1875年(明治8年)9月20日、まだ夜明けの光が海面を薄く染める頃、雲揚号は静かに江華島の海域へと進み入った。
甲板を渡る風は湿っており、霧の粒が肌にまとわりつく。遠くの海面は白くかすみ、島影すらまだ見えない。
井上良馨(いのうえよしか)少佐は艦橋から前方を凝視していた。
その眼差しは静かだが、内には鋼のような決意が宿っている。背後で航海長が小声で報告する。
「潮流は東へ、時速二ノット。浅瀬は……まだ先です」
「よし、測距を続けろ。あの島影が見えるまで接近する」
井上は短く命じ、再び双眼鏡を目に当てた。
見張り台から声が落ちてくる。
「前方右舷、陸影確認! 距離、およそ二千メートル!」
霧の幕を割るように、江華島の輪郭が浮かび上がる。岩肌と、その背後に並ぶ土塁。砲台らしき黒い影がこちらを睨んでいた。
甲板では古参の砲手が新人に低く囁く。
「おい、気を抜くな。あいつらは警告なしに撃ってくるかもしれん」
新人水兵は唾を飲み込み、手のひらにじっとりと汗を感じていた。
雲揚号は、あくまで測量任務という名目で接近を続けていた。だが井上の胸中は、それ以上に複雑だった。
――ここで退けば、海軍の存在感はますます薄れる。
――ここで一矢報いれば、陸軍や官僚どもにも示せる。日本の海は、我らが守ると。
その時、島の砲台に人影が走った。
高く掲げられた旗が翻る。意味は一つ――退去せよ、である。
井上はその信号を無視し、速度をやや落としたまま直進を続けた。艦内の空気がぴんと張り詰める。
やがて、乾いた轟音が霧を裂いた。
江華島から放たれた砲弾が海面に突き刺さり、白い水柱が高く舞い上がる。飛沫が甲板を濡らし、水兵たちの顔を打った。
誰もが息を呑む中、井上の口元がわずかに引き締まる。
火蓋は、落とされたのだ。
薄曇りの空の下、江華島は灰色の海面に、沈黙する巨人のように横たわっていた。
その岸壁の向こうには、黒々とした砲台が並び、無言でこちらを見据えている。
木造の船体――海軍雲揚号は、波に揺れるたびにきしみ、船底から不安げな低音を響かせた。新鋭艦とはほど遠い。欧米列強の鋼鉄艦と比べれば、まるで時代遅れの木の箱だ。それでも、この船こそが今の日本海軍の象徴であり、砦だった。
艦橋に立つ井上少佐は、じっと前方を見据えていた。
潮の匂いと煤の香りが混じった風が頬をなでる。遠く波間のかなたに、黒い砲口が整列しているのが見える。
――ここで退けば、海軍の未来はない。
陸軍の影に隠れ、いつ解体の声が上がってもおかしくない。だからこそ、この遠征は、ただの外交や警備ではなかった。日本海軍が存在を証明するための舞台だった。
「測距班、距離を知らせろ」
井上の声が、張り詰めた空気を切る。
「機関室、蒸気圧を最大まで上げろ。砲術班、装填急げ。上陸隊は銃剣装着!」
命令が飛ぶたびに、甲板は活気づき、兵士たちの足音が響く。
測距員が望遠鏡を覗き込み、「射程圏まで、あと千二百!」と声を上げる。
艦の周囲を、静かな海面が取り囲む。だがその静けさは、まるで弓を引き絞ったままのような張り詰めた静寂だった。
井上は目を細めた。
岸壁に立つ兵の影、その背後に積み上げられた砲弾の山――。
わずかな潮の流れさえ、これからの戦いの行方を左右するように思えた。
次の瞬間、測距員が再び叫んだ。
「敵砲台、こちらに照準を合わせています!」
甲板の全員が息を呑んだ。
江華島の沈黙が、破られようとしていた。
轟――。
空気そのものを裂くような音とともに、敵砲台から白煙が吹き上がった。
瞬間、甲板の兵士たちが身を低くし、砲弾は船首すれすれを掠め、海面を叩いて巨大な水柱を立てた。
「当たらん!」
井上少佐の声が、爆音の中でもはっきりと響く。
「敵の大砲は旧式だ! 構うな、このまま全速前進だ!」
機関室がうなりを上げ、船体が海を割って進む。
砲術班は返す刀で左舷砲を撃ち放ち、轟音とともに敵砲台の胸壁を砕いた。砕けた石が宙を舞い、敵兵の叫びが風に乗って届く。
「上陸用意!」
井上は、すでに次の手を読んでいた。砲戦で時間をかければ、陸上から増援が駆けつける。勝機は、敵の混乱が広がるこの瞬間しかない。
甲板に集まった上陸隊――三十余名の精鋭が、銃剣を光らせた。
その顔には恐怖よりも、決意の色が濃い。木造艦しかない海軍にとって、この一戦はただの戦闘ではなく、生き残りを賭けた存在証明だった。
「日本海軍の名誉は、貴様らの足にかかっている!」
井上の一喝に、兵たちが力強く「応!」と応える。
ボートが次々と海に降ろされる。櫂が水をかき、白波を蹴立てる。
敵砲台はなお火を噴くが、その弾は射程外に落ち、あるいは海を滑って外れた。
「急げ! 敵が持ち直す前に!」
井上は双眼鏡を握り締め、上陸隊の進む先を見守る。
やがて、最前列の兵が江華島の砂浜に足を踏み入れた。
その瞬間、再び轟音が響き、銃撃戦が始まった――。