冬の朝は、城の瓦を白く曇らせていた。
夜の霜がうっすらと張り、東の空はまだ鈍い鉛色。井戸の水は氷を含み、桶に落ちる音が、静かな城下に吸い込まれていった。
那古野城の帳場で、太田牛一は硯の前に座っていた。
そこへ、廊下を駆ける足音。使いの若侍が、白い息を弾ませながら膝をつく。
「清洲よりの早馬にて——殿の下知でござる」
広げられた書付には、短くこうあった。
『津島の次市にて、兵糧と軍備の一括買い付けを行え。期日は十日後。果たせば家督安泰、失敗すれば弟・信行に譲れ』
牛一は文面を読み終えると、眉をひそめた。
(……殿が若殿を試すおつもりか。いや、これは無理難題というものだ)
襖を開け、若殿の居間へ向かう。
まだ朝というのに、そこからは女の笑い声と若衆の囃しが混じっている。香の煙と甘い匂い、昨夜の酒の残り香が濃い。
赤い半袴に金糸の小袖。腰には朱塗りの鞘。肩から猿の形の袋をぶら下げ、茶筅髷を紅の紐できつく結んだ姿は、戦国の嫡男というより芝居小屋の花形役者だ。
織田三郎信長は、盃を指先でくるくると回し、にやりと笑った。
「おう、牛一。帳場の鼠が、こんな朝に何の用だ」
牛一は懐から書付を差し出し、清洲からの命を告げる。
信長は目を通すと、盃を置き、口の端を上げた。
「はは、親父も無理難題を吹っ掛けてきたな。十日で津島を押さえろとは……まあ、俺のやり方を見せてやる」
その声に、牛一は胸の内で苦い息を吐いた。
(この御方のやり方とやらは……どうせ正道ではあるまい)
信長の脳裏に浮かんだ策は単純だった。
市の商人や役人を一所に集め、脅し、値を飲ませる。交渉ではなく、力ずくの取引である。
すでに、村や町の荒くれ者どもは信長の子分だった。
「頭」と呼ばれる若殿の背後には織田信秀の威光がある。当時なら、親の名を盾に人を斬っても咎められぬ。
「小姓! 馬を引け。子分どもにも声をかけろ。今日は津島で祭りだ!」
声を上げるや、座敷の荒くれたちが一斉に立ち上がった。
黒い外套をひるがえし、笑い声をあげながら支度に取りかかる。
牛一は買付金と相場帳を抱え、半ば引きずられるように城門へ向かった。
冬枯れの街道が北へ延び、川面から吹き上げる風が頬を刺すように冷たい。
先頭の信長は馬上から子供に飴玉を放り、農婦に「うまい大根はないか」と声をかける。
その背に続くのは、槍や棒を手にした子分ども。笑い、怒鳴り、歌いながら津島へ向かう一行は、まるで戦場へ赴く軍勢のようであった。
広間の畳は、冬の朝の冷えをまだ手放していなかった。
塩問屋、干物屋、反物屋、炭商、薬種屋……津島の顔役がずらりと並び、その後ろに市役人が控える。
皆、胸の奥に不安と反発を抱えながらも、膝を揃えて信長の出座を待っていた。
その上座に、若殿・織田三郎信長がゆるりと腰を下ろした。
赤の半袴に金糸の小袖、膝には朱塗りの鞘。
まるでこの場が市の真ん中であるかのように、肩肘も張らず、片膝を崩している。
「三日で揃えろ」
信長は低く、しかし飄々と告げた。
「塩も干物も反物も、俺が言った分だ。値は……牛一、てめえが決めろ」
脇に控える牛一へ、鋭い眼が飛ぶ。
「一文でも間違えたら、その首が飛ぶと思え」
ざわめきが座敷を走った。
そのざわめきを楽しむように、信長は笑みを深めた。
「さあ、文句のある者は言え。遠慮はいらん」
最初に声を発したのは、塩問屋の主だった。
「若殿、この値では、我らの方が……」
言葉半ば、信長の子分二人がすっと前へ。
「信長様の御命を聞けぬと申すか。それは殿様・信秀公に刃向かうと同じだぞ」
低く唸る声に、問屋の顔色が失せる。
「そ、そんなつもりでは…」
子分の手が胸倉を掴み、畳の上にどんと投げ出した。
「次」
干物屋が勇をふるって言った。
「今川筋が安塩を流し、仕入れが乱れておりまして……」
最後まで聞く者はない。
別の子分が足を振り抜き、脇腹を打つ。
鈍い音が座敷に響き、声は喉に沈んだ。
三人目、四人目と、口を開く者はことごとく押し倒され、蹴り飛ばされる。
「殿の御名を聞けぬとは何事ぞ」
「尾張で飯を食いながら、この口か」
罵声と足音が交じり、畳の目は乱れ、座敷の隅に人影が転がる。
やがて、誰一人口を開かなくなった。
凍った沈黙の中、信長は朱鞘を肩に担ぎ、ひょいと立ち上がる。
「よし、三日だ。揃わぬ者は……知らん」
その言葉は軽やかだが、底に冷たい刃を潜ませていた。
広間を出れば、冬の川風が面を撫でる。
信長は足を止め、牛一を振り返った。
「どうだ牛一、これが俺の取引だ。遊びも脅しも一度にやれば、商いは回る」
笑い声が腹の底から湧き、津島の通りに高く響き渡る。
その笑いは冬空を裂くように長く尾を引き、橋の向こうまで届いた。
牛一は帳面を胸に抱き、歩を速めた。
このやり口では、いずれ信秀様と大揉めになる――
そう胸中で呟きながらも、背後の笑い声はなお耳から離れなかった。