シャッター音が響いた直後の静寂。
ビル風が細い路地を抜け、有栖の髪を揺らす。
その様子を、百メートル離れた屋上から双眼鏡越しに見下ろす人物がいた。
「やっと……動いたな」
低く呟く声は、夜の闇に溶ける。
指先で弄ぶのは、撮ったばかりの写真データが収まったメモリーカード。
送信ボタンを押す前に、スマホ画面を指で滑らせる。そこに映る名前は——“依頼者”。
***
「……何者?」
有栖が立ち止まる。
陸は彼女の肩を軽く押して、人気のない裏道から表通りへと誘導した。
「今は聞くな。目を合わせて歩け」
有栖は頷きながらも、背筋を走る悪寒を振り払えない。
「ねえ、さっき——」
「分かってる。カメラだ」
陸は短く答え、タクシーを止めるでもなく、そのまま歩き続けた。
その横顔は冷たい石のようで、怒りの温度を奥に隠している。
「……私、狙われてるの?」
「狙われてるのは俺だ。だが、お前は巻き込まれてる」
淡々とした口調が逆に怖い。
それでも、有栖の胸は恐怖と同じくらいの速さで高鳴っていた。
陸の歩幅に合わせながら、彼の横顔を盗み見る。
「だったら……私、どうすればいいの?」
陸は一瞬だけ足を止め、有栖の手首を掴んだ。
「——離れるか、もっと近くに来るか。選べ」
息が詰まる。
夜明け前の街は静かで、二人の呼吸だけが聞こえる。
「近くに行ったら?」
「守る。だが、俺のやり方で」
その目の奥に、甘い約束と危険な光が混ざっていた。
「……離れる気なんて、ない」
有栖の返事に、陸は薄く笑った。
「なら、今夜からお前は俺の中にいる」
***
その会話を、暗闇の中で聞いていた耳があった。
監視者は小さく笑い、スマホの送信ボタンを押す。
新しい局面の始まりを告げる通知音が、静かな夜に響いた——。