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第2話 僕がうつ病に!?

職場や家庭での苦しみ、何度も挫折した経験、そして結婚したものの続く不安――。


でも、それはまだ始まりに過ぎない。

次に話す「兆候」は、僕の中で何かが大きく変わり始めるきっかけの出来事。

ここから物語はさらに深く動き出す。


【兆候】

2時間かけて電車通勤。この状況を打破したくて住む場所を考えたり、職場の変更願いを検討したり、転職を考えたり。僕は仕事を本気でするというより、どうやって結婚生活を軌道修正するのか?で頭がいっぱいだった。

いろいろなプランを提案したり、やりたいことを提案したりしていたけど、奥さんは唸るばかりでアイデアもくれなかったし、その間も僕は通勤で苦しんでいた。

当時はコロナ禍ということもあり、僕らも外に出てリフレッシュができなかった。外に出るとしても車の中から出ないように景色を見て、ご飯をさっと食べる程度。これではお互いストレスが発散できなかった。しかも当時の僕には趣味という趣味もなく、大学時代の友達とオンラインゲームをする程度。楽しかったけれど、終わった後残るのは虚無感。大学時代のように外で元気に体を動かしたり、みんなで飲み会したり、そういうのがないと閉鎖的で疲れてしまう。

その頃には新しい会社での仕事も慣れてきており、数年にわたって解決しなかった問題を解決できるか!?というところまで推進できたり、うまく行き始めていた。ただ、今は僕のサラリーマンとしての強みをよくわかっているけど、当時は自分に自信もなく、何ができるのかもわからないような状態だった。家でも満たされない。仕事でも満たされない。

あるとき、僕が解決しかけていた問題に対して、お客さんからクレームが入ったと連絡が来た。しかし、解決の目処は立っているだけで、暫定的な対策等もない。つまり、お客さんには待ってもらうしかなかったのだ。僕からしたら、何もできない状態。この状態を何度も説明したけれども、対策はないのか?何かできないのか?と強く詰められた。しかしないものはないし、僕は対策を考える部門でもなかったので、対策を考える部門に聞くも返事はなく。返事があってもどうしようもないという返事が来るだけ。僕は板挟みになっていた。

そのやりとりが何度も続いたある日の冬、僕は椅子に座ったまま力が入らなくなり、立てなくなってしまった。しかも、目の焦点も合わなく、ぼーーーーーーーっと白い天井を見ていた。何も考えることもできない、体に力も入らない。ただそこにいるだけ。それが数時間続いた。

思い返せば、僕は2時間の通勤の後家に帰り、何もないのに涙が出たり、僕が死んだら全てがハッピーになるのでは?と考えていた。それくらい、答えのない毎日を過ごしていた。


【発症】

それでも僕は自分の仕事をし続けた。その会社に入社して3年目で、コロナも落ち着き始めて移動制限も緩和された頃。他部門との密なコミュニケーションを目的に、他の事業所へ出向くこともあったし、難しい問題を自分で検証して解決したこともあった。要は波に乗ってきていた。自分でもなんとなく感覚が掴め始めていた。

しかし、当時は新しい製品が雪崩のように立ち上がっていた時期で、会社全体が忙しくピリピリしていた。僕は仲のいい先輩がテレワークメインだったこともあるし、通勤時間が長いこともあるし、テレワークと通勤を半分半分くらいでやっていた。それでも仕事はうまく回っていた。

その頃通勤すると、出社している人たちがテレワークの人たちに不満を持つという構図ができていた。僕が会社へ行くとお前はテレワークばかりでいいよなと言われ、お前は何もしてないとも言われる始末。

出張の機会がなかったので、先輩と一緒に向かうと言えば次長から1人で行けないなら行かせるなと言われる始末。

僕はただ、独り立ちして仕事ができるようにと、みんなからいろいろなことを習いながら解決をしたかっただけなのに。

そんな辛い思いをして家に帰れば、妻は不機嫌でイライラしている。僕は本当に休まることがなかった。

そんな状況だったから、僕は死ぬ、死にたいと言うことが増えた。僕は自分自身が心の病気なのでは?と考え始めた。妻に相談すると、そういうのは行かない方がいい、行ったらもう終わりだと言われた。

今思うと、それも正解だったのかもしれない。ただ、僕はそんな毎日が苦しくて苦しくて仕方がなかった。早く変わらないか?なんとかして今の状況が打破されないか?そんなことばかり考えていた。妻の反対を押し切って僕は病院を予約した。


【診断とその後】

重度のうつ病と診断された。

病院へつくと簡単な問診票を書いた。それを受付に渡して、待つこと1時間。順番が回ってきたので診察室へ入った。

先生から自己紹介を受けて、問診票の中身を確認してもらった。先生が言っていた言葉でよく覚えているのは、死にたいと思って行動に移しちゃうのは本当に危ないし、入院させるレベルだと言われた。

ただ、僕は入院がしたいわけではなかったので、向き合いながら働かないといけないと伝えた。家族もいるから。そうすると先生は一番弱い薬をくれた。

僕は診断されて、どこかホッとした気持ちになった。これは僕が悪いわけじゃなくて、病気だから仕方ないのだと。

薬をもらったので、忘れずに飲んでいたのだが、ある日薬の入れ物を会社に忘れてしまった。遠いのでつぎの出社の時に取りに行こうと思ったのだが、これが間違いだった。

薬を飲まないでいると何故かわからないけれども不安に襲われ、精神的に不安定な気持ちになった。これを離脱症状というらしい。こういった精神疾患の薬を飲み忘れると離脱症状で謎の不安感に襲われるようだ。これが本当に辛くて、何をしていても不安な気持ちになり、本当にいても立ってもいられなくなった。僕は完全に薬漬けになった。それでも僕は仕事を続けた。

でも、やっぱり会社が遠いのは辛くて、仕事をしながら転職活動をした。僕が次に見つけたのは外資企業だった。

外資で働くまでは自分のやることをやり切ろうと思い、どうしても会社でやらなければいけないことがあり、電車に乗って通勤をするが、最寄駅に着くと足が進まない。秒速5センチメートルしか進まない。体が気乗りしていなかったのだろう。僕は震えながら会社へ向かい、なんとか椅子に座りながら、周りのサポートも受けながら作業を行なった。その仕事は無事終わったが、心身ともにボロボロだったので午後は家に帰った。これがこの会社での僕の最後の仕事であった。自分の名誉のために書くが、僕はこの年に昇格試験を受けており、会社ではある程度評価されていた。3年目で昇格試験を受けるのは異例の速さだった。

外資に入るまでに有休消化へ入り、その間は散歩をしたりジムに通ったりして体を整えようとしていた。しかしながら、僕の心は沈むばかりで次は次はとは向かわなかった。

そして外資の入社日。外資は即戦力を求められるので、誰も何も教えてくれない。資料は全部英語。これはその時は僕には本当に辛かった。何をすればいいかわからない。でも何かをしないとおかしくなってしまう。僕は初日にこの会社を辞めると決意した。

会社から家へ帰ると、泣いてしまった。新しい環境が不安で仕方なかったのだと思う。あと、こんな僕のためにお弁当を作ってくれた奥さんにも申し訳なくなってしまった。

生活のために興味のない仕事でも頑張ろうと選んだが、僕には本当に苦しかった。それでも、妻も僕が通いやすいところへの転職を決めてくれたので、4月からは新しい住居で短い通勤時間で心機一転頑張るぞ!と思っていた。


【終】

こんな会社辞めてやると思いながらも、妻が新しい職場を見つけてくれたので、そこから全部新しくやり直そうと思っていた。

子供も落ち着いたら作って、子供っていう頑張る理由があれば、僕は強くなると考えていた。


それでも、やっぱり精神的には不安定だった。

ある日、ひょんなことから夫婦喧嘩になって、僕が耐えられなくなってもう死んでやる、となってしまった。本当に大きな喧嘩で、妻も泣いてしまい、もう耐えられないと言って血のつながった家族へ連絡していた。

ただ、喧嘩はしても仲直りをするのがいつものことだったので、お互い頭を冷やしながら謝りあって、これから2人でどうするか?相談していた。

そして落ち着いた頃に、妻の弟が家に来た。彼は特に何かを説明するわけでももなく、〇〇(妻の名前)行くぞ!と言い、妻を連れて行ってしまった。僕は焦燥感に駆られ、待ってと言ったけれど、妻は呼ばれたから行くねと言い残してついていってしまった。これが夫婦の最後の会話だった。

僕はそこから狂ったように泣いていた。両親へ連絡してもう生きていけない、死んでしまうと話した。そこから慌てて両親が来てくれた時、僕は洗濯物を畳んでいた。何故ならまた妻が帰ってくると思っていたから。

その後、弟に電話したり弟の家へ行ったり、妻へ電話したりしたが一向に連絡は返ってこなかった。私は出張があったので出先へ向かい、帰ってきたらきっといるだろうと思ったが、それでも妻はいなかった。

両親から義両親へ連絡してもらったが、着信拒否をされていた。ケータイどうにもかけているうちに、義両親が電話に出た。出たのは義父だった。

かけたのは母だったが、義父は酔っていたのか怒り狂って母を怒鳴り散らしていた。母はそれでも義父と冷静に話を続けた。妻は母の声を聞くと体が震える、お前の子供にはもううちの子を合わせられない、両親同士で話し合うと言われたようだ。母は当人同士の問題だから、せめて当人同士で話し合わせてくれと伝えてくれた。

電話が終わった後、母は泣いてしまった。なんで私がこんな怒鳴られて惨めな思いをしないといけないのだと、一生懸命生きているだけなのにと言っていた。僕はその時、もう抜け殻だった。何かを考える力なんて無く、どうすればいいかもわからず、ただただ泣いていた。

いても立ってもいられず、家族3人で義実家まで行って話そう、と決めた。両親もついてきてくれないと頭がおかしくなってしまうと思ったのできてもらった。片道5時間近く運転をして到着した。

インターホンを鳴らすと、弟が出てきて義父を呼んできた。義父は出るや否やお前に話すことはない、離婚するだけだと言った。僕はせめて妻と話し合いをさせてください、と伝えたが、お前が公務員になれというからならせたのになんだこの有様はと言われた。お前の父親が体調悪いと聞いて、お前の地元に働かせたのになんだこれはと言われた。それでも、話させてくれないかと伝えたが、これ以上は警察を呼ぶ、明日以内に一緒に住んでいた家のものを片付けろと言われた。僕は放心状態で戦う力もなく、ただ明日は無理だと伝えたら、そんなのダメだと言われた。しかし、弟が私の意見に賛同してくれた。僕は土下座までしたが、結局合わせてもらえなかった。

その次の週の土日、僕は家のものを片付けた。早く出ていけと脅されていたから、慌てて荷物をまとめた。大切にしていたカバンや野球のグローブはしまい忘れてしまったから、今は手元にない。


その後、離婚届が家に着いた。

僕は、妻のために興味もない会社は転職をした。しかし妻がいなくなってしまい、職場に居場所もなく、家に帰れば放心状態。僕には何も残されていなかった。全てを失い、何度も何度も自分で自分の首を絞めた。結局、勇気がないから死ぬこともできなかった。それを相談するたびに僕の薬は増えていった。

僕は戦う力もないし、新しいことを始める元気もない。外資で明日首を切られるかもしれないけど、3ヶ月で会社を辞めても次の仕事なんか見つからない。

僕は母の故郷で面倒を見てもらおうかと考えていた。母は親戚も多かったので、みんなが面倒を見てくれると言っていた。

僕には何も残っていなかった。本当にぬけがらにな抜け殻になってしまった。

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