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第9話

 冬の陽は、暮れ急ぐ。

 木曽川べりを吹き抜ける風が、湿地に置かれた薄氷を鳴らし、牛一の耳を刺した。川面には朱金の帯が流れ、まるで夕日がそのまま水に溶けて下っていくようである。


 道端の枯れ草は霜をまとい、足をかければ白い粉がはらはらと散った。


 津島からの帰路、牛一は馬の手綱を曳きながら、前を行く一行に目をやった。

 真紅の紐で結い上げた茶筅髷、縞の派手な小袖に半袴。腰の朱鞘は夕映えを受けて、刃に血を浴びせたような色を放っている。那古野城の若殿――織田三郎信長であった。


 馬の背には色鮮やかな袋が幾つも揺れ、その口から柿の朱と干物の銀がのぞく。後ろに従う小姓二人、片方は袋を抱え、もう一人は笑いを噛み殺している。

 町人も農夫も、この派手な列を遠巻きに見やり、道を譲った。その視線には羨望もあれば、嘲りもあった。


 清洲の城門前に差しかかると、物売りの婆が慌てて店を畳み、荷車を脇に寄せる。門番の一人が牛一のそばに寄り、口をひそめた。

 「……商人衆、もう顔を出さんと言っておる」

 それだけ告げ、すぐに持ち場へ戻る。


 帳場に入ると、冬の光を和らげる香の煙が細く立っていた。

 そろばんを打つ乾いた音が響き、帳場役の河合勘解由が目を上げる。

 牛一は津島での収支を差し出し、大きな黒字であることを報告した。

 ただし、と息を継ぎ、「商人の中には、しばらく市を控えると言う者も」と付け加える。


 河合は目を細め、そろばんの玉を一つ止めた。

 「数字で勝っても、信用を失えば国は痩せる。昔、尾張にもそういう殿様がいた」

 米相場を操り、一時は財を増やしたが、やがて商人が背を向け、飢饉の年に国が立ち行かなくなった――そんな昔話を、河合は短く語った。


 その時、足音もなく平手政秀が現れる。

 「殿には詳しく報告せよ」

 それだけ残して去っていく。香の煙がわずかに揺れ、帳場の空気は冬の寒気をさらに吸い込んだようであった。


 牛一は心の奥で、津島の市の結果がただの数字で終わらぬことを悟った。 帳場を出ると、廊下の先に朱鞘の影が立っていた。

 灯火に照らされた刃のような光沢が、冬の空気を裂く。


 「牛一、来い」

 若殿・織田三郎信長であった。


 人けのない小部屋へと引き入れられる。障子の隙間から吹き込む風が、紙燭の灯を揺らす。


 「おまえ、耳が利くな。これから俺のために耳を澄ませろ。商人でも家臣でも、俺のことをどう言ってるか、洗いざらい聞き出せ」

 牛一はためらいがちに、「悪評まで」と問うた。

 信長は唇を片端だけ上げる。


 「むしろそれが欲しい。俺を恐れず書け。いずれその筆で俺の物語を書かせてやる」

冬陽の射す茶席は、障子越しに白く透け、香炉の煙が細く昇ってゆく。

津島の市より若殿が戻って二日、城の重鎮たち五人が静かに向かい合っていた。

これは、あの市での振る舞いを評する評定であった。


林秀貞は、筆を膝に置いたまま眉間の皺を深くし、視線を畳に落としている。

彼は数字と先例を武器とする男で、世の潮に呑まれぬためには水面を騒がせぬことを旨としてきた。

その隣、平手政秀は若殿の傅役。茶碗の湯気に眼をやりながらも、胸中には教育係としての責めが重く横たわっている。

森可成は膝を少し前へ出し、目の奥に戦場の炎を宿したまま、口元に笑みを絶やさぬ。

水野信元は扇を膝に置き、扇骨の先で畳を静かに叩いて間合いを量る。

若い前田利家は、拳を固めた手を膝に置き、いつでも飛び出す構えである。


扇の先で軽く畳を叩きながら、水野が口を切った。

「津島より戻った商人どもの半ばは顔を曇らせ、半ばは怯えておるそうな。利は上がれど、笑顔は消えたと聞く」


林が静かにうなずき、低く言う。

「やはり、あのやり口は長くは持たぬ。恐怖で縛れば、商いは一季で痩せる」


森がわははと笑い、膝をさらに前へ押し出した。

「痩せる前に敵を倒せばよい。商いも戦も、勝つときに勝てばそれでよいではないか」


利家が森の言に乗る。

「一喝で荷を倍にさせたと聞く。若殿、見事な腕前ではござらぬか」


林はその言葉に眉を寄せ、「腕前であっても、それが刃ならば、いずれ自らを傷つけましょう」と返す。


平手は茶碗を手にし、泡立つ面をじっと見ていた。

やがて、その泡が音もなく消えるのを見届けると、静かに口を開いた。

「数字は見事。しかし、信用とは、この泡のようなもの。立てるは難しく、消えるは早い」


水野が扇を閉じ、薄く笑んだ。

「泡が消えたあとの茶は、渋いだけにござる」


その一言で、場の空気がさらに沈む。

香炉の煙がすっと揺れ、障子の向こうで冬の風が松を鳴らす音が広間を満たした。


障子の外で耳を澄ませていた太田牛一は、袖に忍ばせた筆をそっと走らせる。

「恐怖と信用、二つの秤が揺れる」と記す筆先が、墨の香とともに自らの胸をも黒く染めていくようであった。


冬陽は、襖越しに白く濁っていた。

血の気を失った病人の顔色のように淡く、松風が庭を渡ってくる音は、病の足音そのもののようである。

香炉の煙が細く天井へ昇り、やがて途切れ、またかすかに立ち上る。


信秀の居間には、畳の目が一筋ごとにくっきりと浮かび、張りつめた空気が染みついていた。

土田御前が膝を進め、襟を正し、口を開く。


「津島での取引、利は確かに上がりましてございます……ただ、商人たちの顔色が曇っております。息子のせいとは、口が裂けても申せませぬが」


信秀は短く「利は結構だ」と返した。

だが眉間の皺は深まり、言葉の余白に沈黙が落ちる。

突如咳が込み上げ、肩を揺らす。御前がそっと背を支え、湯を含ませた。

その様子を控えの間から見ていた牛一の目には、殿の背筋が昨年より細くなったように映った。

襖が荒々しく開き、冬陽が白く差し込む中、朱鞘を腰に織田三郎信長が踏み入った。

真紅の紐で結った茶筅髷、派手な小袖――戦場ではなく芝居小屋に出るような装いである。


「父上、津島は俺の一人勝ちでござった」


信秀は咳を抑えながら、ゆっくりと顔を上げた。

しかしその目は、病の影を越えて、烈火を帯びていた。


「利の数字は見た。だがな――お前のやり口では、商人どもが明日にも尻をまくって逃げるぞ」


低い声が畳を這い、香炉の煙を震わせる。


「逃げる?」信長は笑った。「あれほど荷を出させ、銭も動かせたではござらぬか」


「動いたのは銭だけだ!」信秀は畳を叩いた。

「人の心は凍った。商いの道は戦より脆い。恐怖で縛れば、一度の市で国が痩せる」


信長の笑みがわずかに揺らぐ。

「恐れられても構わぬ。勝ち続ければよい」


「勝ち続けるには、人の心が要る!」

信秀の声が一段高く響き、襖の向こうで控える牛一の背筋を震わせた。


「銭は国の血だ。血管を詰まらせたら、戦の刃も振れぬ。

 ――このまま無法を続けるなら、次の市は信行に任せる」


沈黙が落ちる。障子の外で松風が鳴り、その音が、城の行く末を告げる警鐘のように聞こえた。


その言葉に、若殿の眉がわずかに動いた。

やがて、吐き捨てるように言葉を叩きつける。


「俺がやらなかったら、誰がこれだけの利を出せた。

 信行に任せて、この数字が出せるか。

 親父が行って、この利が挙がるのか。

 すべては結果だ――親父のやり方は甘すぎる」


言い終えるや、袖をひるがえし、畳の縁を蹴って背を向けた。

襖を乱暴に引き、夕陽の赤をまとった影が廊下の奥へ伸び、やがて消える。


居間には香炉の煙と、咳の名残だけが漂っていた。


だがその背には、父の怒気が突き刺さったままだった。

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