明治八年、初夏。
海軍省の帳簿は、例年よりさらに冷たい数字を並べていた。
陸軍の新式銃購入や兵営拡張に予算が割かれ、海軍の新造艦計画は棚上げが続く。艦隊は老朽艦の整備費すら削られ、士官の訓練航海も縮小されていた。
「これでは、海軍は沿岸警備の飾り物に過ぎん」
川村純義は低く吐き捨てるように呟いた。机の上には、赤線と×印だらけの予算案が広げられている。
その頃、朝鮮半島の情勢は不穏を増していた。開国を拒み続ける朝鮮王朝に対し、清国とロシアが互いの影響力を競い合う。
北方のロシアは、極東の拠点・浦塩を固め、南下の機会をうかがっている。もし朝鮮がロシアの港湾使用を認めれば、日本は安全保障の要を失うことになる――そんな危機感が海軍上層部を駆り立てていた。
六月のある夜。海軍省奥の応接室。
厚いカーテンが外界の光を遮り、ランプの炎だけが黄昏色に部屋を染めていた。扉は内側から閂が掛けられ、外には護衛兵の姿。
この場に集まったのは、海軍卿・川村純義、中将・西郷従道、少佐・山本権兵衛、そして数名の参謀たちである。
川村は開口一番、机を叩いた。
「このままでは海軍は衰える一方だ。いや、衰えるどころか、存在を忘れられる」
予算案を示し、陸軍への優遇と海軍への冷遇を無言で突きつける。
西郷従道が眉をひそめ、「海を軽んじれば、この国は列強に呑まれる」と短く補った。
山本権兵衛が立ち上がる。
彼は大きな海図を広げ、指先で朝鮮半島西岸をなぞった。
「ここが江華島です。砲台は旧式で、兵士の訓練も不十分。我が艦隊の前には防波堤にもなりません」
参謀たちは無言で地図を見つめる。その視線には、焦りと、ほんのわずかな期待が混ざっていた。
川村は、しばし地図を見つめたまま言葉を選んだ。
「この江華島で、我らは一撃を加える。開国を迫る口実としてだけではない。国内外に、海軍の存在を刻みつけるためだ」
部屋の空気がわずかに重くなる。
単なる示威行動ではない。これは、政治の場で冷遇され続ける海軍が、自らの価値を証明するための賭けでもあった。
西郷従道がゆっくりと頷いた。
「もし短期間で制圧し、無傷で帰還できれば、陸軍も政府も海軍を無視できまい。だが……失敗すれば、今度こそ終わる」
その声には兄・隆盛譲りの静かな迫力があった。
山本権兵衛は迷いなく言葉を重ねる。
「艦は『雲揚』を旗艦に据えます。最新の英国式砲術を見せるには十分。乗員は百数十名、砲弾の備蓄も確保できます」
彼の声は若いが、戦術に関しては鋭さを帯びていた。
一人の参謀が口を挟む。
「朝鮮は清国の影響下です。下手をすれば清との衝突に発展する」
だが川村はそれを遮った。
「清国もロシアも、この段階では動けぬ。重要なのは、この機会を逃さぬことだ」
沈黙の後、全員が頷いた。
それは命令ではなく、同意の証だった。
この作戦は、政府の承認を得て行う「公式な外交交渉の一環」として装いながら、実際には海軍の実力を世界に示す舞台となる。
密談の最後に、川村は短く言った。
「我らは海を守るためだけの存在ではない。この国の未来を切り拓く剣であり盾だ。それを、この一戦で証明する」
ランプの炎が揺れ、壁に映る影が大きく揺らめいた。
外の夜風は湿って重い。だが、この部屋に漂う空気は、確かに熱を帯びていた。
こうして、江華島への航路は静かに、しかし確実に動き出したのである。
雲揚号、全長約35 m、当時の海軍の主力艦がこの船であった。
木の船倉を鉄で補強した船、主砲もあるが飾り程度である……欧米なら博物館に置く代物だ。
けれども、海軍の士気は高かった。
俺たちがやるしかない。日本国民の意地。海軍の意地を見せる戦いであった。
雲揚の甲板は、夜気を吸い込みつつも、作業灯が浮かび上がらせる蒸気の白い煙に包まれていた。外輪に油を差す水兵、帆綱を巻き直す者、弾薬箱を船倉へ運び込む者──すべての動きが緊張に満ちていた。
艦長・井上良馨 少佐は士官たちの間を静かに歩き、短く指示を飛ばす。
「弾薬の搭載は確認したな? 砲身の手入れは済ませておけ」
その冷静な声に、乗組員は皆、身を正して応じた。
若い一等水兵・田口は弾薬箱を抱えながら古参兵に問いかける。
「……本当に撃ってくるんでしょうか」
古参兵は微笑みを浮かべつつ言った。
「撃つだろう。だが心配するな。俺たちは今、日本海軍の正統性を背負っている。撃たれたら、撃ち返すだけだ。」
その時、広々とした港の向こうから一台の馬車が姿を現した。馬車から降りるのは、海軍卿・川村純義大将。外套を翻しながら甲板に足を進めると、整列した士官・水兵たちは深い敬礼で応えた。
川村大将は静かに語った。
「この雲揚号は、木造と蒸気の併用艦。防御力はないに等しい。しかし、諸君には誇りと勇気がある。それを信じて出航する。」
そしてさらに、艦隊教範の一ページをゆっくりと広げ、名前を書き込むような口調で続ける。
「この行動は、我が海軍が国に存在を認めさせる戦いだ。成功すれば、日本の夜明けを開ける第一歩となる。覚悟はあるか?」
井上少佐は背筋を伸ばし、声が震えながらも力強く答えた。
「はい、必ずや雲揚の威容を立てて見せましょう。」
川村大将は短く頷き、命令すると静かに去っていった。
汽笛が港に低く響き、雲揚号は静かに岸を離れた。
岸壁に残る灯りが遠ざかり、前方には暗い波間が広がる。
その先に――江華島が待っていた。