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第10話

冬の陽は、ゆるやかに傾きはじめていた。

瓦は昼の温もりをとうに失い、白く硬く冷えきっている。松林を抜けてくる風が、奥御殿の障子をかすかに鳴らし、吐く息を白く曇らせた。


その廊下を、ひとつの影が駆け抜ける。障子越しに長く伸びた影は、節目ごとに細く裂け、光に揺らぎながら奥へ奥へと進む。

影の主は、襖に手を掛けると荒々しく引き開け、敷居を跨ぐより早く膝をつき、額を畳に擦り付けた。


「御前様――殿が……木曽川の渡し近くにて、急にお倒れに……」


声は掠れ、寒気で震えている。走り続けた息の切れ方ではない。告げる言葉そのものの重さが、胸を押し潰しているのだ。


湯の支度をしていた土田御前の指から、茶碗がするりと抜け落ちた。

磁器が畳に当たる澄んだ音が、ひときわ鋭く響く。湯桶から立ちのぼる湯気が、落ちた茶碗の向こうで淡く揺れた。


御前は一息に涙を飲み込み、顔を上げた。眼差しは母ではなく、この城を統べる者のものに変わっていた。


「よい。城中に広めてはならぬ。内密に――門を固め、口を閉じよ」


声は低く抑えられていたが、芯は鋼のように固く、ためらいはない。


目配せひとつで侍女たちは動き出す。衣擦れと足音が畳と板張りを交互に叩き、廊下の先で戸口が次々と閉ざされる。庭に面した障子もすべて引き寄せられ、外光が急速に減った。


「太鼓も鐘も打たせるな。門番には合言葉を替えよ」

「蔵の者には伝えよ、米札の支払いは明朝まで据え置く。借米の催促も止めさせよ」


次々と飛ぶ指示は、軍備と経済の両方を一度に抑えるためのものだった。


松風を運んできた外気が一瞬入り込み、またすぐに消える。御殿は、水底のような静けさに包まれていった。


やがて城門から輿が運び込まれる。足音が揃い、廊下の板が低くきしむ。輿布の端からこぼれる冷気が、周囲の空気を押し退けた。


輿の上、信秀の顔は唇の色を失い、額には冷たい汗が光っている。呼吸は浅く、胸の上下は布団の襞に紛れそうだった。


「これしき……騒ぐほどのことではない」


掠れた声が漏れるが、その中にかつての戦場の檄の響きはない。若き日、信秀の声ひとつで軍勢が動き、槍が一斉に突き上げられたあの力強さは、今は遠い。


その枕元に、信行が座していた。まだ十七の少年は、父の手を握りしめ、ただ見つめている。

野心はなく、家督を継ぐ気など持ち合わせない。ただ、父の容態が良くなることだけを願っていた。


信行の指先は布団の端を軽く握り、額にはうっすら汗。視線は父から離れない。

ふと顔を上げ、母と目を合わせる。御前は静かにうなずき、その目には「守る」という決意が宿っていた。信行はわずかに笑みを返し、再び父に視線を落とす。


廊下の柱陰に、大田牛一が立っていた。袖に忍ばせた筆の感触が、冷えた掌にじんと伝わる。

彼は視線を巡らせ、城内の動き、人物の所作、表情、その全てを心に刻む。


――この夜は、家の命運を変える。


枕元には信行が座していた。

まだ十七の幼い顔は、父の手を握りしめ、ただ見つめている。

その瞳には野心の影もなく、ただ父の容態が良くなることだけを願う祈りがあった。


細い指が布団の端を掴み、額にうっすらと汗が浮く。

ふと顔を上げ、母と目を合わせた。

御前は静かにうなずく。その目には「守る」という決意が宿っていた。

信行はわずかに笑みを返し、再び父へ視線を落とす。


廊下の柱陰に、大田牛一が立つ。

袖に忍ばせた筆の感触が、冷えた掌にじんと伝わる。

牛一は視線を巡らせ、城内の動き、人物の所作、表情、その全てを心に刻み込む。

――この夜は、家の命運を変える。


奥御殿全体が静まり返る中、遠くから板を踏む音が近づいてきた。

軽いはずの響きが、不思議と板間を沈ませ、耳に重く落ちる。


やがて角を曲がって現れたのは、金糸を散らした小袖に派手な半袴、朱塗りの鞘を腰に差した織田三郎信長であった。

普段なら放埓な笑みを浮かべる顔に、今夜は笑みがない。

唇は固く結ばれ、頬には蒼さが差している。

牛一の目には、親指が朱鞘に触れるたび、ほんのわずかに汗で滑る様が映った。


信長は父の枕辺へ歩み寄り、その手を取った。

「父上……」

掠れた声が落ちる。

手の冷たさに、眉がわずかに寄った。


信秀は唇だけで笑った。喉が動くが、声は出ない。

一瞬だけ、父と子の視線が絡み、言葉を超えた何かが流れた。


枕の反対側には信行が静かに座し、兄を見ても口を開かず、視線を落としたまま。まだ残る、兄への畏れであった。


その時、廊下の向こうから衣擦れと足音が重なった。

林秀貞、平手政秀、森可成、水野信元――重臣たちが姿を見せる。

誰も声を発せず、扇の角度や膝の位置、指先の癖で立場が滲む。

林は扇を閉じて膝に直角――守りの構え。

森は膝を半歩前に出す――攻めを含んだ姿勢。

平手は念珠を一つ進めて止め――逡巡の印。

水野は扇骨で畳を一拍――間を計る手つき。

信長の耳としての任を得ていた牛一は、その全てを目に焼き付けた。


静寂を裂いたのは、土田御前の立ち上がる気配であった。

袖に涙を収め、眼差しを鋭く澄ませる。声は抑えられているが、刃のように通る。


「この場の空気を乱すな。外には、いつもと変わらぬ日が流れていると思わせよ」

「皆の者、殿はいまも笑い、語っておられると申して歩け」

「憂うことはない。間もなくお元気を取り戻される。顔にも声にも陰りを見せるでない」


家臣や侍女たちは散り、廊下や台所にあえて明るい声を響かせる。

小姓がわざと大きな笑い声を立て、台所では包丁の音が調子を刻む。

その全てが計算された芝居であることを、牛一は悟った。


外の松籟が障子越しに微かに響く。

だが笑い声や雑音がそれを覆い、城は深い水底のようでありながら、表層には波一つ立たぬ平穏を装っていた。


牛一は袖の中の筆を握り直す。

この場の虚と実、その両方を後世に残すのが己の務め。

ふと視線を上げると、信長の瞳の奥に、恐れと火種が同居しているのが見えた。


信長は父の顔を見下ろし、しばし動かない。

やがて、唇がわずかに歪み、押し殺した声が零れた。


「……親父、何をしている。いつまで寝ておる。起きろ……起きてくれ」


信秀の口元がわずかに上がった。

声はなく、ただ静かな笑みだけがそこにあった。


信長の奥歯が軋む。

「……くそ……こんなことが……」

握った手に力がこもり、爪が父の皮膚に食い込む。


「死ぬな……死ぬなよ、親父。親父がいなくなったら……俺は……」


その声は途中で潰れ、肩が震え出した。

朱塗りの鞘を腰に下げたまま、信長は膝から崩れ、嗚咽をこぼす。

派手な装いの上に、子供のような涙がこぼれ落ちる。


その背後から、土田御前が歩み寄る。

衣の裾が畳を擦る音が、部屋の隅々まで届く。

袖の奥で握られた手は固く、声は低くも鋭く響いた。


「三郎……泣いても事は変わらぬ。殿の子として生まれたからには、そなたがこの家を支える他はない。――今この時より、童を捨てよ」


室内の空気が一段と重くなった。

信長の嗚咽が一瞬途切れ、喉が乾いた音を立てる。

傍らの信行が目を伏せ、膝の上で指を絡める。

重臣たちは視線を交わさず、誰もが呼吸の音すら殺していた。


御前の言葉は槍の穂先のように、信長の胸を突き抜けた。

冬の光が障子の隙から畳をかすめ、すぐに影に沈む。

冷たい影が、音もなく御殿の奥へと満ちていった。


牛一は袖の中の筆を握り直し、この場のすべてを刻もうとした。

後世、この瞬間をどのように記すべきか――その答えは、まだ見えてはいなかった。


父・信秀は、弘治二年三月三日(西暦一五五六年四月八日)、清洲にて突然の病で没したと記録に残る。 その折、嫡子・信長はまだ二十一歳の若武者にすぎなかった。


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