夕刻の那古野城は、暮色に溶けかけていた。
西日から赤みが抜け、障子は淡くくすんだ光を受け、板間には長く細い影が伸びている。
廊下を渡る風は昼の熱を失い、ほんのり冷たかった。帳場からは、筆の擦れるかすかな音、紙を繰る乾いた音が断続的に届き、それがまるで城全体が深呼吸をしているように思われた。
太田牛一は、帳場の隅で膝を揃え、一日の出来事を記録していた。
墨の香に包まれながらも、今日の欄は筆がなかなか進まない。
那古野の市での若殿――織田三郎信長様の振る舞いをどう記すべきか、迷っていたからだ。
餅を道に撒き、茶屋の女中の肩に腕を回し、子供を肩車して通りを練り歩く。
その姿を見た者は皆笑ったが、それが褒め言葉ではないことも牛一にはわかっていた。
なるべく殿の目につかぬよう、小さく、欄外寄りに書き込む。
それだけで、心がいくらか軽くなる。
――そのとき、背後で畳を擦る音がすっと近づいた。
気配に気づくより早く、背中に鋭い声が飛んだ。
「おい、牛一」
肩がびくりと跳ね、振り返る。
縞の小袖に半袴、茶筅髷を紅の紐で締め、腰には朱塗りの鞘。
肩からぶら下げた袋からは干物や菓子の匂いが漂い、その奥に女物の香の甘い残り香が混じっている。
若殿・信長様である。
廊下の薄明かりでも、その姿はいやでも目を引いた。
通りすがる足軽たちが遠巻きに目を逸らしていくのが、牛一の視界の端に映る。
「おまえ、さっき帳場で何か書いてただろ。俺の悪口か?」
笑みを浮かべながらも、目だけは猫のように光っている。
冗談半分に見せかけて、腹の中を探る時の顔だ。
「い、いえ…殿の日々のご様子を少し…」
「ほう、それなら証人になれ。行くぞ」
「ど、どこへ…?」
「信行んとこだ。家督をあいつにやるって話、あれの本音を聞き出す」
問答無用の口調。牛一は筆を置く間もなく、片腕をつかまれ、廊下へ引きずり出された。
廊下は朱と影が入り交じり、足音が軽く響く。
信長の足取りは軽やかというより、獲物に近づく若獅子のようだ。
すれ違う家臣たちは皆目を伏せ、道を開ける。
その目の奥には、呆れと好奇と、わずかな警戒が入り混じっていた。
「おまえ、俺のことバカだと思ってるだろ」
「そ、そんなことは…」
「正直に言えよ。まあいい。俺はバカで結構だ。でも家督は俺のもんだ。弟にやるくらいなら、この城を売ったほうがマシだ」
牛一は、喉まで出かかった「売るくらいなら直すところが山ほどあります」という言葉を飲み込んだ。
信長は歩きながら笑い、信行の部屋の前に立つ。
「奇襲だぞ」
そう言うや否や、迷いなく襖に手をかけた――。
襖が音を立てて開き、室内の静けさを切った。
中では弟の信行が文机に向かい、墨の香が漂っている。
十四の顔は落ち着いており、その背筋は無駄なく伸びていた。
「兄上……いきなり何ですか」
信行は眉をわずかに寄せ、筆を置く。
「何ですかじゃねえ」信長は部屋に踏み込み、ずかずかと近づく。
「おまえ、家督が欲しいのか」
信行は一瞬だけ牛一に目をやり、低く答える。
「私はそんな…」
「聞いたか?」信長はすかさず背後の牛一を振り返る。
「こういうのが一番あぶねえんだ。表じゃ否定して、裏で動く」
牛一は口を結び、畳の目を見つめる。
信長は腰の朱鞘を軽く叩きながら続けた。
「俺はな、市で派手にやるのも、女と遊ぶのも、全部世間を知るためだ」
牛一は控えめに口を挟む。
「ですが、あまりに派手すぎると…」
「おまえにこの格好の良さがわからんのか。街を歩けば一発で皆が注目だぞ」
「注目はされましょうが…」
「それで十分だ。注目されりゃ勝ちだ」
信行は小さく息を吐く。
「神社で喧嘩したと聞きました」
「向こうが悪い。俺は餅を配ってただけだ」
信長は悪びれもせず、目だけは子供のように輝かせる。
「それをあんな目で見やがって。軽く脅かしてやっただけだ」
障子の外で夜風が強まり、松明の炎がゆらめく。
その影が三人の顔を照らし、揺らす。
牛一は話題を変えようと、声を低めた。
「殿、美濃も今川も、近ごろは動きが激しゅうございます」
「だからこそ遊んで見せるんだ」信長は即答する。
「敵に“遊んでるくせに負けない奴”と思わせる。いいだろ?」
昨日の市での餅撒き、子供の肩車、女物の笠で馬に乗った話を次々に披露し、まるで武功の自慢のように語る信長。
信行は呆れ顔で額に手を当て、牛一は苦笑するしかなかった。
やがて信長はふっと笑みを収め、声を少し落とした。
「父上が何と言おうと、家督は俺だ。譲らん」
牛一は、その言葉の奥に確固たる覚悟よりも、ただの意地と遊び心が入り混じった軽さを感じた。
それでも、若殿は自信たっぷりに言い切る。
「おい牛一、証人になれ」
「は、はい…」
満足げに笑った信長は、襖を勢いよく開け放ち、廊下へ出て行く。
その背に漂うのは、香と餅の甘い匂い。
残された部屋には、彼の笑い声だけが残り、牛一はその余韻を聞きながら心の中でつぶやいた。
——この殿、果たして吉と出るか、凶と出るか。