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第8話「厭な世界情勢①」

 ◆


 王都の中心に鎮座する王城──その最も奥深くにある執務室は、今日も今日とて紙束とインクの匂い、そして国王リチャードの慢性的な胃痛から生じる微かな酸っぱい香りに満たされていた。


 統治とは畢竟、無限に湧き出る問題という名のヒュドラと対峙し続ける作業である。そしてそのヒュドラの首の一つは、常に彼の親友の顔をしていた。


 リチャードは精巧な彫刻が施された執務机に肘をつき、こめかみを深く揉みほぐしている。


 机上に広げられているのは、『ヘルゲート公爵領への移住者数推移に関する月次報告』である。その内容はリチャードの胃酸の分泌を促進するのに十分すぎた。


「……増えすぎだろう」


 報告書によれば、ここ最近ヘルゲート公爵領への「ケガレ」の民の流入が劇的に増加しているという。あの瘴気に満ちた、常人ならば数日で精神を病むような土地が、社会から弾き出された者たちにとっての理想郷アルカディアとなりつつあるのだ。


 これは実に皮肉な事態である。


 地獄と呼ばれる場所が誰かにとっては天国に見える──それはすなわち、外の世界が彼らにとって地獄以下になっているという証左に他ならない。


 人道的な観点から見れば喜ばしいことかもしれないが、統治者の視点からすればそれは潜在的なリスクの増大を意味する。あの狭く、そして確実に狂っている集団がこれ以上拡大することが王国にどのような影響を及ぼすのか。


(レドラムのことだ、『素晴らしい! 我が領地の多様性がさらに豊かになる!』などと叫びながら、またどこかを爆破しているに違いない)


 何が多様性だ馬鹿がと思いつつも、リチャードは悩ましげな表情を浮かべ、手元のベルを鳴らした。


 ややあって。


 音もなく、まるで影が滑り込むように現れたのは王国宰相ガンジャであった。


 痩身で常に胃薬を携帯しているこの男は王国の頭脳であり、そしてヘルゲート公爵家の奇行に対する数少ない、そして最も効果的な緩衝材でもあった。レドラムが王国の劇薬であるならば、ガンジャは王国の解毒剤である。


「ガンジャ、この報告を見たか」


「拝見いたしました」


 ガンジャは一礼し、感情の読めない声で答えた。


「憂慮すべき事態ではありますが、原因は明白でございます。世界各国の治安が、少しずつ、しかし確実に悪化しております」


「治安の悪化……」


 リチャードは眉をひそめた。


「ドゥームズガル帝国は先日の敗戦で大人しくなっているはずだが。何が原因なのだ?」


「戦争のような華々しいものではございません。もっと根源的で、それゆえに厄介な問題です。一言で言えば世界規模での凶作ですな」


 ガンジャの言葉は、鉛のように重かった。飢餓はいつの時代も国家を転覆させる最も確実な方法である。腹を空かせた民衆ほど、恐ろしく、そして理屈の通じないものはない。


「凶作か」


 リチャードは窓の外に広がる、豊かで平和な王都の風景を眺めながら言った。


「だが我が国には──」


「は。我が国の農作物の収穫量に翳りは見られませぬ。むしろ、王立魔術科学院の報告によれば、今年も過去最高の収穫量が見込まれております」


 ガンジャは淡々と事実を述べた。


 これは決して偶然の産物ではない。血と汗と、そして少々の狂気によってもたらされた必然の結果だった。


 王国がこの世界的な食糧危機を免れているのは、他ならぬヘルゲート公爵領のおかげである。


 あの呪われた土地から採掘・採取される超一級の魔術触媒は、他国に売りさばかれることで莫大な富を生み出していた。そしてその利益は、王国の農業研究に惜しみなく注ぎ込まれていたのだ。


 王国は気候の影響を受けづらく、また量も多く採れる作物の開発に成功している。その最たる例が、主要穀物である「ドラゴンの涙」と呼ばれる小麦だ。


 ──『魔導的品種改良(アルカナ・ブリーディング)』。


 それは古代種の遺伝情報に、強力な魔獣の因子を魔術的に組み込むという神の領域に片足を突っ込んだ技術である。


 ヘルゲート領で採れる特殊な黒曜石を触媒として用いることで、通常では不可能な種の壁を超えた融合を実現する。この「ドラゴンの涙」は、極端な乾燥や寒冷地でも育ち、通常の小麦の三倍の速度で成長する。その光合成効率は驚異的であり、細胞内には微小な魔力変換器官が存在し、大気中の魔力を直接栄養に変換することすら可能だ。


 もちろん代償がないわけではない。


 収穫された小麦が時折、夜中に微かな呻き声を発するという奇妙な副作用が報告されているし、製粉する際には低級な悪魔祓いの儀式が必要となる。まあ仕方あるまい、元はといえばヘルゲート公爵夫人ウェネフィカの発案による技術だ。それを元に王立魔術科学院が実用化させた。


 だが飢えることに比べれば、穀物が少々自己主張することなど些細な問題である。


 ◆


「我が国が豊かであるがゆえに、他国の民衆は不満を募らせる。そしてその捌け口として、異質な存在であるケガレたちを迫害する。そして彼らがヘルゲート領に逃げ込む。悪循環だな」


「左様でございます。ですが、陛下」


 ガンジャは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。


「それよりもさらに深刻で、そして我々の繁栄の根幹を揺るがしかねない問題がございます」


「問題とは?」


「“教会”が各地で急速に勢力を伸ばしております」


 教会──その言葉を聞いた瞬間、リチャードの胃痛がワンランク上がったのを感じた。


 この大陸で“教会”といえば、大抵は「光神」と呼ばれる神を信仰するイドラ教の勢力を意味する。


 イドラ教の教義は極めて平易である。


「光あれ」


「汝、清く正しく美しくあれ」


「隣人を愛せ」


 実にシンプルで、守りながら暮らす事はさほど難しくない。派手な現世利益を謳っているわけではないが、その分かりやすさと、耳障りの良いスローガンによって大陸全土で広く信仰されている。


 宗教とは複雑で不条理な現実に一つの単純明快な解釈を与える麻薬のようなものだ。


 人々は不安な時ほど、強い言葉と分かりやすい敵を求める。


「なぜ自分は苦しむのか」


「なぜ世界は不公平なのか」


 その答えをイドラ教は「光神の思し召し」あるいは「異端者のせい」という便利な言葉で片付けてしまう。


 それはある種の救済であり、同時に思考停止の始まりでもある。


「教会の勢力拡大自体は、想定の範囲内だ」とリチャードは言った。


「飢餓と混乱の中で、人々が神に縋るのは当然のことだろう」


「は。それ自体は構いません」


 ガンジャも同意した。


「教会は各地に礼拝所を設け、民に簡単な読み書きや計算を教えるなど、知的水準の向上にも貢献しておりますからな。その点は、我が国の政策とも合致しております」


 リチャードの代になって、王国は国民に対しての教育に多く予算を割いている。これは彼が理想主義者だからではない。計算高い現実主義者だからだ。


 教育を受けた国民はより効率的に働き、より多くの税金を納め、そして何より、複雑な官僚機構の指示を正しく理解することができる。愚民政策は短期的には有効かもしれないが、長期的には国家の衰退を招く。


 王国全体の利益の底上げをするためには、教育は不可欠な投資なのだ。


「だが、問題はその先だ」


 リチャードはガンジャの言わんとすることを察した。


「御明察でございます。問題は教会勢力が我が国含め、各国に対しての内政干渉を強めているという点です」


 ガンジャは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


 それは隣国で行われたイドラ教の司教による説教の写しだった。


「彼らはこの世界的な凶作を単なる自然災害とは見ていない。すなわち、光神が人類に対して警告をしているのだと、そう断じているのです」


「警告だと?」


「はい。誤った政(まつりごと)により、人心は誤った方向へと進み、結果として神を失望させているのだと、そう教会の者たちは説いているというのです」


 ガンジャは淡々と続けた。


「彼らの主張によれば、現在の統治者たちは神の教えに背き、私利私欲のために民を苦しめている。特に我が王国のように、魔術という異端の力を用いて不自然な繁栄を享受している国は神の摂理を乱す元凶であると」


「馬鹿な」


 リチャードは吐き捨てた。


「我々の努力を神への冒涜呼ばわりか。あの『ドラゴンの涙』がなければ、今頃この国も地獄だ」


「彼らにとってはあの呻き声を上げる小麦こそが、神への冒涜の証拠なのです。そして彼らはその元凶の中心にいるのが我が国であると考えている節があります」


 ガンジャの言葉に、リチャードは思わず天を仰いだ。


 愚かな宗教狂いめ、という思いもあったのだがそれ以上に──


(人心が誤った方向へ……うむむ)


 その言葉がリチャードの頭の中で反芻される。


 彼はふと、ヘルゲート公爵家の日常を思い浮かべた。


 ──パーティー会場の窓を爆破して乱入し、「素晴らしい悲劇だ!」と歓喜する当主レドラム

 ──毒薬研究に没頭し、敵国の将軍に「元気に拷問器具で遊ぶお子様たちの絵」を送りつけて精神的に追い詰める公爵夫人ウェネフィカ

 ──そして、婚約破棄を最高の幸福として享受し、親愛の情として「素敵な悪夢(ナイトメア・ディライト)」なる幻覚クッキーを配る娘デスデモーナ

 ──ついでに、その狂気に完璧に適応し、毒入りキッシュの味に文句を言うようになった我が息子エリアス


 彼らの日常は客観的に見て、完全に常軌を逸している。


 倫理観は崩壊し、価値観は逆転している。


 あれを「人心が誤った方向へ進んでいる」と言われれば、ぐうの音も出ない。むしろ的確な表現ですらある。


(……教会の言い分も、もしかしたらちょっと合ってるのかも)


 リチャードはそんなことを少しだけ思ってしまった。もちろん、王として彼らを擁護する立場は変わらない。だが一人の人間として、親友として、そして父親として、あの家族の事を案じざるを得なかった。

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