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第11話 「あなた」じゃなくて名前で

展示会が終わった翌日、オフィスは通常業務の静けさを取り戻していた。

 私は新案件の資料を抱えて会議室に入る。

 そこには陸が一人、ラップトップの画面を睨んでいた。


「持ってきたわ。追加資料」

「助かる」

 短く答えた陸は、私の差し出した書類を受け取りながら、ふと口にした。

「有栖、ここの数字——」


 名前。

 この男が私を二人称ではなく、名前で呼ぶのは初めてだった。

 その一瞬、室内の空気が変わった。

「……名前で呼ぶなんて、珍しいわね」

「仕事のパートナーは、肩書きじゃなくて名前で呼んだほうがいい」

「ずいぶん距離を詰めてきたわ」

「詰めたくなる時もある」


 返す言葉を探す間、陸は淡々と資料に目を通し、赤ペンを走らせる。

 だが、その横顔の奥に、言葉にしない温度が見えた。


「この企画、展示会で見せた案より攻めてる」

「攻めないと、悠真の会社は潰れない」

「復讐と利益、どちらを優先する?」

「両方。欲しいものは同時に取る」

 陸は短く笑い、赤ペンを置いた。

「やっぱり高値圏だな。簡単には買えない」

「なら、買う覚悟を見せればいい」


 会議室を出るとき、視界の端に動く影があった。

 廊下の角、玲花が立っていた。

 その目は笑っていなかった。

「仕事熱心ね」

「ええ。あなたも昔はそうだったんでしょう?」

 軽く言い返すと、彼女は一歩だけ近づいた。

「名前で呼ばれるのは、特別な証よ。有栖さん」

「そう。じゃあ大事にしておくわ」


 玲花の視線を背に受けながら、エレベーターへ向かう。

 ——名前には重さがある。呼び方ひとつで、距離も力関係も変わる。

 今日、その重さを手に入れた。

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