教科書のページをめくる音が、静かな部屋に響いていた。
机に肘をつきながら、魔法理論の教科書をじっと読み込んでいる。それは今さらながらの復習だった。だが、ふとした瞬間、脳内に響く声が割って入る。
≪……この圧縮術式というのは、なかなか合理的だな≫
(……え? 教科書、読んでんのか?)
驚いて目を細める。ネロの声は続いた。
≪当然だ。吸収魔術式──マナドームの技術。あれは現代術式の応用の集大成だ≫
いつになく饒舌だった。
頭の中で、論理と言語が絡み合う講義が始まっていた。
≪現代魔術は、かつての破壊魔法とは異なる。削ぎ落としの美学だ。複雑な詠唱を簡略化し、燃費と再現性を重視している≫
≪この循環魔力論──なるほど、魔力を一度外に出すのではなく、内部で回すことで効率を最大化しているのか……!≫
その声には、確かな熱があった。
思わず眉を上げる。
(めちゃくちゃ興奮してる……AIなのに……)
しかし、ネロの関心はそこで終わらなかった。
≪……だが。お前の魔力は、この理論には乗らない。むしろ、対極だ≫
(知ってる。俺の魔法は……雑で、暴力的で……燃費も最悪だ)
自嘲気味に笑った。
だが返答は、意外なものだった。
≪だが、それがこの時代の魔法と混ざると、どうなるか。──混成が起こるぞ。可能性は、ここにある≫
その言葉に、指が止まる。
古代と現代。相反する魔法の融合。
それは、これまで誰も想像しなかった接合の発想だった。
(……だったら、お前も現代魔法を知っといてくれ)
机の上に広げた教科書を見つめながら言った。
(俺だけじゃ、無理だ)
いつになく素直なその声に、ネロはわずかに沈黙する。
≪ふん……助けを乞うたな≫
(違ぇよ)
微かに笑った。
(相棒だろ。なら、一緒にやるしかねぇ)
短い沈黙の後、静かに応じる声が響く。
≪……ふん、ようやく理解したか。己の無知と、私の価値を≫
≪仕方ない。お前の成長のために、妥協してやろう。この時代の魔法もな≫
その言葉に、口元を緩めた。
それは、2人の新たな出発点だった。
昼休みの教室。
机の上に教科書を広げ、眉間に皺を寄せながらページをめくっていた。
その脳内に、静かな声が割って入る。
≪この情報量では不十分だ。書物をもっと見せろ。この時代の魔法を学ぶ必要がある≫
≪黒炎だけではない。私の中には、未だ封じられた”古代の術式”がある。今のお前には扱えぬが──いずれ、そのすべてを引き出してもらう≫
静かに放たれたその言葉に、手が止まる。
(……封じられた、術式……?)
いったいどれほどの力が、まだネロの奥に眠っているのか。想像もつかない。
≪私が判断した。学ぶ価値はある。現代魔術も、私の手中に収める≫
その静かな宣言に、ため息をついた。
(……わかったよ。じゃあ、図書室に行くか)
重厚な扉を開けると、柔らかな光と、静かなページをめくる音が迎えてくれた。
中ほどの机には、すでにユナが座っていた。
「……あ、バクくんも来てたんだ。授業の復習?」
「いや……まあ、いろいろと勉強な」
軽く受け流し、空いている席に腰を下ろす。2人並んで、静かにページをめくる時間が始まった。
現代魔法の基礎書を手に取り、次々と読み進めていく。
そのたびに、ネロの声が脳内に響く。
≪……この術式は、簡略化の極みだな。だが、その合理性は評価できる≫
(減点方式かよ……)
黙々とページを追いながら、相棒の変化を感じていた。
かつて見下していた現代魔術に、彼は少しずつ敬意を持ち始めている。
それは、どこか誇らしくもあった。
別の資料を探しに、本棚の奥へと歩いていく。
静まり返った通路に、一瞬、空気の重さを感じる。
何かが──歪んでいる。
ふと視線を向けると、そこにいた。
背の高い青年だった。
短く整えられた黒髪に、鋭い目つき。
ただ座っているだけで、空間が圧迫されるような異質な存在感があった。
椅子に腰かけ、周囲に浮かぶ分厚い魔術書を自在に操っている。
ページが自動でめくられ、重力の流れに沿って本が回転していた。
その姿はまるで、重力の中心に在る静寂だった。
立ち止まった瞬間、青年の顔が上がる。
視線がぶつかる。
敵意も興味もない。
ただそこにあったのは、圧倒的な完成された力の気配。
言葉を発するより早く、ゼアは再び本に目を落とした。
一瞬、空間が軋んだ気がした。
重力が、空気ごと揺らいだ。
(……ああいうのが、完成された魔法ってやつなのかな)
呟きながら、席に戻る。
ユナが小さく声をかけてきた。
「あの人、ゼア・ノクティスくん。──この学年に、3人だけいるSランクの1人だよ」
「……ふーん」
それ以上、ユナは何も語らなかった。
深くは訊かなかった。
リナと今見た青年──そしてもう1人。
Sランクの存在が、静かに脳裏に刻まれる。
再び教科書に目を落とすと、ネロがぽつりと呟いた。
≪重力魔法──理論と意志の一致。完成された構築式だ。……私は嫌いだ≫
(へぇ、やけに素直じゃん)
≪嫌いだからこそ、学ぶ価値がある。真似では、超えられんからな≫
ふっと笑い、ページを、もう一枚めくった。
昼休みが終わると、全員が訓練室へと移動した。
ガクが前に立ち、簡潔に告げる。
「今日は模擬戦をやる。ルールは一つ、魔法は禁止だ。身体強化だけでやり合え。倒すか、ギブアップさせた方の勝ち。実戦想定だ、気を抜くな」
生徒たちの間にざわつきが走る。
その中で、無造作に名前を読み上げた。
「まずは……ゼア・ノクティス」
一瞬で場の空気が凍りつく。
誰もが目を伏せた。
前に出ようとした、その瞬間。
「バク、お前ダメだ。お前をあいつの相手にはさせられねえ」
「……なんで」
「今のお前じゃ、ぶっ壊されるだけだ」
「……は?」
「文句があるなら、あっちの壁の前で、一生反復横跳びでもしてろ。身体強化だけ使ってな」
内心の理不尽さを噛み締めながら、渋々と壁際に向かった。
「くそ……」
そう呟きながら、1人黙々と横跳びを始める。
その間にも、ガクは静かに視線を走らせたが、誰もゼアの相手には名乗り出ない。
沈黙が流れた。
「先生ー! 俺、やりたいっす!」
その静けさを打ち破るように、アキが手を挙げた。
「……アキか。お前で持つかどうかは知らんぞ」
「やってみなきゃわかんないっしょ! そもそも誰もやんないんじゃ意味ないし」
「あいつ、Dランクのくせに無謀だろ……」「マジかよ……」
ざわめきが広がる。
ガクは溜息混じりに頷いた。
「……まあ、アキなら潰れはしねえか。ゼア、いいか?」
ゼアは静かに頷き、無言のまま前に出る。
自然と、周囲に緊張が走る。
アキは笑顔でガクに手を振った。
「本気で行っていいっすかー!?」
「ルール守れ。魔法は禁止だぞ」
「了解っす!」
その声が合図となった。
アキが身体強化で膨れ上がった脚力で踏み込み、力任せの拳を次々と振るう。
だが、ゼアは微動だにしない。
すべての攻撃を無駄なく受け流し、いなし、捌いていく。
まるで攻撃の流れそのものを先読みしているかのようだった。
「うわ、全部さばいてる……!」
「でもアキのスピードもヤバい!」
観客の声が飛ぶ。
数発のカウンターが入り、アキの脇腹と肩に衝撃が走る。
それでもアキは倒れない。
壁際で横跳びを続けていたバクは、遠目にその光景を睨んだ。
──ゼアの動きは異質だった。
アキが歯を食いしばる。
「だったら──ぶっ飛ばすまでだ!!」
土の魔力がアキの拳に集中する。
足元が盛り上がり、岩を纏った拳が地面を割る勢いで前に突き出される。
「ゴーレム拳ッ!!」
土の魔力が拳に集中し、地面が盛り上がる。
砕けるような踏み込みとともに、拳が突き出された──その瞬間。
ゼアの瞳が、わずかに細まる。
空気が止まり、視界の奥が“歪む”。
重力が圧縮されるように──空間そのものが、ぬるりと折れ曲がった。
ゼアの掌がわずかに持ち上がる。
その瞬間、拳の魔力が“ねじれて”崩れた。
放たれるはずだった一撃が、まるで見えない深層へと引きずり込まれるように、力を失って消滅する。
衝撃波も破片も──空間に吸われたように、跡形もなく掻き消えた。
それは封殺だった。圧倒的なまでの、魔法の完成度による無力化。
アキの放った魔力が空中で止まり、
まるで見えない何かに押し潰されるように、砕け散った。
沈黙。
「てめえ魔法使うなって言っただろうが!!!」
ガクの怒声が響き渡る。
試合は即座に終了。
ゼアは無言で背を向け、歩き去っていった。
アキは肩を落とし、「は、はは……やべ……」と苦笑い。
「放課後まで反復横跳びしてろ馬鹿野郎!!」
「ええっ!? マジっすか……!」
「バク、てめえも付き合え。2人でやってろ!!」
「……なんで?」
夕方、訓練室の隅。
バクとアキが、黙々と横跳びを続けていた。
「はぁ……はぁ……マジで地味すぎる……」
「お前が魔法使うからだろ……」
「ゼア、強かったな……あれ、ガチでヤバいやつだな……」
「……だな」
反復横跳びのリズムが、どこか心地よく感じられた。最初はただの罰ゲームだった。
だが、いつの間にか互いにヒートアップしていた。
「どっちが長く早くできるか勝負だ、バク!」
「上等だ!負けねえからな!」
2人は汗だくになりながら、真顔で横に跳び続ける。
そのとき──
≪……お前はいつまでやっているんだ。もう18時だぞ≫
「……やばい! マナドームでガク先生とトレーニングするんだった!」
「は!? やっべえ!!」
バクとアキは同時に叫び、全力で走り出す。
訓練服のまま、ドタバタと駆けていった。
マナドームに到着すると、すでに仲間たちが訓練を始めていた。
エマが腕を組んで怒っている。
「おそーい!いつまでやってたのよ!」
ユナが戸惑いながら小声で呟く。
「ま、まさか本当に……反復横跳びを……?」
リナは呆れたようにため息をついた。
「本当にバカね、あなたたち……」
ケイは穏やかに笑う。
「さすがバクくんとアキくん」
それぞれが、彼ららしいリアクションで迎え入れる。
場が一気に賑やかになる中──
「てめーら、何してたんだ馬鹿野郎!!」
背後から、怒号が飛んだ。
ガクだった。
バカ2人はビシッと背筋を伸ばし、同時に叫ぶ。
「すみませんっ!!」
その一言で、再び場が引き締まった。
「アキはケイに揉んでもらっとけ。バクは俺とやるぞ」
ガクが命じる。
ケイが軽く笑いながら言う。
「手加減しないよ、アキくん」
アキも意気込んで拳を握る。
「1日でSランクとAランク相手にできるなんて、ラッキーだぜ!」
場の空気は、再び戦いの気配に包まれる。
一方、リナはエマとユナに魔法の扱い方を教えていた。
「詠唱の流れ、焦っちゃダメ。魔力の線を結ぶ感覚で」
丁寧に説明する。
「うーん……なんとなく、わかった気がする!」
エマが明るく頷き、ユナも続いた。
「わ、私もやってみる!」
3人の距離が、少しずつ縮まっていく。
そして──
「構えろ、バク」
ガクの声が響く。
「……行きます!」
足に魔力を集中し、猛スピードで斜めから突っ込む。だが、攻撃はあっさりといなされた。
重心のズレを、ガクは完全に読んでいた。拳は空を切り、逆に胴へ軽くカウンターが入る。
「……やっぱ強えな、ガク先生」
悔しさを噛み締めながら吐き出す。
「当たり前だ。俺がお前らの壁だ」
ガクの声は、重く、熱かった。
「行くぞ!」
地を蹴った。足に集中させた魔力が、一気に爆発する。その身体は、風を裂くような速度でガクに迫る。
だが──
「遅ぇ」
ガクは微動だにせず、そのままの姿勢で突撃をいなした。
脇腹に鋭いカウンター。
「ぐっ……!」
身体が半回転しながら吹き飛ぶ。
倒れ込みながら、悔しげに歯を食いしばった。
「スピードは一級品だ。なんで読まれるのか、自分で考えてみろ」
ガクの声が鋭く響く。
すかさず、ネロの声も脳内に落ちてくる。
≪直線的すぎる。お前はそれだけではないはずだ≫
「だったら──!」
再び立ち上がり、今度は突進せず、円を描くようにガクの周囲を高速で走り出す。
──ぐるぐると、ひたすらに。
左右から、斜めから、後方から──位置を変え続け、タイミングを狙う。
移動精度は、横跳びの成果か昨日より格段に上がっていた。
だが──
「やると思った……」
ガクはぼそりと呟く。
真後ろに回った瞬間、ガクが振り返りざまに肘を突き出す。
拳は、わずかに届かず止まった。
「それ、やめとけ。バカにしか通用しねーから」
「くそ……!」
苦悶と悔しさが交じる。
だが、ここで終わらせたくはなかった。
「埒があかねーな」
そう言ったガクが、今度は自ら動く。
踏み込みと同時に、鋭い拳が迫る。
──速い。
なんとか数発をガードし、足でいなすが──
「っぐあ!!」
腹に一発、強烈な拳を受け、地面を転がった。
「おら、さっさと立て。そんなもんか?」
「まだまだ!」
気合とともに立ち上がる。
次の瞬間、再び飛び込んでくるガク。
咄嗟に、全魔力を腕に叩き込んだ。
「……っらあああああっ!!」
踏み込みと同時に放たれた拳が、空気を震わせる。
風圧が周囲を押し返し、鈍く低い音が空間を貫いた。
ガクは正面から受け止める構えだった。
──だがその瞬間、重心が揺らいだ。
その場に踏み留まっていたはずの体が、大きく弾き飛ばされる。
ガクの足元が削れ、靴底が床を抉りながら数歩も後退した。
ガクが小さく笑った。
「……やるじゃねえか」
肩を軽く回しながら、見据える。
「破壊力もスピードも申し分ねぇ。あとは実戦と制御だ」
「はいっ……!」
「続けるぞ、バカ野郎!」
その一言に、口元がわずかに緩んだ。
マナドームの天井に差し込む夕日が、柔らかな金色を帯びていた。
喧騒と熱気に包まれていた訓練場も、次第に静けさを取り戻していく。
「リナ!ありがとう!めっちゃわかりやすかった〜!明日もよろしく!」
エマが満面の笑顔で手を振る。
「私も……また教えてもらえると嬉しいな」
ユナも控えめに微笑みながら、リナへと小さく頭を下げた。
「……え、明日も?」
少し戸惑ったように眉を上げたリナに、横からケイが茶々を入れる。
「満更でもないくせに」
「うるさいわね!」
リナは赤くなってぷいとそっぽを向いたが、その頬には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
いつの間にか、その輪の中に溶け込んでいる。
──その事実が、何よりも自然だった。
「ケイ……明日はけちょんけちょんにしてやるからな……!」
髪をぐしゃぐしゃにしながら、アキがふらふらと歩いてくる。
「明日も楽しくなりそうだね」
ケイは涼しい顔で、タオルを首にかけたまま笑っている。
「くそ……あのスカした顔……明日は泣かす!」
吠えるアキだったが、その顔にはどこか満足げな悔しさがにじんでいた。
「……はぁ」
息を吐き、地面に座り込んだ。
一連の訓練を終えた身体には疲労が残っていたが、心は妙に静かだった。
その背後から、声が飛んできた。
「バク」
振り返ると、ガクが腕を組んで立っていた。
「今日の動きは悪くなかった。だが……まだ足りねぇ」
「……はい」
まっすぐに頷く。
「選抜戦まで、付き合ってやる。覚悟しとけよ」
「お願いします!」
拳を握って立ち上がる姿に、ガクが満足げに目を細めた。
脳内に、静かな声が響く。
≪体の動きは悪くない。黒炎の制御に繋げるなら、いい訓練だった。だが──まだ鈍い≫
「……まだまだだ」
拳を見つめながら、呟いた。
その言葉は、未来への誓いのようにも響いた。
やがて、ガクが全体に向かって声を張る。
「来週からは、選抜戦の予選が始まる」
声に、仲間たちの動きが止まった。
「騎士団への道は、ここからが本当の始まりだ。……生き残れるかは、お前ら次第だ」
誰も言葉を返さなかった。
アキも、ユナも、エマも、ケイも、リナも──その場の空気が緊張を帯びる。
──静かに思った。
(やるしかねえ。ここで、置いていかれるわけにはいかねえ)
訓練を終えた仲間たちが、並んで歩き始める。
西の空には、夕陽が朱に染まりながら落ちかけていた。
「明日も頑張ろー!」
エマの明るい声が響く。
「うん……!」
ユナが微笑んでうなずく。
「もう反復横跳びは勘弁だな……」
アキがげんなりと呟いた。
「……同感だ」
笑いながら返す。
それぞれの訓練で得たものを、胸に抱きながら──仲間たちは、夕暮れの道をゆっくりと歩いていった。