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第7話


晩秋の朝であった。


清洲の堀は一面に霧を敷き、遠く城門の影も輪郭をぼかしている。木橋の板は夜露を吸い、踏みしめるたびにしっとりと靴底に吸いついた。

廊下を渡る風は冷たく、墨と紙の匂いをかすかに含んで鼻をくすぐる。息を吸えば、どこか年の瀬を思わせる乾いた冷気が肺に沁みた。


太田牛一は、帳場への道を急ぎながら、柱にかかる朝日の影が、やけに長くなっていることに目をとめた。

――季節のせいか、それとも……。

胸の奥で、言葉にならぬ疑いがひとつ、小さく身をもたげた。


奥の広間はすでに賑わっていた。

毛氈を敷いた中央に、尾張・美濃・三河を描いた大きな地図盤が据えられ、赤と青の駒が碁盤のように並んでいる。


「先月、斎藤道三、墨俣に兵糧を運び入れた由」

家臣の一人が駒を指し示すと、その声は静かながらも広間の隅々まで届き、空気がわずかに熱を帯びた。


別の家臣が進み出て、「三河の今川義元も、馬と兵糧の手配を急いでおります」と重ねる。

その一言に、広間はさらに張りつめ、駒の色までもがひときわ濃く見える。

牛一は控えの間から、地図の上を動く指先と、それを睨む家臣たちの眼の光を、そっと盗み見ていた。


続いて帳場役が進み出る。

「津島湊の上納金、先月は例年より二割減でございます。伊勢方面の交易減と、海路の不安定によるものと……」

数値は淡々と並ぶが、その奥には湊の商人衆の不安と焦りが透けて見える。


「塩の値が下がり、米の相場も落ち着きを失っております」

帳場役の声は抑えているが、背筋はこわばり、筆を持つ指がわずかに震えているのを牛一は見逃さなかった。


上座に座す織田信秀は、しばし目を閉じ、じっと聞いていた。

やがてゆっくりと目を開き、落ち着いた声で言う。

「南の備えを固めよ。津島の市は、次の催しで立て直す。伊勢には使者を送り、道三には……」


そこまで言って、信秀は袖口に手を当て、小さく咳をひとつ。

たったそれだけの仕草だったが、牛一の目には、その背がわずかに揺れるのが映った。


林秀貞は眉間に皺を寄せたまま、地図から目を離さぬ。

柴田権六は腕を組み、天井の梁を仰いで何事かを考えている。

平手政秀が一歩進み出て、茶を盆に載せて差し出した。

「殿、ご自愛を」

短いその言葉が、広間の底に沈む波紋のように静かに広がった。


病のことを口にする者は誰もいない。

だが、広間の空気はわずかに重くなったように、牛一には感じられた。


「各々、抜かりなく」

信秀の締めの声に、家臣たちは一斉に立ち上がり、それぞれの持ち場へ散っていく。

廊下に足音が続き、障子の開閉が遠ざかるにつれ、広間の熱が少しずつ冷えていった。


帳場に戻った牛一は、硯に水を落とし、墨を擦りはじめる。

墨の香が、さきほどの広間の熱気を洗うように漂う。

筆先を整えながら、軍議の情景を思い返す。


「殿の背筋の影、昨年より細し。外に道三・今川、内に商いの乱れあり」

日誌の端にそう記し、静かに筆を置いた。


障子越しの光は白く弱く、机の算木と帳簿の影だけを長く伸ばしていた。


昼の光はもう、秋の名残をほとんど残してはいなかった。

帳場の障子を透かして入る日差しは白く弱く、机の算木と帳簿の影だけを長く伸ばしている。


太田牛一は、津島から届いた入荷帳を繰っていた。

塩の値が、わずか十日の間に二度も上がり下がりしている。干物の相場も、昨日までと今日とでは三文の違い。

数字は冷たいはずなのに、その裏にざわつく商人たちの顔、市場の空気の重さが透けて見えるようであった。


机の端、茶をすすっていた津島の商人二人が、声をひそめている。

「今川筋から安い塩が入ってきたそうな」

「尾張の市に流せば、値は下がる。兵糧代も崩せる」

牛一は耳を傾けるでもなく、しかし一言一句を聞き漏らすまいと筆先を止めた。

塩は兵糧、兵糧は勝敗——帳面の数字ではなく、戦場の真理である。


その日の午後、美濃からの使者が広間に現れた。

冬の光は硬く白く、障子の桟をくっきりと浮かび上がらせている。

使者は、漆塗りの箱に収められた茶器と香木を献上した。

信秀は上座にあってそれを受け取り、添えられた短冊を開く。


「尾張の冬支度に足るや否や」

わずか十二文字足らずの文。

広間の空気が、一瞬で凍る。


信秀は口の端をわずかに上げ、「冬はどこも寒いものよ」と笑った。

だが、牛一は茶器を盆に戻すとき、その縁に細い欠けを見つけた。偶然か、それとも。

筆を取れば、「欠けた茶器、欠けた縁」と書き付けたであろう。


その夜、牛一は夜回りの書き付けを持って城の廊下を歩いた。

月が土塀を白く照らし、風が乾いた木の葉を運んでいく。

正門近くで、門番の兵に呼び止められた。

「殿は……お元気なのか」


笑顔を作り、「お変わりござらぬ」と返す。

しかし、兵の背後で別の声が囁くのを耳にした。

「いっそ信行様に……」

足音を乱さぬよう歩き出すが、その囁きは風より長く耳に残った。


翌朝、牛一は市の相場を確かめに出た。

冬物の反物や干し柿が軒に吊るされ、吐く息が白い。

魚屋が声をひそめる。「熱田で神主と相撲を取ったそうな」

隣の米屋が応じる。「町娘を馬に乗せて城下一周だとよ」

笑いと呆れが半分ずつ混じった声。


牛一は笑い返すこともせず、魚の値を確かめ、帳面に記した。

その夜、広間で帳簿の報告をしていると、同じ噂が信秀の耳にも届いた。


「……そうか」

わずか一言。

しかし、その目の奥に、一瞬だけ曇りが走った。牛一は、その陰りを見逃さなかった。


油皿の灯が揺れる帳場に戻ると、牛一は日誌を開いた。

「殿、外にも内にも敵を抱え、時折その影が長く伸びる」

墨を置き、硯の水面に映る灯を見つめる。

遠くで番兵の足音と犬の遠吠えが交互に響き、城は深く息を潜めていた。


津島の市を信長に任せる話は、この時まだ、誰の口からも出てはいなかった。

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