昼前、社内の空気がやけにざわついているのを感じた。
プリンターの前で社員が二人、ひそひそ声を交わしている。
——ああ、もう来たか。
デスクに座ると、社内チャットに匿名投稿のスクリーンショットが届いた。送り主は茜。
「有栖は新CEOを籠絡して契約を勝ち取ったらしい」
「営業というより接待。女の武器は強いね」
笑ってしまうほど雑な文面。
——速さは馬より、悪意は風より。噂はいつだって証拠より先に走る。
茜からメッセージが飛ぶ。
《どうする?》
《歩く》
《……は?》
《女は追いかけられてこそ。走るのは相手に任せる》
昼過ぎ、陸から呼び出しがかかる。
会議室に入ると、彼はスマホを机に置いた。
「噂、聞いたか」
「ええ。よくできた物語だと思ったわ」
「放っておくつもりか」
「否定すればするほど燃えるでしょう? 燃料は相手にくれてやる」
「大胆だな」
「契約と噂、どっちが長生きすると思う?」
「契約だ」
「そういうこと」
陸はしばらく黙ってから、机上の書類を指さした。
「この件は俺が処理する。君は仕事に集中しろ」
「処理、ね。火消しは得意?」
「火加減は調整できる」
「じゃあ、私は風を送る役に徹するわ」
オフィスを出ると、葉月から着信があった。
「見た? ネットのトレンド」
「見たわ」
「悠真の仕業よ。ああいう低レベルな攻撃、すぐ顔に出る」
「顔に出た瞬間、駒として使える」
「そういう笑い方、好き」
葉月は続けた。
「悠真の会社、来月の展示会に出る予定。そこに、あなたのPR案件をぶつける」
「噂が燃えてる今こそ、炎上マーケティングね」
「そう。燃やすなら、見てる前で」
ビルを出ると、春の風が頬を撫でた。
私は足を止め、スマホで悠真のメッセージを開く。
“話し合いたい”とだけ書かれた一文に、ゆっくりと既読をつける。
——走らない女は捕まえにくい。追う側にとって、それが一番の罰だ。