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第3話 契約は恋よりシビア

 オフィスの扉が開いた瞬間、空気が一段と引き締まった。

背の高い男が、静かな足取りで会議室に入ってくる。精悍な顔立ちに冷ややかな視線、それでいて一度笑えば周囲を安心させる不思議な魅力を持つ。その人こそ、この会社のCEO――陸だった。


黒のスーツに身を包んだ彼は、社員の誰もが憧れと畏怖を抱く存在だ。決断力と行動力で会社を急成長させた若き経営者。だが、私にとっては単なる「遠い存在」ではなかった。


数か月前、恋人に裏切られ打ちのめされていた自分を、初めて真正面から見つめ、声をかけてくれたのが陸だったからだ。

「大丈夫か?」そのときの低い声と、温度を含んだ瞳が、今も胸に焼きついている。


会議室の空調はやや冷たく、磨き上げられたガラスのテーブルが私の顔を映している。

 大きな窓から差し込む昼の光が、資料の端に白い縁を作っていた。


陸は向かいに座り、ノートパソコンを閉じた。

「条件は確認したか?」

「法的に問題ない、これもいい、でも拘束条項が多い」といいながら親指と人差し指で◯を造り胸の前で見せた。


 私はファイルを軽く押し出し、テーブルの中央へ滑らせる。

 陸はそれを一瞥し、わずかに口角を上げた。

「強気だな」

「恋と違って、契約は裏切らない」

「恋のほうが儲かる時もある」

「それはあなたの市場だけの話ね」


 彼の視線は、数字だけでなく私の顔や声の抑揚まで探っているようだった。

 私はペンを指にくるくると回しながら、書類の一文を指さす。

「ここ。この成功報酬率は上げてもらう。成果が出る前提でしか動かない」

「その自信はどこから?」

「経験と、あなたの目の色」


 一瞬だけ沈黙。陸は視線を外さずにペンを走らせた。

「いいだろう。ただし条件が一つある」

「何?」

「マーケティング広報は俺と直接動け。間に誰も挟まない」

「合理的ね。ただし、私生活に踏み込んだら即契約解除よ」

「線は守る。消す時は二人で消す」


 会議室の壁時計が静かに時を刻む。

 私たちは契約書にサインをし、握手を交わした。

 陸の手は温かく、指先に力がこもっていた。その感触に、取引以上の温度を感じてしまう。


 会議室を出ると、廊下の窓から昼の光が差し込み、床に淡い影を落としていた。

 契約書を抱えながら深く息を吐く。——恋は甘く、契約は冷たい。だがどちらも私が主導権を握る。


 スマホが震え、茜からメッセージが届く。

《契約成立?》

《成立。条件は私好みに調整済み》

《仕事と男、同時進行は危険よ》

《知ってる。でも危険は利益と同じ匂いがする》


 送信ボタンを押した瞬間、背後から低い声がした。

「有栖」

 振り返ると、陸が立っていた。

「次の打ち合わせは、明日の朝8時だ。コーヒーはブラックでいいか?」

「砂糖は要らない。甘さは——」

「人で足せばいい、か?」

 私が口にする前に、彼は先に言った。

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