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ヘルゲート公爵領は小さい。面積にして10.11平方キロル。平均的な成人男性が走れば約85分で外周を一周できる。
これは小さい。絶望的に小さい。
だが王国にとってこの切手サイズの領地は金の卵を産むガチョウだった。
ここは「厄地」──世界のあちこちに発生する呪われた土地の一つである。何らかの要因によって土地そのものが汚染され、人々の生存を拒むようになった危険な領域。長く留まれば絶望感や猜疑心、怒りといった負の感情が増幅され、やがて精神が崩壊すると言われている。
通常、こんな土地は教会が見つけ次第浄化する。放置すれば汚染が広がるからだ。
だがヘルゲート公爵領は違った。ここから産出される黒曜石、枯れ木、鉱物──すべてが超一級の魔術触媒となる。王国はこれを他国に売りさばき、莫大な利益を得ていた。
問題は誰がこんな地獄で触媒を採掘・採取するかだった。
その答えが「ケガレ」と呼ばれる、いわゆる社会の最下層にいた者たちである。
朝五時。ゴドリックは藁のベッドから起き上がった。窓の外は瘴気で薄暗い。太陽など滅多に顔を出さない。
「ああ、今日も素晴らしい朝だ」
深呼吸をすれば瘴気混じりの空気が肺を満たす。普通の人間なら咳き込むところだが、彼にとってはこれが天国の空気だった。完全に体が馴染んでいるのだ。
ゴドリックは元々は隣国の戦争捕虜だった。
捕まった理由? 単に国境近くの村に住んでいただけだ。侵攻してきた軍隊は村人を無差別に捕らえ、男は奴隷に、女は慰み者に、子供は臓器売買の商品にするつもりだった。
奴隷市場で裸にされ、家畜のように品定めされていた時、黒いマントの男が現れた。
「なんとも哀れな光景だな」
それがレドラム公爵だった。
「全員買おう。いくらだ?」
奴隷商人は驚いた。捕虜は三百人もいたのだ。
「全員ですか? でも、こいつらは病気持ちも多いし、使い物にならない奴ばかりですよ」
「構わない。むしろそういう者たちこそ必要なのだ」
こうしてゴドリックは救われた。
「公爵様に感謝を」
彼は壁に掛けられたレドラム公爵の肖像画に向かって跪いた。肖像画は瘴気のせいで歪んで見える。悪魔のような顔に見えるが、ゴドリックには天使に見えていた。
隣の部屋から妻のベアトリスが起きてきた。
彼女は北方の異民族出身で、肌が青白く瞳が琥珀色だった。それだけで「魔女」と呼ばれた。
十五歳の時、村の井戸が枯れた。
──「魔女のせいだ」
村人たちは彼女を広場に引きずり出し、火炙りの準備を始めた。両親さえも「お前なんか産まなければよかった」と罵った。
炎が足元に迫った時、黒い馬車が広場に突入し、喪服を身にまとったヘルゲート家の使者が馬車から降りてきた。
「その娘は我々が引き取る」
「こいつは魔女です!」
「魔女? 素晴らしいじゃないか!」
使者はそういって金貨の袋を投げつけた。これは一見無礼に映るし、実際に無礼なのだが、ヘルゲート縁の者たちにとっては礼を尽くした所作である。
結局村人たちは金に目がくらみ、あっさり彼女を売った。
今、ベアトリスは幸せだった。ここでは誰も彼女を魔女と罵らない。むしろ「魔女」は名誉ある称号だった。
「おはよう、あなた」
「おはよう、ベアトリス。今日も公爵様のご加護がありますように」
「ええ、きっと素敵な一日になるわ」
二人の息子ルシファーも起きてきた。八歳の少年は生まれた時から背中に大きな黒い痣があった。
外の世界なら「悪魔の刻印」として忌み嫌われただろう。実際、産婆は彼を見るなり「化け物だ!」と叫んで逃げ出しただろう。
王国は多少マシだが、他国には多様性のタの字すら認められていない事がままある。
だがヘルゲート公爵領では違った。
外見の差異はむしろ勲章のようなものだった。
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ゴドリックは他の採掘夫たちと共に「嘆きの鉱山」へ向かった。道中、彼らは歌を歌う。
♪ ヘルゲート様は偉大なり
♪ 我らに仕事を与えたもう
♪ 厄地で働くは誇りなり
♪ 公爵様万歳、万歳、万歳♪
鉱山で働く者たちは皆、似たような過去を持っていた。
鉱夫のバルトロメオは貴族の私生児だった。それだけならともかく、奴隷との子供である。ゆえに存在自体が「家の恥」とされ、生まれてすぐに捨てられた。奇跡的に生き延びたが、出生を知った異母兄弟に毒殺されかけ、命からがら逃げ出した。
ヨハンは元は優秀な鍛冶職人だったが、右手の指が一本多かった。それだけで「悪魔と契約した」と噂され、作った武器は全て不吉だと忌避された。ついには国外追放となった。
マルコは生まれつき瞳の色が左右で違った。緑と茶。それだけで「呪われた子」と呼ばれ、両親にさえ愛されなかった。
彼ら全員が、ヘルゲート公爵に拾われた者たちだった。
「おはよう、兄弟たち」
坑道の入り口で、監督官が待っていた。といっても監督官自身も元は「ケガレ」だった。顔の半分に大きな痣があり、それが理由で家族に捨てられた過去を持つ。
「今日も公爵様のために頑張ろう」
「はい!」
坑道は暗く狭いが、彼らにとっては聖堂のようなものだった。ここで働けることが誇りだった。
外の世界では彼らのような者に仕事などない。
──「呪われた者に触られた道具は穢れる」
──「化け物と一緒に働きたくない」
──「お前みたいなのは目障りだ」
そんな言葉を何度聞いたことか。
だがここでは違う。レドラム公爵は言った。
「君たちの特別な資質こそが、この特別な土地には必要なのだ」
実際、瘴気は普通の人間には耐えられないが、既に社会から爪弾きにされ、精神的に追い詰められていた彼らにはむしろ心地よかった。外の世界の
「おっ、良い鉱脈を見つけたぞ!」
ゴドリックがツルハシを振るうと、黒い結晶がざくざくと出てくる。
「素晴らしい! これで公爵様もお喜びになる」
彼らは競うように採掘した。
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昼、領内唯一の市場が賑わっていた。
といっても売られているのは、外の世界では「廃棄物」扱いされるようなものばかりだった。形の悪い野菜、規格外の肉、賞味期限切れの保存食。
だが領民たちにとっては宝の山だった。
肉屋の主人・グレゴールは声を張り上げた。
「今日は良い肉が入ってるよ!」
彼は元教会の下級司祭だったが、聖書の解釈を巡って異端とされ、破門された。正確には、彼は「神は全ての人を平等に愛する」と説いただけだったが、それが「ケガレも神に愛される」という意味に取られ、冒涜とされたのだ。
ベアトリスが買い物かごを下げてやってきた。
「あら、グレゴール。調子はどう?」
「おかげさまで最高さ! 今日は特別に良い肉を取っておいたよ」
それは他の店では売れ残った、少し変色した豚肉だった。だが瘴気のせいで、高級な熟成肉に見えた。
「まあ、ありがとう!」
八百屋のマリアが声をかけてきた。
「ベアトリスさん、このカブはどう?」
マリアは元は裕福な商家の娘だったが、ある日突然声が出なくなった。医者は原因不明と診断したが、家族は「悪魔に声を奪われた」と決めつけ、彼女を座敷牢に閉じ込めた。
ヘルゲート公爵が彼女を見つけた時、彼女は骨と皮だけになっていた。今では手話と筆談でコミュニケーションを取っている。領民たちは誰も彼女を差別しない。
市場の片隅では、子供たちが遊んでいた。
「公爵様ごっこ」という遊びで、一人が公爵様役になり、他の子供たちを「救済」するという内容だった。
「私を救ってください、公爵様!」
「よかろう! お前も我が領民となるがよい!」
ルシファーも仲間に加わった。彼の背中の痣は子供たちの間で「カッコいい」と評判で、ルシファーは子供たちからの人気者だった。
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そうしている内に、月に一度の「祝福の日」がやってきた。
この日は王都から派遣された医師団が領民の健康診断を行う日だった。ヘルゲート公爵が「領民の健康は領地の財産」という名目で手配したものだ。
領民たちは広場に集まり、興奮した様子で順番を待っていた。
彼らには医師団が恐ろしい魔術師集団に見えていたからだ。白衣は呪いのローブ、聴診器は魂を覗く邪眼、注射器は闇の力を注入する魔導器に見えた。
すべて瘴気による幻覚だった。
彼らはみな軽度だがラリっている。瘴気の影響だ。命に別状はないものの、判断力に異常が生じる。
「次の方どうぞ」
若い女医が優しく声をかけた。だがゴドリックには違う風に聞こえた。
「次の生贄よ、来たれ」
「はい! 喜んで!」
ゴドリックは診察台に横になった。女医が聴診器を当てる。
「心音は正常ですね。血圧を測りますね」
ゴドリックには「お前の魂の響きを確認する。生命力を吸い取らせろ」と聞こえた。
「ああ、なんという至福……」
血圧計が腕を締め付ける感覚を、彼は「闇の蛇が腕に巻き付く」と感じていた。
「血圧も正常です。とても健康ですよ」
彼には「お前の血は呪いに満ちている。完璧だ」と聞こえた。
「ありがとうございます! もっと呪われるよう頑張ります!」
女医は首を傾げたが、笑顔で次の患者を呼んだ。
別のテントでは、子供たちが予防接種を受けていた。
「痛いのは一瞬だけだからね」
優しい看護師が注射の準備をした。
ルシファーは目を輝かせていた。
「闇の力を入れてもらえるんだ!」
注射針が刺さった瞬間、彼は誇らしげに胸を張った。
「全然痛くない! 僕は闇の戦士だから!」
実際、瘴気の副作用で痛覚が鈍っているため、本当に痛みを感じにくくなっていた。
看護師は「勇敢な子ね」と褒めたが、ルシファーには「お前は選ばれし者だ」と聞こえた。
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医師団のリーダー、ホプキンス博士は、診察結果をまとめていた。
「奇妙なことに、全員が比較的健康です」
助手が頷いた。
「栄養状態も悪くない。王都の貧民街より良いくらいです」
「ただ……」
博士は眉をひそめた。
「全員が軽い幻覚症状を示している。瘴気の影響でしょうが……彼らは幸福そうだ」
「確かに。むしろ王都の人々より幸せそうに見えます」
幸せとは何なのか、ホプキンスは頭を抱えるのであった。