展示会が終わった翌日、オフィスは通常業務の静けさを取り戻していた。
私は新案件の資料を抱えて会議室に入る。
そこには陸が一人、ラップトップの画面を睨んでいた。
「持ってきたわ。追加資料」
「助かる」
短く答えた陸は、私の差し出した書類を受け取りながら、ふと口にした。
「有栖、ここの数字——」
名前。
この男が私を二人称ではなく、名前で呼ぶのは初めてだった。
その一瞬、室内の空気が変わった。
「……名前で呼ぶなんて、珍しいわね」
「仕事のパートナーは、肩書きじゃなくて名前で呼んだほうがいい」
「ずいぶん距離を詰めてきたわ」
「詰めたくなる時もある」
返す言葉を探す間、陸は淡々と資料に目を通し、赤ペンを走らせる。
だが、その横顔の奥に、言葉にしない温度が見えた。
「この企画、展示会で見せた案より攻めてる」
「攻めないと、悠真の会社は潰れない」
「復讐と利益、どちらを優先する?」
「両方。欲しいものは同時に取る」
陸は短く笑い、赤ペンを置いた。
「やっぱり高値圏だな。簡単には買えない」
「なら、買う覚悟を見せればいい」
会議室を出るとき、視界の端に動く影があった。
廊下の角、玲花が立っていた。
その目は笑っていなかった。
「仕事熱心ね」
「ええ。あなたも昔はそうだったんでしょう?」
軽く言い返すと、彼女は一歩だけ近づいた。
「名前で呼ばれるのは、特別な証よ。有栖さん」
「そう。じゃあ大事にしておくわ」
玲花の視線を背に受けながら、エレベーターへ向かう。
——名前には重さがある。呼び方ひとつで、距離も力関係も変わる。
今日、その重さを手に入れた。