明治四年――兵部省の廊下には、湿り気を帯びた沈黙が漂っていた。
海軍部門の机は減らされ、人の顔も見慣れぬ者ばかりになってゆく。予算は削られ、昇進は遠のき、各地の沿岸防備は手薄になる一方だ。
机上の報告書には、帆も蒸気機関も疲弊した老朽艦の修繕延期、訓練航海の中止、砲弾や石炭の不足といった現実が並ぶ。
私はそれらを目で追いながら、拳を握りしめた。
――このままでは、日本の海は守れぬ。
英国公使館からの書簡には「日本の沿岸防御はきわめて脆弱」とある。顧問団も同じことを言った。
私は海軍の末席に連なる者として、これを放置することはできなかった。いや、それ以上に、薩摩隼人としての血が、黙って見過ごすことを許さなかった。
夜、霞町の小さな料亭。障子を閉め切り、油灯だけが卓を照らす。
私と、同じく薩摩出身の若い将校たちが向かい合って座った。
「川村さん、このままじゃ海軍は終わりますぜ」
「艦は老い、士気は腐る。予算は削られ、陸軍ばかり肥えていく」
彼らの声は低いが、怒りの熱を帯びていた。
私は静かに頷き、一人ひとりの訴えを記した。いずれ全てを形にし、西郷従道殿に訴えるために。
翌日、西郷従道の執務室を訪ねた。
「従道殿、現場の声をお聞きいただきたい」
分厚い帳簿と手書きの報告書を机に置く。そこには訓練停止の記録、老朽艦の修理延期、沿岸警備の欠如が克明に記されている。
従道は黙って目を通し、やがて深く息を吐いた。
「……兄上(隆盛)と大久保殿に話を通そう。だが、その前に薩摩の海軍者を集める」
私たちは視線を交わし、わずかに頷いた。もはや退く道はない。
数日後、薩摩グループが密かに集結した。
そこには、かつての戊辰戦争を共に戦った仲間もいた。皆、表情は硬い。
現状分析が次々と口にされ、やがて一つの方針が固まった。
――「海陸兵備の件」上申書を起こす。
名目は役割分担だが、狙いは陸軍偏重の是正と海軍独立への道筋。
従道は兄・隆盛、大久保への根回しを約し、私は現場将校の証言を裏付けとして添えることを請け負った。
あの夜、席を立つとき、灯の影が仲間たちの顔に揺れた。
その表情には、不安と、そして闘志が交錯していた。
――この一歩が、日本の海を救う礎となる。
私はそう信じて、闇に沈む街路へと歩みを進めた。
明治五年、冬の冷え込みが骨身にしみる朝だった。
私は太政官正院の長廊下を歩きながら、足音をわざと響かせぬように気を配っていた。
この日、議題に上るのは「海陸兵備の件」。兵部省廃止と両省分立の是非、そして予算配分――すなわち、海軍独立の命運を握る会議である。
広間に入ると、長机を挟み左右に陣取る顔ぶれが、すでに冷ややかな空気を漂わせていた。
向かって右には山県有朋を筆頭に、長州閥の陸軍首脳がずらりと並ぶ。
左には西郷従道、大久保利通、そして私。背後には少数の海軍関係者が控えていた。
背筋を伸ばし席に着くと、山県がゆっくりと口を開いた。
「財政は逼迫しておる。いま海軍の予算を増やせば、陸軍の編成にも支障が出る」
その声音は冷たく、すでに結論を含んでいるかのようだった。
周囲の長州系将校が次々と追従する。
「当面、対外戦争の兆しはない」
「国の背骨は陸軍にあり。海は商船と沿岸砲台で足りる」
私は黙して耳を傾け、机上の書類の角を指先でなぞった。
言葉を発するまでの間合いは、刀を抜く前の呼吸と同じく重要だ。
「――諸君」
静かに口を開いた私の声が、広間に落ちる。
「列強の艦隊はすでに東洋の海を我が物顔で航行しております。清国も朝鮮も、その圧に屈しつつある。もし我が国が備えなければ、次は日本が呑まれる」
山県が眉をひそめる。
私は視線をまっすぐ彼に据え、言葉を重ねた。
「陸が背骨であることは否定いたしません。しかし、背骨を動かすには四肢が要る。海軍はその手足です。沿岸を破られれば、背骨も折られましょう」
広間に沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは従道だった。
「我らは陸軍を削れと言うのではない。陸と海を分け、それぞれが責任を負う体制を作りたいのだ。兵部省の下では、海軍の声が届かぬ」
その声音には、薩摩人らしい抑えた熱があった。
机の端から、大久保がゆっくりと口を挟む。
「山県殿、ここは両省分立を試みるべきではないか。財政は再配分すればよい」
その一言は、閉ざされた扉に楔を打ち込むような響きを持っていた。
山県は沈思し、視線を机上に落としたまま答えない。
やがて、低い声で言った。
「……分立の是非、検討に値するやもしれぬ。ただし、財政と人事の条件は詰めねばならん」
わずかな譲歩――だが、それは海軍独立への細い道筋だった。
この瞬間、私は初めて、突破口が開けた手応えを感じたのである。
太政官での議論から数日、私は省内の机に向かい、上申書の草案に筆を走らせていた。
文面は慎重でなければならない。正面から陸軍を批判すれば、長州閥の反発を招くだけだ。
だが、弱腰では話にならない。海軍が国家防衛の一翼を担う必然を、理と情で説き伏せねばならぬ。
私は紙面に「陸海分立之儀」と記し、続けて沿岸防備の現状、列強艦隊の動向、近年の国際事件を列挙した。
単なる意見書ではない。これは、海軍の命運を賭した戦書である。
草案を抱え、西郷従道の私邸を訪れた。
従道は机上の文を一読すると、すぐに筆を取り、いくつかの語句を直した。
「川村殿、この一文は角が立つ。だが、意味は残すように書き換えるべきだ」
彼の筆は流れるようでいて、鋭さを失わない。
さらに数日後、大久保利通の意見も加わった。
彼は草案をじっと読み込み、短く言った。
「良い。だが、これだけでは官僚どもは動かぬ。裏で何人かを固めておこう」
その目は、すでに次の一手を見据えていた。
やがて、最終稿が整った。
西郷、大久保、そして私――三者の署名が並ぶ。
その墨痕は、ただの名前ではない。背後にある藩閥の力、信頼、そして覚悟が、黒々と刻まれていた。
しかし、この署名の裏では、静かな工作が進んでいた。
従道は薩摩出身の官僚を通じて、海軍分立の必要性をさりげなく流布し、大久保は太政官内部の中立派に働きかけた。
私は旧兵部省の海軍系将校を回り、分立案への賛意を水面下で取り付けた。
夜、署名済みの上申書を前に、私は筆を置いた。
この文が通るか否かで、海軍の未来は大きく変わる。
――だが、これで終わりではない。これからが本当の戦だ。
机の上の灯が、墨の黒を深く照らしていた。
その黒は、これから訪れる暗闘の色でもあった。