【序章】
僕は釣りに救われた。
会議室で吐き気をこらえ、家では無言の時間が流れ、転職も失敗した。
再婚したのに、また離婚の危機が迫っていた。
息をするだけで精一杯な日々。生きているのに、生きていない気がしていた。
そんな僕を助けてくれたのが、釣りだった。
ただの趣味じゃない。僕にとっては、命をつなぐ最後の糸だった。
でも、なぜ釣りがそんな力を持てたのか。
それは、僕のこれまでの人生を辿ればはっきりとわかる。
そして、それは決して偶然じゃない。
だから、まずは僕の生い立ちを読んでほしい。
あなたの人生と重なるところもあれば、まったく違うところもあるだろう。
けれど、どん底に落ちた僕が今こうして笑って生きていることだけは、きっとあなたの中にも何かを残すはずだ。
【幼少期編】
僕は2025年の11月に31歳になる。東京都生まれて、近隣のベッドタウンで育った。
小さい頃は体を動かすのが好きだった。僕は兄弟がいなかったので、近所に住んでいる年上の友達とよく遊んだ。友達のお兄ちゃんとは5歳くらい違くて、当時4歳か5歳くらいだったけど、友達のお兄ちゃんがこぐ自転車に、小さい自転車を漕いでついて行ったこともある。当時はなんで僕の自転車は追い付かないの!?と思っていたけど、体のサイズも違うし、自転車のサイズも違うから、今考えれば当たり前だ。
幼稚園の頃からサッカーを始めたい!とよく言っていたらしい。でも、近くの小学校のチームは兄弟がクラブにいる場合以外は小学校に入らないと、クラブには入れないルールだった。だから、幼稚園の時はお父さんとサッカーボールでパスして遊んだことはなんとなく覚えている。
【小学生編】
小学校に入ると、すぐサッカーチームに入った。
サッカーチームといっても、同じ小学校の子どもが99%くらいで、練習も土日だけの普通のクラブだった。でも、僕の学年はたまたま運が良くて、人数も15人くらいいたし、うまい子がたくさんいた。
あとになって知ったけど、高校サッカー千葉ベスト4のチームに、同級生が3人もレギュラーがいた。あと、柏レイソルのユースに行った友達もいた。
そんなこともあって僕たちのチームは強かった。市の大会では何個もメダルを取って、今も実家に飾ってある。僕はセンターバックというポジションでプレイをしていた。このポジションはディフェンスの最後の砦のポジションで、一つのミスが相手のゴールに直結するポジションだった。点を取られるか取られないかのギリギリのところで相手と駆け引きしたり、体をぶつけ合ったりして戦っていた。
今思えば、責任感があって、達成感のあることが好きだったのかもしれない。
僕は走るのと蹴るのが大好きだった。とくに短距離を走るのが好きだった。今思い返せば、当時からせっかちだったのかもしれない。目の前にゴールが決まっていて、それを早く終わらせたい。ご飯を出されたら早く終わらせたい。宿題が出たらさっさと終わらせたい。着替え終わったら早く学校に行きたい。僕は今も昔もせっかちだ。
小学校高学年になると、中学受験の勉強が始まった。きっかけは、お父さんから高校受験しないで6年間サッカーができるぞ、と言われたことだった。当時はまだ子供だったからお父さんの言うことは正しいと思っていたし、子供なりに楽しそうだったから俺もそう思う!と答えていたと思う。そこから受験勉強が始まった。
中学受験は2月から学年が変わる。でも、当時の僕たち家族はそれを知らなくて、僕は4年生になる前の春休みから塾に入った。塾のクラスでは、みんな仲良く話していてなんでこいつらは仲がいいんだ?と思っていた。だから、初めは塾ではとても静かにしていた。
塾は4クラスあって、僕は一番下のクラスだった。それに対して恥ずかしいとかはなくて、とにかく2週間に1回あるテストのために一生懸命頑張っていた。そうするうちに、クラスの中での成績も上がり、クラスも上がって行った。6年生の時には上から二つ目のクラスになっていた。
中学受験は本当に大変だった。6年生にもなると、塾のテストは毎週のようにあったし、受験の過去問をやってもわからないことだらけ。こんなんで本当に受かるのか?と思っていた。
当時、母校の過去問を初めてやった時、国語は31点、算数19点だった。しかも150点満点中。でも、塾の先生たちも初めはそんなもんだと言っていて、自分なりに何度も何度も過去問を解いていた。でも、11月くらいには本当にしんどくて、お母さんにもこっそりやめたいなと言ったことがあった気がする。それでも続けていた。
僕がいた塾はすごく厳しい塾で、同じ小学校の友達が僕以外に4人いたけど、みんな途中で辞めた。辞めて他の塾に行った。僕の中では辞めて他に行くと言う選択肢はなかったので、他の人と比べることもなくとにかく頑張った。
その結果、学校で2番目にいい中学に合格した。1番は同じ塾の他の校舎に行く、サッカーの友達だった。
でも、受験自体もスムーズに行ったわけじゃなかった。初めに受けた滑り止めの学校は落ちた。中学受験は同じ学校を何度も受けられることがほとんどだったけど、滑り止めと思っていた学校に落ちた時は本当に落ち込んだ。すごく取り乱して泣いてしまって、わざわざ塾の先生が電話してくれたのも覚えている。3年間苦しい思いしてこれかよと思った記憶がある。
でも、僕は「二次の男」だった。中学受験は同じ学校でも数回入試があるけど、僕は3つ合格した学校のうち2つは二次で受かった。母校もそうだった。
なんで一次で受からなかったかはわからないけど、そういう意味では粘り強さがあったのかもしれない。第一志望じゃないけど、地域の人が誰でも知っている学校に受かった。
【中学編】
中学に入った時には、何か特別にやりたいこととかない奴になっていた。
あんなに好きだったサッカーの体験入部に行ったけれど、なんか練習がつまらなかったから、親には野球をやりたいと言っていた。
当時は言語化できなかったけど、多分なんとなくやらされてる感があったのが嫌だったんだと思う。サッカーのための走る練習とか、ボールを使わない練習がすごく嫌だったんだと思う。
親には、野球やったらずっとベンチだよと言われていたけど、僕はそれでも良かった。元々アニメの影響で野球がすごく好きな時期だったし。でも、野球部は仮入部期間みたいなのが短くて、それに間に合わなかった。
あと、親にある日サッカー用具店に連れて行かれ、これ買ってあげるからやりなよ、と諭されるように言われた。なんだかそれは断れなくて僕はサッカーを始めた。
でも、やらされていることなんて、誰でも長くは続かないから、僕は何度も何度も練習をサボった。まぁ、新しい生活だったし、そんなに毎日サッカーやったことなかったということもあると思う。
そんな僕だったけど、小学校の頃の貯金もあり試合には出れていた。1年生の秋に新人戦があって、市内で準優勝した僕たちは県南大会に出場した。1試合目は同点でPK戦になり、僕は蹴ることが好きでうまかった方なので、蹴らせてもらった。しかし、蹴ったボールは惜しく枠を外した。
結局僕たちのチームは勝ったけど、僕はそんなことより自分が外したことが悔しくて落ち込んでいた。その時、顧問の先生から「お前は落ち込むほど練習したのか?」と言われた。確かに落ち込むほど練習していなかったし、そもそも練習にも参加していなかったから、今思えば当たり前だ。
僕も3年生になる頃には真面目に練習に参加するようになっていた。1年生の頃の顧問の先生は学校を辞めてしまって、2年生の頃は顧問の先生が練習を見にきていなかったので、自分たちでメニューを考えて練習していた。
しかし、3年生になると外部からコーチが来てくれるようになった。そのコーチからは、左利きというところだけで気に入られて、僕はそれがなんだか嬉しくてその気になっていた。
そこからはサッカーにもかなり真面目に取り組むようになった。なんだかんだ、任されたり認められたりするのが好きだったんだと思う。
でも、3年生の大会が終わって高校生の練習に混ざるようになってからは、なんだか膝が痛むようになった気がした。
そこから僕は部活には行くけど練習には参加はしない日々が続いた。それが本当に面白くなかったし、今思えば3年生の大会が終わって燃え尽きていたのかもしれない。
あとは、1、2年の頃は何も考えていなかったけど、3年生にもなると、大学受験を意識するようになっていた。というのも、中学受験は4年生から始めていたこともあり、その経験から考えると高校入ったら受験勉強始まるのでは?というのがなんとなーく頭にあったからだ。そんな僕は、怪我を理由に高校では部活に入らなかった。
怪我を理由に練習に出れずにいた頃に、クラスの女の子から突然メールが来たことがあった。この子はクラスのアイドル的な存在で、文化祭の打ち上げの時に突然メールアドレスを聞かれた。それも、その子が僕と連絡したいというよりは、その子のいたグループの子が僕に連絡先を聞いてきて、そのついでに聞かれたという感じ。だから接点はなかった。
内容は今でも覚えているけど、上履きがなくなったんだけど知らない?多分体育の時に他の人のと混ざっちゃって、的な内容だった。なんでこんなこと俺に行くんだ?と思ったけど、もらった質問を返さないという選択肢がなかった僕は体育の着替えの時にみんなに大きな声で聞いた。お前らいくら可愛い子だからって上履きは盗むなよ!って笑 でも、結局見つからなかった。
その子とはそれがきっかけでメールが続くようになった。僕は怪我でサッカーができないこと、彼女は彼氏と別れて落ち込んでいたこと。それをお互いに連絡しあって慰め合っていた。その頃から、この子を意識するようになっていた。
【高校編】
高校に上がってもその子とは連絡していた。覚えているのは、入学早々にあった研修旅行なるものに参加した際、昼食の時間君のこと見つけるから!みたいなことをお互いに言って、400人いる学年の中からあちこち探していた。当時は手を振る勇気なんかなくて、お互いガン見してた。今思えばおかしな光景だな笑
4月の終わりくらいに、その子を映画を見に行こう!と誘った。何に誘ったかは忘れたけど、すごく楽しみだったのを覚えている。
その映画を見た帰り歩いていたら、バッタリ同じ学年の、しかもサッカー部のマネージャーの女に会った。なんか気まずくて走るぞ!と言って、まぁ膝が痛くて走れなかったけれど慌てて僕たちはその場を去った。どこ行けばいいかわからなくて、気づいたら僕の最寄りの駅にいた。
僕は何故かその子を自転車の後ろに乗せて、地域で有名なゲームセンターまで30分くらい自転車を漕いだ。ゲームセンターについてからは、一緒にホッケーをして遊んだ。女の子とホッケーをしたのは初めてで、普通に負けた。その後その子に勝ったこと、1回もない。
そのあと、何度か公園で会っては話す、というのをやっていた。ある日、その日もいつも通り公園のベンチで座ってたわいもない話をしていた。そんなとき、僕は何故か自分の気持ちが我慢できなくなったからか、突然好き、と言ってしまった。自分でもよくわからなかった。そしたら、その子も好き、と言ってきた。僕は何が好きなんだろう?と思ったけど、何故かもう一度好きだと言った。そして僕たちの交際は始まった。
さっきも書いた通り、この頃から僕は受験勉強も意識するようになった。何より、サッカーを辞めて暇になったから勉強する時間ができたので、少なくとも宿題やテスト勉強は真面目にやるようになった。土曜や日曜は彼女とデートして、平日は宿題をやったり友達とふざけながら登下校したり、それなりに楽しく過ごしていた。3年生になるまではそんな感じ。
僕はうるさくて体のでかい奴だったから、目立っていた。それに目をつけた他のクラスのやつが、体育祭の応援団長をやらないか?と聞いてきた。
でも、僕は何度も断った。というのも、応援というのはプロ野球の応援のように、応援された側が力が出るようにするものだと思っていたんだけど、うちの母校の応援団はダンスしているだけで応援なんかしていないように見えた。僕はそれが滑稽に見てしまってダメだったので断った。
一方で、彼女はそういうイベントが大好きで女側の応援団長をやっていた。今風に言うと僕は冷笑系だったのもあり、そういうのを馬鹿にしていた。
僕の中の本気っていうのは、サッカーでギリギリのところでたたかったり、プロ野球の試合を一生懸命応援したりすることだったけど、彼女は(当時の僕からすると)なんのための応援団だかわからない集まりで騒ぎ、部活も頑張ると言いながらおふざけしながらやっているように見えた。僕はそういうのをすごく小馬鹿にしていた。
あるとき、僕のそういう姿勢に耐えられなかったのか、僕たちは別れることになった。
【受験編】
高校三年生の春に僕は彼女と別れた。でも時間は待ってくれない。部活をやってた奴らもどんどん引退して部活の準備を始める。なんとも言えない焦燥感の中、僕も本格的な受験勉強を始めようとした。
学校では朝学習というものがあり、授業前に1時間自習をする時間があった。放課後は9時まで学校が空いていたので勉強してから帰る生活。僕は確かに受験勉強をしていたのだけど、それは中学受験のときのような無我夢中さもなかったし、受験に対する作戦もなかった。
ただ、みんなとなんとなく勉強していればいわゆるMARCHクラスの学校には入れるだろうと考えていた。なんとなく先生がお勧めしてくれた問題集を解き、間違った問題はなんとなく解き直す。作戦を立てて勉強をしていたわけではないので、いつか俺はセンター試験の過去問も8割取れて国立大学に行くもんだと思っていた。
でも、受験ってそんな簡単じゃない。僕は数学や英語、化学は8割くらい取れるんだけど、他の教科は半分くらいしか取れない。何度も言うけど、作戦なんか立てていないから。周りの友達がなんとなくセンターの過去問で7割8割取れるようになって、僕もそれが取れる気になっていた。
できない自分を直視せず、受かってもいない大学を馬鹿にしていた。もしかすると、辛い現実から目を背けるために馬鹿にしていたのかもしれない。本当に謙虚さが足りなかった。
センター試験の時はやってきた。お父さんやお母さんも当たり前のようにいい点を取れると信じていた。
僕も謎の根拠に包まれていた。センター試験って全部マークだから埋めればなんかできた気になっちゃう。
二日間の日程が終わると、次の日の月曜日にみんなで学校に集まって自己採点をする。採点をしていて全然点数が取れていなくてがっかりした。でもこれって僕が目を背けていただけで、過去問通りの実力だった。何か8割くらい取れる気になっていたけど、紛れもない実力だった。その時僕は国立大学を諦めた。
私立は滑り止めと、ここに行ければなあという学校を二校受けた。そのうち一校はいくつかの学部を併願受験できたので、3〜5学部くらいは受験することにした。
センター試験が終わるとそこから2週間くらいあるから、とにかく過去問をやった。手応えという手応えはなかったけど、なんとなく受かるんだろうなぁくらいに思っていた。
結果は滑り止めのみ合格。僕の家は浪人が禁止。何故なら近所に住んでいたお兄さんが浪人したときに遊びすぎて、大学どころか専門学校に通ったのを父が見ていたから。
本当はもっといいところに行きたかったけど、行けないから僕は諦めた。そして、僕はどこからか仮面浪人という言葉を知り、大学に通いながら次の年にもう一度受験をすることを選択した。
入学した大学は僕の家から2時間くらいかかった。遠いし、入ってみたら今まで関わってこなかったような、言い方は悪いけど頭が悪そうだし頭が悪いやつが少なくなかった。受験組はみんな滑り止めで来たやつがおおくて、推薦組はとりあえず東京来ちゃいました、みたいなやつが多かった。推薦を否定はしないけど、こんな学校に推薦でくるってなんなんだ?という感じのやつ。
僕の感覚は早慶やMARCHに推薦で行くものだから、本当に違う世界に来た気持ちだった。定期テストは真面目に勉強してたから、推薦で余っていたMARCHクラスの学校に行けばよかったと、本当に後悔した。
受験勉強をするために仮面浪人を決めたが、僕はほとんど勉強していなかった。受験勉強どころか大学の勉強もたいしてしていなかったと思う。
なんとなく遠くまで通い、授業中はジョジョを読み、終わったら帰る生活。当時はTwitterにどハマりしていて、野球の界隈の人となんとなくじゃれあって一日中Twitter。100ツイートは当たり前。今思うと、本当にアホだ。
あるとき、Twitterのオフ会で草野球をすることになった。僕は野球をずっとしたかったのもあり、参加した。
あんまり上手くないけど、好きなことだったから本当に楽しかった。そして練習終わりにご飯に行った。
界隈の中に、野球は参加できないけど、ご飯には参加できる他いう人がいた。その人は彼氏が練習に参加していて、みんなも公認の仲。その人は着くや否やビールを数杯飲んでいた。
当時僕は飲んでいなかったんだけど、その人はすぐさま酔っ払っていた。未成年だったから酔っ払いという概念がわからず、年上とはいえ数歳しか違わない人がこんなに酔うもんなのかとびっくりした記憶がある。
帰る頃にはその人は泥酔していて、1人で帰れる状況にはなかったので、同じ方面の人で面倒を見た。
その人は僕と隣駅だった。本当に酔っ払っていたし、ほかに人がいないので僕が家まで送った。この時にはもう僕の最寄駅から出ているバスは無くなっており、帰れなくなってしまった。仕方ないので明日まで泊めてくれないかとお願いして、同居はしていなかった彼氏さんにも一言断った。
彼は仕方ないよねと了解してくれた。
シャワーを借りてシャワーを浴び、部屋を真っ暗にして2人でお話をしていた。話をしながら、受験で失敗したことや彼女と別れたことを話した。話しているうちに、彼女は「なに、甘えたいの?」的なことを言ってきた。
僕はその言葉に乗っかって甘えてしまった。
少し手を伸ばして手を繋ぎ、そこからは止まらなかった。僕は初めて彼女じゃない人と関係を持ってしまった。しかも、彼氏がいて彼氏が知り合いの人と。
この人とはこれっきりだったが、彼氏について行って北海道に行ったこと、そこで子供ができたが中絶したこと、北海道で彼氏と別れてすすきので水商売をしていたことを聞いた。
大学の勉強は単位を取得単位を少し減らしめで履修を組んだものの、大学の成績は良くも悪くもなく、かと言って受験勉強もしていなかった。
要は中途半端野郎だった。前期はクラスの半分以上が再履修になるような激ムズの教科を落単し、後期はその授業を再履修しつつ、他の教科も履修した。
再履修した科目の先生がすごく厳しい人で落単することで有名だったが、何故か僕にはこれが劇的にマッチした。この教科は物理だったが、大学の物理には数学が必要なので微分積分や行列をみっちり鍛えられた。再再履修はありえないと思っていたので、毎週この教科の課題をやるうちに数学の地力がめちゃくちゃついた。
僕は受験勉強なんかほとんどしていなかったけど、数学だけはやたらできるようになった。
そんなうちに12月末になり、冬休み。
僕はここにかけていた。というより、僕にはここしかなかった。飯の時間以外は全部勉強した。マジで1日16時間くらい勉強してたと思う。受験の知識なんか全部なくなっていたから、これって決めた参考書をその間に何回も解き直した。現役の頃からこれをやっておけという話だったかもしれないが、それはやっぱり二次の男だったのかもしれない。
そんな状態で受験をしたが、数学は大学の授業で地力がついていたこともあり、どこの学校も手応えあり。
結局僕は三校受けて二校合格し、現役の頃から行きたかった大学に合格した。
そのあと、その年の東大の数学の問題が発表されていたから解いてみたら2完(2問完答して正解)した。本当に数学力がついていたのだと思う。
【大学編】
元々第一志望の大学に合格したこともあり、とても嬉しかった。
ただ、仮面浪人時代は大してバイトもしていなかったし、友達と遊ぶ金もなかった。だから、僕は仕方なく派遣に登録してお金を稼いでいた。
理由はその日にお金をもらえるから。当たり前かもしれないけど、大学に入ると親はご飯は作ってくれても一円もくれなくなり、せっかくの春休みなのにお金が一円もなくて困っていた。
だから僕は派遣を始めた。しかし、派遣というのは本当に厳しくて、全然人間扱いしてもらえなかった。でも今思えば、こんな扱いされるの嫌だと思い、正社員になろうと決めたのもこの頃の話。
2回目の大学生活は本当によく勉強したし、遊びもたくさんした。
勉強をするようになったのは、1回目の大学生活で真面目に勉強する癖がついたのと、単位を取る大変さがわかったからだと思う。基本的にノートは全部きちんととり、小テストがあれば対策をして、テスト前は少なくとも2週間前くらいからテスト勉強の対策をしていた。
理系だったので実験レポートがあったが、これも実験当日に半分以上は終わらせていた。今思えばとても優秀な学生だ。
それでも合間を縫ってアルバイトをして月に7、8万くらい稼いでいた。何に使っていたかは忘れたがほぼ貯金はできず、とにかく忙しい毎日を過ごしていた。手をつけず貯めたのは10万くらいかな。
遊びもよくした。大学に入ってから野球を始めたが、サークルか?というくらいよく練習した。
特に一年生の頃は週に7回練習していたと思う。高校時代は運動できていなかったこと、受験のストレス、元々野球をやりたかったことも重なり毎日毎日練習していた。その時にできた友達は学科は違う学科だったけど、10年以上経った今も毎年会う仲だ。そいつと毎年会うような仲なのは家庭環境や性格が近いからだと思う。そいつも自分の金は自分で稼いでいたが、うちの母校はボンボンが多いのでそんなやつは少なかった。少なくとも僕はそういう奴に負けたくないと思い対抗心を燃やして勉強していた。
負の感情は人間のガソリンになると思う。
そいつは口数が少ない奴だったが、思いは一緒だったと思う。そいつは今超一流企業で働いている。
大学受験の時もそうだったが、僕はあまり未来に興味がなかったので、大学院に行く気もなかったし、就活も何をしたいとかなかった。強いていうなら父と同じ自動車関連の仕事がしたいと考えていた。調べてみると実家から5キロくらいのところに自動車関係の会社があり、特にそれまで興味はなかったけど、面接を受けたら合格した。
まぁ、そこに落ちたら大学院に行こうと思っていたので、それくらいの余裕が逆に良かったのかもしれない。
【社会人編】
僕の会社は海外展開に強い会社だった。面談の時から海外志向を聞かれたこと、大学の卒業にTOEICの点数が必要だったこともあり、僕は英語の勉強をよくしていた。大学卒業のために慌てて勉強したTOEICだが、なんと半年近くで400点弱から680点まで点数が上がった。
そこから英語ができる自分が好きになり、勉強を続けて、入社後初めてのTOEICでは700点を超えた。これは自分の中でかなり自信になった。
しかし、僕は実際に話したり、生の英語の文章を読んだ経験がなかった。当時の僕は本当に真面目だったなというエピソードがある。僕は自分の部署で発行される報告書が格納されている場所を漁り、海外の支店で発行されている報告書をとにかく読み漁った。
今は、会社で暇な時は雑談したりぼけっとしていることが多いが、当時はやる気に満ち溢れており、とにかく英語の報告書を読み漁った。これが功を奏して、ビジネスの英語はこういう文章なんだという基盤ができた。
そこから僕はより英語に興味が湧いて勉強をするようになり、TOEICも740点近くを記録した。仕事も真面目にしていた僕は、社会人2年目の終わりにアメリカ駐在の内示を受けた。しかし僕は断った。
【結婚生活編】
僕が内示を断ったのは、当時いた彼女の影響もある。
彼女とは大学時代に出会い、そこから交際を始めていた。真面目に過ごしていた僕よりも勉強ができるタイプだったが、なんせコミュニケーションをとって難しいことを推し進めるのが苦手なタイプだった。
答えのあるものをやるのはできるけど、フレキシブルな対応が苦手なタイプ。
そんな彼女は大学院進学が決まっていたが、僕は彼女に公務員になることを勧めていた。何故なら、彼女の得意な勉強を活かして試験を受ければ合格が近づく上、民間と違いルーティンワークも多いので彼女の性格にあっていると思ったから。大学院一年目でも受験して、受かったら公務員になって落ちたらまた来年受けたら?と勧めていた。
彼女は大学院生活をしながら、大学の公務員パック的なものを購入して、半年ほど勉強していた。勉強は手伝えないけど僕も面接の練習などには付き合った。結果、彼女は合格したのだ。僕より一年遅れで彼女は社会人になった。
彼女は僕と一緒にいることを考えて僕の地元で公務員になることを決めてくれた。それもあったので僕が社会人1年目の終わり、彼女の進路は決まっていた大学院時代にお互いの両親への挨拶も済ませた。
私の両親に彼女を紹介すると、両親も喜んでくれて、特に父親は婚約指輪を買うんだと急かすほどだった。父親の福利厚生で安く買えるから、というのに乗っかって慌てて僕は指輪を買い、社会人2年目のゴールデンウィークに僕はプロポーズをした。彼女は泣いて喜んでいた。
それから秋口に同棲を始め、さあこれからどうしようという頃に僕は転職活動もしていた。元々近所だからと決めた会社ではあったが、周りのみんなが大企業で勤めていることもあり、僕もそういうところに挑戦したいという気持ちが出てきていた。
そんな頃、誰もが知っている大企業から第二新卒としての採用が決まった。僕は大喜びで退職を決意した頃にアメリカ駐在の内示。
海外駐在も大企業で働くこともどちらも僕の夢だった。
しかし、海外駐在となると結婚をしようとしている彼女とは住めないし(当時は転勤についていく制度もなかった)、でも海外には行きたいし、ということで本当に心が揺れた。
当時の彼女とも何度も揉めに揉めて僕は会社を辞めて新しい会社に行くことにした。
その頃、コロナウイルスが流行り始めて、この辺りから僕の人生はおかしくなり始めた。
会社を変えるということで、有給消化のタイミングだったので彼女のご実家へお邪魔してこれからの方針を報告しに行った。職場は遠くはなるが住んでる家は変えずに通勤するという話をした。そうすると、彼女の父からこう言われた。
お前がコロナになったら許さないぞ
僕は本当に胸が苦しくなった。決めたのは自分だが、何故知らない人にここまで言われないといけないのか?と。
コロナ禍で新しい会社で働くために長距離通勤するのはとてもリスキーなので、一旦は私が新しい会社の寮に入ることにした。
これが全てを狂わせ始めた。
お互いに一人暮らしをし始めた私たちは、1人が楽になってしまった。
でも、僕も生半可なプロポーズをしたわけではないので、2人とも同じくらいの通勤時間で通えるところを探し始めた。
電車は怖かったので車でいい感じのところを見つけて、街並みを車の中から確認していいところを探す、ということをしていた。しかし、彼女はというと私が提案してもいいとも悪いとも言わない。
寮にいれるのは1年だけだったのでタイムリミットが迫る中、何も決められず時間だけが過ぎた。
そんな矢先、僕たちの関係はどんどん悪くなっていき、ついに彼女は別れを切り出した。当時の僕はプロポーズしたことを仲のいい友達にも言ってたし、両親にも伝えていたので、恥ずかしい気持ちや期待を裏切りたくない気持ちでなんとか別れないようにしたいと考えていた。
そんな中で、ぼくが全部頑張るから、君の通いやすいところで探して一緒に住もうと話をして、結局彼女の通勤時間が40分程度、僕は2時間以上のところに決まった。
しかし、私の通勤場所まで乗り換え少なく行くには、それなりに大きい駅周辺に住む必要があり、結局決まったのは1LDKで狭いのに10万弱する家。お互いのプライベートゾーンがないので、お互いがイライラしている時はよく伝わった。僕は2時間もかけて通っているのに、帰ってきたらイライラしていてなんなんだ、と思っていた。でも、僕が耐えればいいんだ、僕が悪いんだと言い聞かせて、頑張っていた。
そんな生活が半年くらい続いた頃に僕たちは結婚を決めた。僕の中ではなんとなく親の結婚年齢までに結婚しないと!というのがあり、覚悟を決めて結婚した。結婚旅行は温泉付きの宿へ行き、個室はご飯を持ってきてくれるタイプ。とても幸せな時間だった。
通勤時間の問題も解決していないし、子どもも欲しいし、と課題は山積みだったけど、2人で話し合えばいつかは2人ともハッピーになれると信じていた。