翌朝8時。オフィスの会議室はまだ人がまばらで、外の通りも静かだった。
ドアを開けると、陸が既に座っていた。
「早いのね」
「遅いよりはいいだろう」
テーブルの上には、湯気を立てる二つのカップ。
「ブラックでいいか?」
「砂糖もミルクもなし?」
「甘さは砂糖で足すものじゃない」
私はカップを受け取り、一口飲んだ。苦味が舌に広がる。
「苦いわね」
「苦い方が覚醒する。契約も同じだ」
「じゃあ昨日の条件交渉で覚醒したのはどっち?」
「二人ともだろう」
資料を広げると、陸は鋭い視線でページを追った。
「ここのキャッチコピー、語尾を切るべきだ」
「切る? 言葉の余韻を殺すの?」
「余韻より刃だ。市場は斬られたほうが動く」
「なるほど。あなたは情より数字を信じるタイプね」
「数字は裏切らない」
「恋愛も同じこと言ってたら面白くない男よ」
短い沈黙のあと、陸はわずかに笑った。
「じゃあ俺は面白い男になる努力をしよう」
「努力は評価するわ」
議論が一段落した頃、陸のスマホが震えた。
彼は一瞬だけ画面を見て、動きを止める。
「出ないの?」
「……仕事じゃない」
「じゃあ誰?」
答えはなく、代わりに着信音が二度、三度と室内に響いた。
画面に映った名前を、私は偶然見てしまう。女の名前だ。
陸は着信を切り、資料に視線を戻した。
「続けよう」
「いいわ。でも——」
「何だ」
「その顔、さっきまでの数字よりずっと複雑よ」
私の言葉に、陸は初めて視線を逸らした。
会議室の空気が、コーヒーの苦味より重くなる。
——この男、過去に甘さを捨てた理由がある。
それが何かは、まだ聞かない。
知るのは、私が勝手に踏み込んでもいいと思った瞬間だ。