかも、その目付が、昼間、那古野で信長の傍にいたとある。
御前の眉がかすかに動いた。
「……真でございますか」
信秀は文を畳み、短く吐き捨てる。
「真か否かは関係ない。噂は、それだけで刃となる」
この続きとして、後半(第2回)では密書から情勢の逼迫、御前の縁組案、信秀の「津島の市で試す」決断までを描きます。
信秀は文を脇へ置くと、今度は帳簿を引き寄せた。
厚い和紙には算木の跡がびっしりと刻まれ、津島からの上納、熱田の市の入銭が細かく記されている。
数字を追う信秀の指が、赤く囲まれた一行で止まった。
「……米が足りぬ。冬までに蔵は底をつくぞ」
声は低いが、香炉の煙を割って届くその響きは、重石のように部屋を押し沈めた。
「伊勢遷宮の寄進も、軍備の整えも、この数字では首が回らぬ。津島の次市で一度でもしくじれば、兵糧も兵も動かせぬ」
信秀の目は、戦場の地図を睨むときと同じ光を帯びていた。
御前は茶釜の湯の音を聞きながら、静かに言う。
「外には道三、今川。内には不逞の噂。……殿の心を継ぐ者が必要です」
信秀は障子越しの月を仰いだ。
「——ならば、なおさら信長をどうにかせねばならぬ」
「城に置けば市へ抜け出すでしょう。津島に出せば……」
御前は言葉を濁す。
「商人どもに食い物にされるだけだ」
信秀の苦笑は短く、冷たかった。
ややあって、御前は顔を上げた。
「ならば……縁組を」
信秀の眉が動く。
「誰とだ」
「三河・松平の姫。まだ行き先が決まらぬとか。あれと結べば、今川への牽制となりましょう」
信秀は鼻で笑った。
「姫を娶らせるに足る器なら、今ごろ苦労はしておらぬ」
御前は一歩も退かぬ目をして言い返す。
「殿もご存じでしょう。あの子は異様に人を惹きつけます」
「惹きつけてどうする。女と商人に囲まれて日が暮れるだけだ」
二人の間に短い沈黙が落ちる。香炉の煙が細く伸び、部屋の空気をさらに重くした。
御前は低く告げた。
「家臣の多くは、信行様を推しております」
「……知っておる」
信秀の声は畳に響き、障子の外まで届くほど重かった。
「だが、真面目だけでは、この乱世は渡れぬ」
御前はかすかに笑みを浮かべる。
「では、殿が変えればよいのです。あの子を」
信秀はじっと御前の顔を見つめた。障子の月明かりが、二人の間を白く裂いている。
「……そなたが言うなら、もう一度賭けてみよう。だが条件は一つ——津島の次市を一人で仕切らせる。失敗すれば……家督は信行だ」
御前は表情を変えず、深く頷いた。
「承知いたしました」
その声は静かだが、底に火を孕んでいた。
信秀はふと笑みを見せ、茶を一口すする。
「そなたは……怖い女だ」
「殿の妻ですから」
廊下の奥で番替えの声が遠くに響き、夜の清洲は再び深い静けさに沈んだ。
夫婦の間で交わされた密やかな約は、香の匂いとともに、城の奥へと沈み込んでいった。