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第8話

 冬の朝は、城の瓦を白く曇らせていた。

 夜の霜がうっすらと張り、東の空はまだ鈍い鉛色。井戸の水は氷を含み、桶に落ちる音が、静かな城下に吸い込まれていった。


 那古野城の帳場で、太田牛一は硯の前に座っていた。

 そこへ、廊下を駆ける足音。使いの若侍が、白い息を弾ませながら膝をつく。


「清洲よりの早馬にて——殿の下知でござる」


 広げられた書付には、短くこうあった。


『津島の次市にて、兵糧と軍備の一括買い付けを行え。期日は十日後。果たせば家督安泰、失敗すれば弟・信行に譲れ』


 牛一は文面を読み終えると、眉をひそめた。

(……殿が若殿を試すおつもりか。いや、これは無理難題というものだ)


 襖を開け、若殿の居間へ向かう。

 まだ朝というのに、そこからは女の笑い声と若衆の囃しが混じっている。香の煙と甘い匂い、昨夜の酒の残り香が濃い。


 赤い半袴に金糸の小袖。腰には朱塗りの鞘。肩から猿の形の袋をぶら下げ、茶筅髷を紅の紐できつく結んだ姿は、戦国の嫡男というより芝居小屋の花形役者だ。

 織田三郎信長は、盃を指先でくるくると回し、にやりと笑った。


「おう、牛一。帳場の鼠が、こんな朝に何の用だ」


 牛一は懐から書付を差し出し、清洲からの命を告げる。

 信長は目を通すと、盃を置き、口の端を上げた。


「はは、親父も無理難題を吹っ掛けてきたな。十日で津島を押さえろとは……まあ、俺のやり方を見せてやる」


 その声に、牛一は胸の内で苦い息を吐いた。

(この御方のやり方とやらは……どうせ正道ではあるまい)


 信長の脳裏に浮かんだ策は単純だった。

 市の商人や役人を一所に集め、脅し、値を飲ませる。交渉ではなく、力ずくの取引である。


 すでに、村や町の荒くれ者どもは信長の子分だった。

 「頭」と呼ばれる若殿の背後には織田信秀の威光がある。当時なら、親の名を盾に人を斬っても咎められぬ。


「小姓! 馬を引け。子分どもにも声をかけろ。今日は津島で祭りだ!」


 声を上げるや、座敷の荒くれたちが一斉に立ち上がった。

 黒い外套をひるがえし、笑い声をあげながら支度に取りかかる。


 牛一は買付金と相場帳を抱え、半ば引きずられるように城門へ向かった。

 冬枯れの街道が北へ延び、川面から吹き上げる風が頬を刺すように冷たい。


 先頭の信長は馬上から子供に飴玉を放り、農婦に「うまい大根はないか」と声をかける。

 その背に続くのは、槍や棒を手にした子分ども。笑い、怒鳴り、歌いながら津島へ向かう一行は、まるで戦場へ赴く軍勢のようであった。


広間の畳は、冬の朝の冷えをまだ手放していなかった。

塩問屋、干物屋、反物屋、炭商、薬種屋……津島の顔役がずらりと並び、その後ろに市役人が控える。

皆、胸の奥に不安と反発を抱えながらも、膝を揃えて信長の出座を待っていた。


その上座に、若殿・織田三郎信長がゆるりと腰を下ろした。

赤の半袴に金糸の小袖、膝には朱塗りの鞘。

まるでこの場が市の真ん中であるかのように、肩肘も張らず、片膝を崩している。


「三日で揃えろ」

信長は低く、しかし飄々と告げた。

「塩も干物も反物も、俺が言った分だ。値は……牛一、てめえが決めろ」


脇に控える牛一へ、鋭い眼が飛ぶ。

「一文でも間違えたら、その首が飛ぶと思え」


ざわめきが座敷を走った。

そのざわめきを楽しむように、信長は笑みを深めた。

「さあ、文句のある者は言え。遠慮はいらん」


最初に声を発したのは、塩問屋の主だった。

「若殿、この値では、我らの方が……」

言葉半ば、信長の子分二人がすっと前へ。


「信長様の御命を聞けぬと申すか。それは殿様・信秀公に刃向かうと同じだぞ」

低く唸る声に、問屋の顔色が失せる。

「そ、そんなつもりでは…」

子分の手が胸倉を掴み、畳の上にどんと投げ出した。


「次」


干物屋が勇をふるって言った。

「今川筋が安塩を流し、仕入れが乱れておりまして……」

最後まで聞く者はない。

別の子分が足を振り抜き、脇腹を打つ。

鈍い音が座敷に響き、声は喉に沈んだ。


三人目、四人目と、口を開く者はことごとく押し倒され、蹴り飛ばされる。

「殿の御名を聞けぬとは何事ぞ」

「尾張で飯を食いながら、この口か」

罵声と足音が交じり、畳の目は乱れ、座敷の隅に人影が転がる。


やがて、誰一人口を開かなくなった。

凍った沈黙の中、信長は朱鞘を肩に担ぎ、ひょいと立ち上がる。


「よし、三日だ。揃わぬ者は……知らん」

その言葉は軽やかだが、底に冷たい刃を潜ませていた。


広間を出れば、冬の川風が面を撫でる。

信長は足を止め、牛一を振り返った。

「どうだ牛一、これが俺の取引だ。遊びも脅しも一度にやれば、商いは回る」


笑い声が腹の底から湧き、津島の通りに高く響き渡る。

その笑いは冬空を裂くように長く尾を引き、橋の向こうまで届いた。


牛一は帳面を胸に抱き、歩を速めた。

このやり口では、いずれ信秀様と大揉めになる――

そう胸中で呟きながらも、背後の笑い声はなお耳から離れなかった。

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