オフィスの扉が開いた瞬間、空気が一段と引き締まった。
背の高い男が、静かな足取りで会議室に入ってくる。精悍な顔立ちに冷ややかな視線、それでいて一度笑えば周囲を安心させる不思議な魅力を持つ。その人こそ、この会社のCEO――陸だった。
黒のスーツに身を包んだ彼は、社員の誰もが憧れと畏怖を抱く存在だ。決断力と行動力で会社を急成長させた若き経営者。だが、私にとっては単なる「遠い存在」ではなかった。
数か月前、恋人に裏切られ打ちのめされていた自分を、初めて真正面から見つめ、声をかけてくれたのが陸だったからだ。
「大丈夫か?」そのときの低い声と、温度を含んだ瞳が、今も胸に焼きついている。
会議室の空調はやや冷たく、磨き上げられたガラスのテーブルが私の顔を映している。
大きな窓から差し込む昼の光が、資料の端に白い縁を作っていた。
陸は向かいに座り、ノートパソコンを閉じた。
「条件は確認したか?」
「法的に問題ない、これもいい、でも拘束条項が多い」といいながら親指と人差し指で◯を造り胸の前で見せた。
私はファイルを軽く押し出し、テーブルの中央へ滑らせる。
陸はそれを一瞥し、わずかに口角を上げた。
「強気だな」
「恋と違って、契約は裏切らない」
「恋のほうが儲かる時もある」
「それはあなたの市場だけの話ね」
彼の視線は、数字だけでなく私の顔や声の抑揚まで探っているようだった。
私はペンを指にくるくると回しながら、書類の一文を指さす。
「ここ。この成功報酬率は上げてもらう。成果が出る前提でしか動かない」
「その自信はどこから?」
「経験と、あなたの目の色」
一瞬だけ沈黙。陸は視線を外さずにペンを走らせた。
「いいだろう。ただし条件が一つある」
「何?」
「マーケティング広報は俺と直接動け。間に誰も挟まない」
「合理的ね。ただし、私生活に踏み込んだら即契約解除よ」
「線は守る。消す時は二人で消す」
会議室の壁時計が静かに時を刻む。
私たちは契約書にサインをし、握手を交わした。
陸の手は温かく、指先に力がこもっていた。その感触に、取引以上の温度を感じてしまう。
会議室を出ると、廊下の窓から昼の光が差し込み、床に淡い影を落としていた。
契約書を抱えながら深く息を吐く。——恋は甘く、契約は冷たい。だがどちらも私が主導権を握る。
スマホが震え、茜からメッセージが届く。
《契約成立?》
《成立。条件は私好みに調整済み》
《仕事と男、同時進行は危険よ》
《知ってる。でも危険は利益と同じ匂いがする》
送信ボタンを押した瞬間、背後から低い声がした。
「有栖」
振り返ると、陸が立っていた。
「次の打ち合わせは、明日の朝8時だ。コーヒーはブラックでいいか?」
「砂糖は要らない。甘さは——」
「人で足せばいい、か?」
私が口にする前に、彼は先に言った。