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第2話 絶対零度であたたまる?

「あの……すいません」

 木造建築の温泉旅館によくある間口の広い玄関。三和土には外出用の下駄がきれいにならんでいる。

「ごめんください……」

 バタバタバタバタ。目の前を旅館の従業員と思われる男性二人が足早に通り過ぎようとしていた。


「あったまりたい!?」

 ケンタは、呆然としながら女将を見つめた。絶対零度で温まる。それは、物理学の常識からすれば、ありえないことだった。


「ええ、そうよ。宇宙じゅうのどこにもない、絶対零度で温まる温泉。それを体験しに、わざわざ地球まで来てくださるのよ」


 女将は、どこか得意げに胸を張った。ケンタは、頭の中で必死に考えを巡らせる。絶対零度とは、原子の熱運動が完全に停止した状態だ。そんな環境下で生命活動を維持すること自体、不可能に近い。ましてや「温まる」など、どう考えても矛盾している。


「あの……女将さん。宇宙一低温のブーメラン星雲でも、絶対零度よりたった一度高いだけなんです。そこに住むお客様は、ほんのわずかな熱でも熱いと感じるんじゃないでしょうか?」


「熱い? 何言ってるの、ケンタくん。ブーメラン星雲のお客様は、熱いのが大嫌いなのよ。だから、絶対零度で温まりたいって言ってるんじゃない」


 女将は、心底不思議そうにケンタを見た。ケンタは、これまでの応用物理学の知識が、一切通用しない現実に直面していた。


「宇宙人の考えることは、常識とは違う……」


 ケンタは、心の中でつぶやいた。しかし、女将の言葉には、商売人としての鋭い洞察力が含まれているように思えた。


「宇宙じゅうにないものを所望していらっしゃるの。だから、私たちの旅館が、それを実現できたら、かなりの【外暇】をいただけるわ。ケンタくん、何とかならない?」


 女将の目は、真剣だった。ケンタは、プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、一つの可能性に気づいた。


「もしかして……錯覚、ですか?」


「錯覚?」


「はい。絶対零度の中で、お客様の体感温度を温かいと感じさせる。そういった方法なら、もしかしたら…」


「それよ! それしかないわ!」


 女将は、手を叩いて喜んだ。


「さっそく準備に取り掛かってちょうだい。明日まで時間がないんだから」


 ケンタは、女将の勢いに押され、返事をするしかなかった。


「は、はい……」


 ケンタは、部屋に戻り、早速絶対零度温泉の準備に取り掛かった。絶対零度を実現することは不可能だ。しかし、それに限りなく近い、極低温の環境を作り出すことはできる。


 ケンタは、特殊な断熱材で覆われた浴槽を組み立てた。浴槽の中には、液体ヘリウムを注入する準備を整える。液体ヘリウムは、絶対零度に近い温度を保つことができる、地球上で最も冷たい液体だ。しかし、これだけでは、ブーメラン星雲のお客様は凍り付いてしまうだろう。


「錯覚か…」


 ケンタは、頭の中で、応用物理学の知識をフル回転させた。


「極低温の中にいるのに、温かいと感じさせるには……」


 ケンタは、浴槽の底に、特殊な電磁波発生装置を仕込んだ。この装置は、お客様の脳に直接作用し、温かさを感じる神経回路を活性化させる。しかし、それだけでは不十分だ。五感が一致しないと、脳はすぐに違和感を察知してしまう。


「視覚と聴覚も…」


 ケンタは、浴槽の周りを、特殊なホログラムプロジェクターで覆った。ホログラムには、燃え盛る炎の映像を投影する。そして、スピーカーからは、パチパチと薪が燃える音を流す。視覚と聴覚から、温かさを錯覚させる。


「触覚は…」


 ケンタは、浴槽の中に、特殊なナノファイバーを投入した。ナノファイバーは、お客様の肌に触れると、わずかに振動し、微細な熱を発生させる。これにより、触覚からも温かさを錯覚させる。


「完璧だ…」


 ケンタは、自分の仕上がりに満足げに頷いた。絶対零度で温まる温泉。それは、物理的には不可能だが、五感を欺くことによって、仮想的に実現することが可能になったのだ。


 翌朝。ブーメラン星雲からのお客様が到着した。背が高く、細身の体型をした宇宙人だ。肌の色は、白銀色に輝いている。


「熱烈歓迎! ようこそ、コスモ温泉へ!」


女将は、満面の笑みでお客様を迎え入れた。


「絶対零度温泉は、あちらでございます」


 女将に案内され、お客様はケンタの作り上げた絶対零度温泉へと向かった。


 お客様は、浴槽の中へと足を踏み入れた。その瞬間、燃え盛る炎のホログラムが投影され、薪が燃える音が鳴り響く。お客様の顔には、驚きと喜びの表情が浮かんだ。


「すごい! 本当に温かい!」


 お客様は、体を沈め、至福の表情を浮かべた。ケンタは、その様子を見て、安堵の息を漏らした。


「成功だ」


 しかし、その安堵も束の間、お客様は急に立ち上がった。


「失敗か!?」


「これは、素晴らしいわ! こんなに温かいのに、全然熱くない! この温泉、最高よ!」


 お客様は、ケンタに深々と頭を下げた。


「こんな素晴らしい温泉は、宇宙じゅうを探しても、どこにもないわ! あなたに、最高の【外暇】を差し上げます!」


 お客様は、懐から小さなメダルを取り出し、ケンタに手渡した。それは、宇宙通貨【外暇】のメダルだった。


 ケンタは、女将と共に、お客様を玄関で見送った。


「ケンタくん、よくやったわ! あなたのおかげで、うちの旅館は、宇宙一の温泉旅館になれるかもしれない!」


 女将は、ケンタの肩を叩いて喜んだ。


 しかし、ケンタは、どこか複雑な表情を浮かべていた。お客様は喜んでくれた。だが、それは、偽りの温泉だった。


「ホンモノの人間によるおもてなし……」


 ケンタは、胸の中に渦巻く、複雑な感情をどうすることもできなかった。


 その日の夜、ケンタは自室で、ブーメラン星雲からのお客様からいただいた【外暇】のメダルを眺めていた。


「これは、俺が作った偽りの温泉の対価……」


 メダルは、キラキラと輝いている。しかし、その輝きは、ケンタの心を満たすことはなかった。


 その時、コンコン、とドアがノックされた。


「ケンタくん、入ってもいいかしら?」


 女将が、お盆に温かいお茶を持って、部屋に入ってきた。


「はい、どうぞ」


「お疲れ様。今日は本当にありがとう。あなたのおかげで、ブーメラン星雲のお客様は、大満足で帰ってくださったわ」


 女将は、ケンタの隣に座り、お茶を差し出した。


「でも、なんだか、浮かない顔をしているわね。何かあった?」


 ケンタは、女将に正直な気持ちを打ち明けた。


「お客様は喜んでくれたけど、あれは、本物の温泉じゃないんです。僕が、お客様を騙したような気がして…」


 女将は、静かにケンタの言葉を聞いていた。


「ケンタくん。お客様は、何のために、はるばる宇宙からやって来たと思う?」


「え?」


「お客様はね、あなたという『ホンモノの人間』のおもてなしを求めて、やって来たのよ。AIロボットが作り出す完璧な温泉じゃなくて、あなたのアイデアと工夫が詰まった、世界に一つしかない温泉をね」


 女将は、ケンタの肩を優しく抱いた。


「あなたの温泉は、本物よ。あなたという人間が、お客様のために一生懸命考え、作り上げた、心のおもてなし。それが、ホンモノじゃないって、誰が言えるの?」


 女将の言葉に、ケンタの心は、温かさに包まれた。それは、絶対零度温泉で味わったことのない、本物の温かさだった。


「ありがとうございました…」


 ケンタは、涙をこぼしながら、女将に深々と頭を下げた。


「さ、明日は、また新しいお客様がいらっしゃるわ。今度は、もっと奇妙なご要望かもしれないけど、あなたならきっと、素晴らしいおもてなしができるわ」


 女将は、そう言って微笑んだ。


 ケンタは、再び【外暇】のメダルを手に取った。その輝きは、もはや偽りの輝きではなかった。それは、ケンタが、ホンモノのおもてなしを成し遂げた証だった。


「よし…」


 ケンタは、新たな気持ちで、メダルを胸にしまった。明日も、また新しいお客様がやってくる。どんな奇妙なご要望でも、ケンタはきっと、最高の「おもてなし」で、お客様を笑顔にできるだろう。


 彼の格闘の記録は、まだ始まったばかりだ。


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