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第6話

夕刻の那古野城は、暮色に溶けかけていた。

西日から赤みが抜け、障子は淡くくすんだ光を受け、板間には長く細い影が伸びている。

廊下を渡る風は昼の熱を失い、ほんのり冷たかった。帳場からは、筆の擦れるかすかな音、紙を繰る乾いた音が断続的に届き、それがまるで城全体が深呼吸をしているように思われた。


太田牛一は、帳場の隅で膝を揃え、一日の出来事を記録していた。

墨の香に包まれながらも、今日の欄は筆がなかなか進まない。

那古野の市での若殿――織田三郎信長様の振る舞いをどう記すべきか、迷っていたからだ。


餅を道に撒き、茶屋の女中の肩に腕を回し、子供を肩車して通りを練り歩く。

その姿を見た者は皆笑ったが、それが褒め言葉ではないことも牛一にはわかっていた。

なるべく殿の目につかぬよう、小さく、欄外寄りに書き込む。

それだけで、心がいくらか軽くなる。


――そのとき、背後で畳を擦る音がすっと近づいた。

気配に気づくより早く、背中に鋭い声が飛んだ。


「おい、牛一」


肩がびくりと跳ね、振り返る。

縞の小袖に半袴、茶筅髷を紅の紐で締め、腰には朱塗りの鞘。

肩からぶら下げた袋からは干物や菓子の匂いが漂い、その奥に女物の香の甘い残り香が混じっている。

若殿・信長様である。


廊下の薄明かりでも、その姿はいやでも目を引いた。

通りすがる足軽たちが遠巻きに目を逸らしていくのが、牛一の視界の端に映る。


「おまえ、さっき帳場で何か書いてただろ。俺の悪口か?」


笑みを浮かべながらも、目だけは猫のように光っている。

冗談半分に見せかけて、腹の中を探る時の顔だ。


「い、いえ…殿の日々のご様子を少し…」


「ほう、それなら証人になれ。行くぞ」


「ど、どこへ…?」


「信行んとこだ。家督をあいつにやるって話、あれの本音を聞き出す」


問答無用の口調。牛一は筆を置く間もなく、片腕をつかまれ、廊下へ引きずり出された。


廊下は朱と影が入り交じり、足音が軽く響く。

信長の足取りは軽やかというより、獲物に近づく若獅子のようだ。

すれ違う家臣たちは皆目を伏せ、道を開ける。

その目の奥には、呆れと好奇と、わずかな警戒が入り混じっていた。


「おまえ、俺のことバカだと思ってるだろ」


「そ、そんなことは…」


「正直に言えよ。まあいい。俺はバカで結構だ。でも家督は俺のもんだ。弟にやるくらいなら、この城を売ったほうがマシだ」


牛一は、喉まで出かかった「売るくらいなら直すところが山ほどあります」という言葉を飲み込んだ。

信長は歩きながら笑い、信行の部屋の前に立つ。


「奇襲だぞ」


そう言うや否や、迷いなく襖に手をかけた――。


襖が音を立てて開き、室内の静けさを切った。

中では弟の信行が文机に向かい、墨の香が漂っている。

十四の顔は落ち着いており、その背筋は無駄なく伸びていた。


「兄上……いきなり何ですか」

信行は眉をわずかに寄せ、筆を置く。


「何ですかじゃねえ」信長は部屋に踏み込み、ずかずかと近づく。

「おまえ、家督が欲しいのか」


信行は一瞬だけ牛一に目をやり、低く答える。

「私はそんな…」


「聞いたか?」信長はすかさず背後の牛一を振り返る。

「こういうのが一番あぶねえんだ。表じゃ否定して、裏で動く」


牛一は口を結び、畳の目を見つめる。

信長は腰の朱鞘を軽く叩きながら続けた。


「俺はな、市で派手にやるのも、女と遊ぶのも、全部世間を知るためだ」


牛一は控えめに口を挟む。

「ですが、あまりに派手すぎると…」


「おまえにこの格好の良さがわからんのか。街を歩けば一発で皆が注目だぞ」

「注目はされましょうが…」

「それで十分だ。注目されりゃ勝ちだ」


信行は小さく息を吐く。

「神社で喧嘩したと聞きました」


「向こうが悪い。俺は餅を配ってただけだ」

信長は悪びれもせず、目だけは子供のように輝かせる。

「それをあんな目で見やがって。軽く脅かしてやっただけだ」


障子の外で夜風が強まり、松明の炎がゆらめく。

その影が三人の顔を照らし、揺らす。


牛一は話題を変えようと、声を低めた。

「殿、美濃も今川も、近ごろは動きが激しゅうございます」


「だからこそ遊んで見せるんだ」信長は即答する。

「敵に“遊んでるくせに負けない奴”と思わせる。いいだろ?」


昨日の市での餅撒き、子供の肩車、女物の笠で馬に乗った話を次々に披露し、まるで武功の自慢のように語る信長。

信行は呆れ顔で額に手を当て、牛一は苦笑するしかなかった。


やがて信長はふっと笑みを収め、声を少し落とした。

「父上が何と言おうと、家督は俺だ。譲らん」


牛一は、その言葉の奥に確固たる覚悟よりも、ただの意地と遊び心が入り混じった軽さを感じた。

それでも、若殿は自信たっぷりに言い切る。


「おい牛一、証人になれ」

「は、はい…」


満足げに笑った信長は、襖を勢いよく開け放ち、廊下へ出て行く。

その背に漂うのは、香と餅の甘い匂い。


残された部屋には、彼の笑い声だけが残り、牛一はその余韻を聞きながら心の中でつぶやいた。

——この殿、果たして吉と出るか、凶と出るか。

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