昼下がりの陸のオフィス。
窓の外は春の陽光が柔らかく差し込んでいるのに、室内の空気はどこか張り詰めていた。
デスクの上、陸のノートパソコンに映るのは一通の匿名メール。
「これ……」
画面に映った添付ファイルを見た瞬間、息が止まった。
あの夜道、陸と交わした短いキス——そしてその瞬間を切り取った盗撮写真。
「送信者不明。差出人名もIPも偽装だ」
陸の声は淡々としているが、瞳の奥には怒りの色が混ざっている。
「脅迫?」
「いや、まだ何も要求してきていない。……だからこそ不気味だ」
彼は写真を拡大し、静かにため息をつく。
「これは、俺たちを試している」
「試す?」
「どう反応するか、どう動くか……その反応を見たい奴がいる」
私はしばし沈黙した。
写真は、ただの記録じゃない。刃にも盾にもなる。
「じゃあ、利用しましょう」
私の言葉に、陸の眉がわずかに動いた。
「利用?」
「ええ。この証拠の価値を最大限に引き上げる。攻められる前に、こちらから交渉のテーブルに持ち込むの」
陸は椅子から立ち上がり、私の前に歩み寄る。
そして、私の顎に軽く指をかけ、顔を上げさせた。
「君は……本当に強くなった」
その低い声に、心臓が跳ねる。
「強くならなきゃ、あなたの隣には立てないもの」
陸の唇が近づく。
昼間のオフィス、誰かに見られるかもしれない緊張感。
それなのに、視線も、距離も、逃げられない。
「昼間のキスは、夜より危険だ」
「夜より……好き」
唇が触れた瞬間、指先まで熱が走った。
ほんの数秒——それだけで足元がふらつきそうになる。
「交渉は俺が進める。でも——」
陸は耳元で囁く。
「君には、交渉の“切り札”になってもらう」
「切り札?」
「俺と君の関係そのものが、向こうにとって最も揺さぶれる駒だ」
その言葉の意味を飲み込みながらも、私は微笑んだ。
「じゃあ、見せつけましょう。簡単には崩れないって」
「……惚れ直す」
午後六時。
私たちは二人きりで、古びた高級ホテルのラウンジに現れた。
匿名メールの差出人が指定した場所だ。
背もたれの高いソファに座り、向かいの席に現れたのは——見覚えのある男。
悠真ではない。だが、彼のビジネスパートナーであり、かつて私を値踏みするように見た男。
「お久しぶりですね、有栖さん」
笑みを浮かべながらも、目は冷たい。
「写真を送ってきたのは、あなた?」
「質問は交渉が始まってから」
陸が私の手をテーブルの上で握った。
その温もりは、私にとって鎧よりも強い防御だった。
「さあ——ゲームを始めようか」
陸の低い声が、ラウンジの重い空気をさらに濃くする。