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第6話「厭な慣れ」

 ◆


 光陰矢の如しとはよく言ったものだが、ヘルゲート公爵家においては光陰毒矢の如しである。その毒矢は絶え間なく降り注ぎ、的となった哀れな魂を苛みそして作り変えていく。


 あの悪夢のような、しかしデスデモーナにとっては夢のように甘美だったデートから三ヶ月が経った。


 エリアス・セラ・ルミナスと隣国の元間諜リリアーナ・フローレットはまだ死んでいなかった。これは驚くべき事実である。もちろん死にかけた事は何度もある。というか毎日死にかけている。朝食の毒で三途の川を渡りかけ昼の「訓練」で肉体を破壊されかけ夜の「娯楽」で精神を粉砕されかける。それが彼らの新しい日常だった。ヘルゲート家流の「歓待」は三ヶ月間一時も休むことなく続けられたのだ。


 だがこの頃になると二人に奇妙な変化があらわれてきた。


 それは順応である。


 人間とは実に図太い生き物であり、環境へ適用する能力が非常に高い。それはこのヘルゲート公爵家という控えめに言っても最低最悪の環境であっても例外ではなかった。狂気に適応するために自らも狂気の一部となる。生存戦略としては正しいが人間としてはどうかしている。


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 ヘルゲート公爵邸の薄暗い食堂。壁には相変わらず用途不明の拷問器具が芸術品のように飾られ、天井からは誰のものとも知れぬ頭蓋骨がシャンデリアの如く吊り下げられている。


 エリアスはその日も朝食のテーブルについていた。目の前には銀の皿に載せられた深緑色の奇妙なキッシュが湯気を立てている。


「……何か足りない」


 エリアスは一口それを口に運び眉をひそめた。かつての眩しい金髪は幾分くすみ、青空の瞳には深い諦念と奇妙なギラつきが宿っている。肌も青白く、まるでこの屋敷の住人のように血の気が失せていた。


「どうかなさいましたかエリアス様」


 傍らに控えていたデスデモーナが小首を傾げる。その笑顔は今日も完璧に邪悪で、そして愛らしかった。


「ああデスデモーナ。このキッシュだが……どうも味がぼやけている。スパイスが足りないようだ」


「あら。シェフにはいつも通り『素敵な悪夢(ナイトメア・ディライト)』の粉末を多めに入れるよう伝えたのですけれど」


「それだけでは物足りないのだ。もっとこう……舌が痺れるような刺激というか生命の危機を感じるような風味というか……」


 エリアスは真剣な顔で言った。彼は自分が王としての資質を高めるためこの過酷な環境で精神を鍛えているのだと信じて疑わなかった。毒への耐性をつけ危機的状況でも冷静さを失わない強い王になるために。


 もちろんそれは盛大な勘違いである。彼は単に味覚と神経が破壊されつつあるだけであり、王の資質など微塵も育っていない。むしろヘルゲート家の奇人コレクションの一つに加えられつつあるだけだ。だが本人が満足しているならそれでいいのかもしれない。人生とは畢竟思い込みの連続なのだから。


「まあエリアス様。そんなに刺激がお望みでしたら母様秘蔵の『ベラドンナの雫』を少々加えて差し上げましょうか。ほんの一滴で素敵な臨死体験ができますわよ」


「おおそれは素晴らしい! ぜひ頼む!」


 エリアスが目を輝かせた。彼は恍惚とした表情で『ベラドンナの雫』をキッシュに振りかけそしてそれを口に運んだ。途端に彼の顔が青ざめ全身が小刻みに震え始めた。だがその表情は満足げだった。


「ああこれだ。この味だ。脳髄を直接刺激するようなこの強烈な刺激……素晴らしい」


 彼はそう言いながら満足げにため息をついた。完全に中毒者のそれであるが、デスデモーナは嬉しそうだ。

 まあ人間というものは自身の好きなものを肯定される事に快感を覚える動物であり、それは彼女とて例外ではない。

 そんなこんなで二人が毒物談義を楽しんでいた所──


 食堂の扉がノックされた。


「失礼いたします、お嬢様。掃除の時間です」


 入ってきたのはリリアーナだった。彼女はメイド服に身を包み手には箒とちりとり──そしてなぜか銀の短剣を持っていた。かつての可憐な男爵令嬢の面影はもはやない。その瞳は氷のように冷たくそれでいてどこか虚ろだった。


「ご苦労様リリアーナ。今日もよろしく頼むわ」


「はいお嬢様」


 リリアーナは手際よく掃除を始めた。動きは洗練されておりまるで舞踏のようだ。


 床に仕掛けられた落とし穴を軽々と飛び越え、壁から飛び出す槍を箒で受け流し、天井から降ってくる毒蜘蛛をちりとりで捕獲する。その一連の動作はもはや芸術の域に達していた。


 彼女は今やこの罠だらけの城を完璧に掃除できる唯一のメイドとなっていた。いやメイドというよりはむしろ罠の管理者と言った方が正確かもしれない。


 エリアスはリリアーナの動きに見惚れていた。


「素晴らしいなリリアーナ。君のその箒捌き、まるで剣舞のようだ」


「恐縮ですエリアス様。まあこれくらいは出来る様になりませんとこの城では生きてはいけませんから」


 リリアーナは表情を変えずに答えた。これは全くの事実である。ある程度の身体能力、危機察知能力がないとヘルゲート城を歩き回るなんてことはできないだろう。


「うむ。我々も随分とこの生活に慣れたものだな」


 エリアスは満足げに頷いた。彼らは自分たちがこの異常な環境に適応したことを誇りに思っていた。まるで毒沼で生きることを覚えた魚が清流で生きる魚を見下すかのように。


 そんな素敵な朝食の風景を眺めながらデスデモーナは心からの幸福を感じていた。


(ああなんて素晴らしいのかしら。私の愛する二人がこんなにも……。これ以上の喜びがありまして?)


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 そんなヘルゲート公爵家に一人の訪問者が現れたのはその数日後のことだった。


 王宮からの使者フィリップである。彼は若いが有能な文官で、生真面目で融通が利かずそして致命的に常識的な男だった。彼がこの危険な任務に選ばれたのは単に彼以外に適任者がいなかったからだ。皆ヘルゲート家に行くのを死ぬほど嫌がったのである。


 フィリップは馬車を降りると、目の前に広がる陰鬱な光景に息を呑んだ。


 黒い茨に覆われた城壁。空には不気味な色の雲が渦巻き湿地帯からは得体の知れない鳴き声が聞こえてくる。そして何より城全体から漂う濃厚な死の匂い。


「ここれがヘルゲート公爵邸……」


 フィリップは震える手で国王からの親書を握りしめた。彼の任務はエリアス王子とリリアーナ嬢の安否確認。リチャード国王は親友であるレドラムを信じていたがそれでも心配は尽きなかった。特にエリアスは彼の実の息子なのだ。


 だがフィリップは門をくぐった瞬間から後悔していた。こんな場所に来るべきではなかったと。


 彼は意を決して玄関の扉をノックした。扉は軋むような音を立ててゆっくりと開いた。


「ようこそ地獄へ」


 出迎えたのはエリアスだった。だがフィリップは目の前の人物が本当にエリアス王子なのか信じられなかった。


 青白い肌。狂気を宿した瞳。そして何よりその纏う雰囲気。それは王族のそれではなくまるで深淵から這い出してきた悪魔のようだった。


「エ、エリアス殿下……?」


「おおフィリップか。よく来たな。さあ入れ」


 エリアスは満面の笑みを浮かべてフィリップを招き入れた。その笑顔はかつての爽やかなものではなくどこか歪んでいた。


 フィリップは恐る恐る屋敷の中に足を踏み入れた。その瞬間彼の足元でカチリと音がした。


「危ない!」


 声と同時にフィリップの体が横に突き飛ばされた。彼が立っていた場所から巨大な鉄の槍が飛び出してきた。


「失礼いたしました、フィリップ様。床の罠を解除するのを忘れておりましたわ」


 声の主はリリアーナだった。彼女はメイド服姿でフィリップの前に立っていた。その手には先ほどまでフィリップの喉元にあったはずの槍が握られている。


「リリリアーナ様……?」


 フィリップは彼女の変化にも驚愕した。


「お怪我はありませんか?」


 リリアーナは感情のこもらない声で尋ねた。


「ああ大丈夫だ……」


 フィリップは震えながら答えた。彼は完全にドン引きしていた。この二人は一体どうなってしまったのだと。


「さあフィリップこちらへ」


 エリアスがフィリップを応接間に案内した。そこにはヘルゲート公爵夫妻とデスデモーナが揃っていた。彼らは皆フィリップを見て実に楽しそうな笑みを浮かべている。


「おお使者殿! 遠路はるばるご苦労!」


 レドラム公爵が陽気に迎えた。


「まあゆっくりしていってくださいな。今ちょうど新しい毒薬の試飲会をしていたところですのよ」


 ウェネフィカ公爵夫人が怪しげな色の液体が入ったグラスを差し出した。


「いえ私は結構です……」


 フィリップは必死で断った。


「そう遠慮するな。これは実に美味だぞ」


 エリアスがグラスを手に取り一気に飲み干した。そして恍惚とした表情を浮かべる。


「ああこの痺れるような感覚……たまらないな」


 フィリップはもはや言葉を失っていた。彼はこの狂気の空間から一刻も早く立ち去りたかった。


「あの殿下。国王陛下からの親書をお持ちしました」


 フィリップは震える手で親書を差し出した。エリアスはそれを受け取り無造作に封を開けた。


「ふむ……父上は僕たちがまだ生きているか心配しておられるようだ。そしてもし可能なら一度王宮に顔を見せに来いと」


 エリアスは親書を読み終えると愉快そうに笑った。


「まあ考えておこう。それにしてもやけに心配してくださっている様だが……フィリップ、父上にはよろしく伝えてくれ。私たちはここで幸せに暮らしているとな」


 エリアスはそう言ってフィリップの肩を叩いた。


「は、はあ……かしこまりました……。ともかく、私はお二人の様子を確認したということで、この辺で……」


「おや もう帰られるのか?」エリアスが残念そうに言った。


「まだ地下牢の案内も毒蛇の飼育室の見学もしていないのに」


「ひいいいい!」


 フィリップは絶叫しながら応接間から逃げ出した。城の外へと続く廊下を全力で走る。途中何度も罠にかかりそうになったが、なぜか並走しているリリアーナが的確に指示を出してくれたおかげでなんとか無事に脱出することができた。


「お気をつけてお帰りくださいませー」


 リリアーナのやけに間延びした声を背に、フィリップはもう二度とここへは来ない事を内心誓うのだった。


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 王宮に戻ったフィリップは国王リチャードの前に跪き震えながら報告する。


「陛下……エリアス殿下とリリアーナ様はご存命でした……」


「おおそうか!」


 リチャードは安堵の表情を浮かべた。だがフィリップの次の言葉でその表情は凍りついた。


「ですが……お二人はすっかりヘルゲート公爵家の住人となっておられました」


「どういうことだ?」


 フィリップはヘルゲート公爵邸での出来事を詳細に語った。エリアスが毒入りのキッシュを美味しそうに食べていたこと。リリアーナが罠を解除しながら掃除をしていたこと。そして何より二人がその異常な生活を心から楽しんでいるように見えたこと。


 リチャードは報告を聞き終えると深くため息をついた。


「そうか……ついに彼らも……」


 リチャードは覚悟していた。ヘルゲート家に預けた以上こうなる可能性はあった。だがまさかここまで完璧に適応してしまうとは。


「エリアスは……器用だった。幼い頃から教えれば大抵の事は出来た。そんなエリアスが可愛くて、散々に甘やかしてしまった結果、傲慢な性格に育ってしまった。無論、私の責による所が大きい──が」


 リチャードはこめかみを押さえた。彼の胃がキリキリと痛み始めた。


「少し殊勝な性格になってくれればよかったのだが……」


 まさか適応してしまうとは、とリチャードは頭を抱えた。


 とはいえその胃痛の原因を作ったのは他ならぬ彼自身なので、自業自得なのだが。


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