交渉を終え、ホテルを出た。
ビルの谷間を吹き抜ける夜風は冷たく、頬を撫でるたびに、さっきまでの緊張がほんの少し溶けていく。
でも、陸の手の温もりが、逃げ場のない現実を思い出させた。
「……あの男、本気で私たちを試してたわ」
有栖が口を開くと、陸は横目だけを向けた。
「試していたんじゃない。踏みにじろうとしたんだ」
その低い声に、足が一瞬止まる。
「踏みにじられるの、慣れてるつもりだったけど」
笑おうとしたけれど、喉が詰まった。
陸が立ち止まり、私を正面から見下ろす。
「——俺は慣れてない」
静かな街灯の下、陸の指が私の頬に触れる。
その仕草は優しいのに、目の奥は鋭い。
「有栖。お前の欲しい未来を、俺に委ねろ」
命令のようで、誓いのようでもある言葉。
心臓が、不規則に打ち始めた。
「委ねたら……何をされるの?」
「全部」
短く、即答。
ぞくりと背筋を走る感覚に、足元がぐらつく。
通り過ぎるタクシーのヘッドライトが、陸の横顔を一瞬だけ照らす。
その光の中で、彼の唇がわずかに動く。
「俺は奪うのが得意だ。けど、お前には——与えたい」
夜の街角、私の背中は壁に押し付けられる。
吐息が触れ合う距離で、陸の手が私の腰を引き寄せた。
「……他の誰にも触れさせない」
唇が重なる寸前、遠くでカメラのシャッター音が微かに響いた。
瞬間、陸の腕の力が強まる。
視線だけで周囲を探るその仕草に、私は息を呑む。
「……誰か、見てる」
「分かってる」
低く、落ち着いた声。
だがその声には、獲物を逃がさない獣の気配が混ざっていた。
「夜明けまで時間はある。——密約を交わすのに十分だ」
陸の指が私の唇を軽くなぞる。
「有栖、覚えておけ。俺たちの誓いは、誰にも壊せない」
その言葉に、私の中の不安と高揚が、危ういほど混ざり合っていく——。