やがて廊下の端までやってきた時、楼主が足を止めた。その瞬間、目の前の襖が自然と開く。
「端女郎の部屋で一番良い部屋を選んでおいたんだ。気に入ってくれると良いけど」
そう言って楼主は私を抱いたまま部屋へと足を踏み入れた。そこでようやく私を下ろしてくれる。
「ついておいで。部屋の設備を案内しよう」
楼主は襖を入ってすぐの石畳の所で下駄を脱ぐと、入ってすぐの襖を開いた。中はちょっと高級な旅館の一室のようになっていて、畳の良い香りがする。
部屋の真ん中には一枚板で出来た高級そうな机が置いてあり、その上にはお菓子まで用意されていた。
私が楼主について部屋に入ると、窓の部分が大きく取られていてそこから柔らかな日差しが差し込んでくる。
「明るい……」
「こういう所だからね。せめて昼間は好きに過ごして欲しいんだよ。何か必要な物があったら言って」
「必要な物……あ……絵を描く道具があったら……嬉しいです」
「絵を描く道具? 小春は絵を描いたっけ?」
「はい。絵を描くのは好きです」
楼主の言い方に少しだけ違和感があったが、私はこくりと頷いた。
何かを描くのが大好きだった。両親がリビングで大声で喧嘩をしていても、私はいつも絵を描いてその世界の中で色々と妄想して楽しんでいた。絵は私の唯一の逃げ場所だったのだ。
私の要望に楼主が興味深そうに尋ねてくる。
「へぇ。どんな絵を描くの?」
「何でも描きます。人物でも景色でも何でも」
絵と名がつくものが何でも好きで、唯一の趣味も絵だ。そんな私の言葉に楼主は頷く。
「分かった。用意しておくよ」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げた私を見て楼主は机の前に座ってあぐらをかくと、机に肘をついて私に問いかけてくる。
「小春は騒がないね。困惑して泣いたのも最初だけだ。この世界が怖いとは思わないの?」
その言葉に私は声を詰まらせた。本当は騒ぎたいし理不尽だと叫びたいが、それをした所でどうにもならない事を私はよく知っている。それは今までの人生の中で何度も何度も味わってきたから。心を閉ざすと決めたからには、どんな状況であっても出来るだけ心は動かさない。それが私の処世術だ。
ところが、こんなよく分からない所に連れて来られて突然遊女になれと言われて困惑もしているはずなのに、何故か不思議とこの世界の事を怖いとは思わない。
「怖くはないです。不思議と」
「そうなんだ。度胸があるのかな?」
「そう見えますか?」
私の問いかけに楼主は腕を組んで笑う。
「う~ん、あんまり」
「……だと思います」
はっきりと言い切る楼主には失礼だと思うが、それは当たっているので反論は出来ない。
けれどこの世界の事を何故かあまり恐ろしいとは思わないのが不幸中の幸いだ。
私は窓の外に視線を移して窓から見える山を指さした。
「ところであそこの山は雪が積もってるのに、あっちの山は桜が咲いてるのはどういう事なんですか?」
「うん? 常世では四季がその場所によって違うんだよ」
興味なさそうにそんな事を言う楼主に私は頷いた。
「面白いですね」
「そう? ねぇ、本当に大丈夫? ちょっと冷静すぎて心配なんだけど」
「冷静という訳ではないのですが、もう諦めました」
実際さっきのような事をされた後では、もう誰と寝ようが同じことだ。好きな人としかしたくない。そう思っていたのに、私は快楽に抗えなかったのだから。そんな自分に私は酷く失望していた。
淡々という私を見て楼主が苦笑いを浮かべる。
「そっか。生気の無い小春の方が可愛げがあったね」
その言葉を無視して私は部屋の中を一通り見て回った。どのみち逃げる事も出来ないのなら、少しでも楽しみを見つけた方が良い。