晩秋の朝であった。
清洲の堀は一面に霧を敷き、遠く城門の影も輪郭をぼかしている。木橋の板は夜露を吸い、踏みしめるたびにしっとりと靴底に吸いついた。
廊下を渡る風は冷たく、墨と紙の匂いをかすかに含んで鼻をくすぐる。息を吸えば、どこか年の瀬を思わせる乾いた冷気が肺に沁みた。
太田牛一は、帳場への道を急ぎながら、柱にかかる朝日の影が、やけに長くなっていることに目をとめた。
――季節のせいか、それとも……。
胸の奥で、言葉にならぬ疑いがひとつ、小さく身をもたげた。
奥の広間はすでに賑わっていた。
毛氈を敷いた中央に、尾張・美濃・三河を描いた大きな地図盤が据えられ、赤と青の駒が碁盤のように並んでいる。
「先月、斎藤道三、墨俣に兵糧を運び入れた由」
家臣の一人が駒を指し示すと、その声は静かながらも広間の隅々まで届き、空気がわずかに熱を帯びた。
別の家臣が進み出て、「三河の今川義元も、馬と兵糧の手配を急いでおります」と重ねる。
その一言に、広間はさらに張りつめ、駒の色までもがひときわ濃く見える。
牛一は控えの間から、地図の上を動く指先と、それを睨む家臣たちの眼の光を、そっと盗み見ていた。
続いて帳場役が進み出る。
「津島湊の上納金、先月は例年より二割減でございます。伊勢方面の交易減と、海路の不安定によるものと……」
数値は淡々と並ぶが、その奥には湊の商人衆の不安と焦りが透けて見える。
「塩の値が下がり、米の相場も落ち着きを失っております」
帳場役の声は抑えているが、背筋はこわばり、筆を持つ指がわずかに震えているのを牛一は見逃さなかった。
上座に座す織田信秀は、しばし目を閉じ、じっと聞いていた。
やがてゆっくりと目を開き、落ち着いた声で言う。
「南の備えを固めよ。津島の市は、次の催しで立て直す。伊勢には使者を送り、道三には……」
そこまで言って、信秀は袖口に手を当て、小さく咳をひとつ。
たったそれだけの仕草だったが、牛一の目には、その背がわずかに揺れるのが映った。
林秀貞は眉間に皺を寄せたまま、地図から目を離さぬ。
柴田権六は腕を組み、天井の梁を仰いで何事かを考えている。
平手政秀が一歩進み出て、茶を盆に載せて差し出した。
「殿、ご自愛を」
短いその言葉が、広間の底に沈む波紋のように静かに広がった。
病のことを口にする者は誰もいない。
だが、広間の空気はわずかに重くなったように、牛一には感じられた。
「各々、抜かりなく」
信秀の締めの声に、家臣たちは一斉に立ち上がり、それぞれの持ち場へ散っていく。
廊下に足音が続き、障子の開閉が遠ざかるにつれ、広間の熱が少しずつ冷えていった。
帳場に戻った牛一は、硯に水を落とし、墨を擦りはじめる。
墨の香が、さきほどの広間の熱気を洗うように漂う。
筆先を整えながら、軍議の情景を思い返す。
「殿の背筋の影、昨年より細し。外に道三・今川、内に商いの乱れあり」
日誌の端にそう記し、静かに筆を置いた。
障子越しの光は白く弱く、机の算木と帳簿の影だけを長く伸ばしていた。
昼の光はもう、秋の名残をほとんど残してはいなかった。
帳場の障子を透かして入る日差しは白く弱く、机の算木と帳簿の影だけを長く伸ばしている。
太田牛一は、津島から届いた入荷帳を繰っていた。
塩の値が、わずか十日の間に二度も上がり下がりしている。干物の相場も、昨日までと今日とでは三文の違い。
数字は冷たいはずなのに、その裏にざわつく商人たちの顔、市場の空気の重さが透けて見えるようであった。
机の端、茶をすすっていた津島の商人二人が、声をひそめている。
「今川筋から安い塩が入ってきたそうな」
「尾張の市に流せば、値は下がる。兵糧代も崩せる」
牛一は耳を傾けるでもなく、しかし一言一句を聞き漏らすまいと筆先を止めた。
塩は兵糧、兵糧は勝敗——帳面の数字ではなく、戦場の真理である。
その日の午後、美濃からの使者が広間に現れた。
冬の光は硬く白く、障子の桟をくっきりと浮かび上がらせている。
使者は、漆塗りの箱に収められた茶器と香木を献上した。
信秀は上座にあってそれを受け取り、添えられた短冊を開く。
「尾張の冬支度に足るや否や」
わずか十二文字足らずの文。
広間の空気が、一瞬で凍る。
信秀は口の端をわずかに上げ、「冬はどこも寒いものよ」と笑った。
だが、牛一は茶器を盆に戻すとき、その縁に細い欠けを見つけた。偶然か、それとも。
筆を取れば、「欠けた茶器、欠けた縁」と書き付けたであろう。
その夜、牛一は夜回りの書き付けを持って城の廊下を歩いた。
月が土塀を白く照らし、風が乾いた木の葉を運んでいく。
正門近くで、門番の兵に呼び止められた。
「殿は……お元気なのか」
笑顔を作り、「お変わりござらぬ」と返す。
しかし、兵の背後で別の声が囁くのを耳にした。
「いっそ信行様に……」
足音を乱さぬよう歩き出すが、その囁きは風より長く耳に残った。
翌朝、牛一は市の相場を確かめに出た。
冬物の反物や干し柿が軒に吊るされ、吐く息が白い。
魚屋が声をひそめる。「熱田で神主と相撲を取ったそうな」
隣の米屋が応じる。「町娘を馬に乗せて城下一周だとよ」
笑いと呆れが半分ずつ混じった声。
牛一は笑い返すこともせず、魚の値を確かめ、帳面に記した。
その夜、広間で帳簿の報告をしていると、同じ噂が信秀の耳にも届いた。
「……そうか」
わずか一言。
しかし、その目の奥に、一瞬だけ曇りが走った。牛一は、その陰りを見逃さなかった。
油皿の灯が揺れる帳場に戻ると、牛一は日誌を開いた。
「殿、外にも内にも敵を抱え、時折その影が長く伸びる」
墨を置き、硯の水面に映る灯を見つめる。
遠くで番兵の足音と犬の遠吠えが交互に響き、城は深く息を潜めていた。
津島の市を信長に任せる話は、この時まだ、誰の口からも出てはいなかった。