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第8話 名のない墓に誓って

魔法理論の授業中、退屈そうに教科書を眺めていた。

黒板には複雑な魔力循環図が描かれ、教師が淡々と解説を続けている。


バクは頬杖をついたまま、窓の外をぼんやりと見つめていた。

魔法理論の教科書が開かれてはいるが、内容はほとんど頭に入ってこない。


(やっぱ……こういうの、性に合わねぇな)


小さくため息をついた、その瞬間。

脳内に、別の声が響いた。


≪……この理論書、ようやく出てきたか。“外装型魔力操作”。媒体に魔力を浸透させ、形状と効果を変化させる……ふむ≫


≪魔力を放つのではなく、纏うことで”接触制御”を可能にする。未熟な術者でも一定の制御ができる──面白い≫


(……なにかヒントになりそうか?)


≪魔力放出に失敗し続ける者が、逆に保持する方向へ進むのは理に適っている。……未完成なお前には、ちょうどいいおもちゃだ。暴れ馬には手綱が似合う≫


(毒舌だけは相変わらずだな……)


だが、その言葉の裏にある可能性を感じ取っていた。黒炎を放つのではなく、纏う。その発想は、確かに理に適っているように思えた。


講義の内容なんかよりも、その声のほうがずっと興味深かった。


昼休みになると、真っ先に訓練室へ向かった。


他の生徒は昼食や休憩に向かっており、訓練室は無人だった。扉の前には新しい張り紙が貼られている。


《※破壊厳禁》


それを見て、ネロが嫌味を言ってきた。


≪見ろ、最初からお前の犯行が想定されている≫


「破るつもりはない……つもりだけどな」


そう呟きながら扉を開ける。静寂に包まれた訓練室で、深く息を吸った。


「さて……やってみるか」


≪焼け焦げて泣きつくなよ? 止めるつもりはない≫


「そう言うと思ったよ……」


拳を握り、集中する。これまでとは違うアプローチを試す時だった。


右手に意識を集中し、黒炎を込めようとする。だが、制御できず一瞬で爆ぜた。


熱が弾け、袖が焦げる。


「……クソ、まだ暴れるか」


≪放つのではなく、抱き込むように。魔力の流路を外ではなく、内へ回せ。纏う意識だ≫


深く息を吸い、拳を見つめた。


黒炎が、掌に集まり始める。


それは熱ではなかった。内側から神経を焼くような痛み。

皮膚のすぐ上を、なぞるように黒い火が輪郭を描いた。


拳の感覚が鈍くなる。


だが、崩れる前に押さえつけた。

掌の骨が軋み、筋肉が焼かれる匂いのなかで、拳を固めた。


──そして炎は、静かにまとわりついた。


黒炎が、暴れるのをやめた。

わずか数秒。しかし確かに、纏っていた。


「──止まった。ほんの一瞬、けど……俺の手にあった」


≪奇跡だな、お前にしては。……ほんの数秒だけ、魔法使いに見えたぞ≫


汗が滴る。

けれど、あの感覚は残っていた。


≪暴走の直前で押さえ込む。お前のやり方は……無理やりではあるが、最も合理的だ≫


立ち上がり、焦げた袖を見下ろす。


手はまだ痛む。だが、悪くなかった。


拳を握り直す。


「──これなら……少しは扱えそうだな!」


そのまま壁へと歩を進める。

拳を構え、黒炎を静かに纏わせた。


──振り抜く。


鈍い音と共に、コンクリートに鋭い亀裂が走る。

爆ぜることも、暴れることもなかった。

ただ、正しく打ち抜いた。


「……やった。できた……!」


ガキみたいな喜びが、声になった。


──張り紙が、ひらりと落ちる。


《※破壊厳禁》


≪……またか。救いようがないな、お前は≫


「やっべ、テンションぶっ壊れてた」


訓練を終えたあと、汗だくのまま壁際に腰を下ろしていた。


呼吸はまだ浅く、拳には痛みが残る。

焦げた袖から覗く皮膚は赤く、わずかに熱を帯びていた。


そんな彼の前に、足音がひとつ近づいてくる。


「……あなたって、どうしてそんなに立ち上がれるの?」


その声に顔を上げた。


リナだった。

普段の冷静な雰囲気とは違って、ほんの少しだけ目を伏せるようにして、こちらを見つめていた。


答えず、少し間を置いて視線を落とした。


「……昔の話だ。村で、家族と暮らしてた」


ゆっくりと、語り始める。


あの頃、まだ何も知らなかった自分。

小さな村。穏やかな時間。笑い声。


「妹がいたんだ。よく笑う、元気な子だったよ」


あの日の記憶が、鮮やかに蘇る。


村を襲ったのは、魔物ともつかぬ異形だった。

鉄のような体、魔力を持たないはずなのに、魔法のような攻撃を繰り出してきた。


炎と轟音の中で、家も、村も──妹も、消えた。


「……俺、守れなかった」


あのとき、何がどうなったのかも覚えていない。

ただ、気づいたときには──妹の姿はなかった。


村人たちは口をそろえて言った。

「死んだんだ」と。

墓も作られた。皆、それで終わったつもりだった。


けれど、納得できなかった。


夜、ひとりで墓の前に立ち、手で土を掘り始めた。

周囲には虫の声すらなく、冷たい闇だけが広がっていた。

土をかく指先だけが、自分の世界のすべてだった。


一秒が一時間にも感じられる沈黙のなかで、彼は止まらなかった。

指の皮が剥けても、爪が割れても、血が滲んでも──それでも掘り続けた。


だが、そこには──何もなかった。


空っぽの墓の前で、彼は崩れるように座り込み、土まみれの手を膝に置いた。


「……そこには何も入ってなかったんだ」


血塗れの手のまま、地面に崩れ落ちて、泣いた。

声を押し殺して、嗚咽が止まらなかった。


それでも誰も、何も教えてはくれなかった。


騎士団にも問い詰めた。何度も、何度も。

だが、誰も答えなかった。


1人の騎士が、静かに声をかけてきた。


「悔しいだろうが、泣くな。

泣いても、誰も話しちゃくれねえよ。

今のお前じゃ、この国の裏側には触れられない」


「だから──強くなれ。

魔法を学び、技を磨き、力を持って──この国の内側に入ってこい」


「そのときは……俺が全部教えてやるよ。

お前のその力も、妹のことも、

そして、近いうちにこの国に起きることもな」


それが、すべての始まりだった。


「妹の真実を知るために、俺は止まるわけにはいかないんだ……」


語り終えた後、深く息を吐いた。


沈黙が落ちた。


リナは、視線を伏せたまま、ぽつりと呟いた。


「……そんなこと、言われても困るのよ」


思わず目を細めた。

彼女の横顔には、僅かに揺れる表情があった。


「私、そういうの……慣れてないから」


小さく息を吐き、顔を背ける。


「……とにかく、無茶はやめなさい。あんたが倒れたら、何の意味もないんだから」


「……なんだ、心配してくれてんのか?」


「ち、違う! そんなんじゃ……!」


「はいはい。ありがとな」


その一言に、リナは睨むような視線を送ってから、目を逸らした。


「……ほんと、変なやつ」


ふと、リナの表情が静かになる。


俯きながら、ほんの小さな声で訊ねた。


「……その子、名前は?」


驚いたように彼女を見たあと、目を細めた。


「……イレア。イレア・ノヴァリス」


リナは、何かを飲み込むようにまばたきをした。

その視線が、一瞬だけバクの横顔を射抜いたあと、すぐに逸らされた。


「イレア……そっか」


ぽつりと、呟くようにリナが言った。

それはいつもの冷静さとは違う、少し揺れた声だった。


バクは気づかないふりをして、そっと目を伏せた。

探られるのは苦手だ。でも、嫌じゃなかった。


リナの手が、わずかに制服の裾を掴んでいたのが視界の端に映った。


彼女がなにを思っているのかはわからない。

ただ、ほんの少しだけ──自分の話が、届いたような気がした。


「……その子の名前、すごく綺麗ね」


彼女は目を閉じ、小さく微笑んだ。


「なんだか……私も、その子に会いたくなったわ」


わずかに目を見開いた。


リナは、照れ隠しのように顔を背け、わずかに頬を指で掻いた。


「協力してあげる。……無茶しない範囲で、ね」


「……ありがとな」


言葉が、自然とこぼれた。


ただ、それだけだったのに──心のどこかが、少し軽くなった気がした。


訓練室に、一人だけ残っていた。


昼のざわめきが嘘のように遠く、壁に映る影だけが静かに揺れている。


焦げた袖の奥にある拳を見つめていた。


皮膚の下が、まだわずかに痛む。

じりじりと、内側が焼け残っているような感覚。


けれど、不思議と──悪くない、と思っていた。


「……イレア」


ぽつりと名前をこぼした瞬間、リナの顔が脳裏を過った。


あのときの視線。言葉。

気まぐれで話しかけてきたように見えたけど──確かに誰かに届いた顔をしていた。


「……その子、名前は?」


ふいに蘇るリナの声が、胸の奥をゆっくり撫でていく。


あの一言が、今も引っかかっている。


名前を口にしたときの、自分の声。


あれは確かに──嘘のない本音だった。


「……まだ、何もできちゃいない。けど──」


焦げた袖に目を落とす。


指先で布をつまみ、乱暴に引きちぎった。


乾いた布が裂ける音。灰が舞い、赤くただれた皮膚が露わになる。


そこには、まだ熱を帯びた魔力の残滓が滲んでいた。


焼けた痕ではない。


魔法が、皮膚を通り越して、肉の奥にまで染み込んでいる。


その痛みごと、ゆっくりと拳を握り込んだ。


黒炎が、ふわりと揺らぐ。


熱は、暴れずに指先へまとわりついてくる。

さっきまでのあの獰猛さが、今は──共にある。


「──絶対に騎士団に行く」


呟いた声には、迷いはなかった。


沈黙の中に、別の声が割り込んでくる。


≪……寝言は寝てから言え≫


後ろから聞こえてきたような、しかし誰にも聞こえない声。


≪ただし、さっきの一撃は、ほんの少しだけ可能性を感じた。指の一本ぶんくらいには、な≫


「お前、ほんと素直じゃねえな」


≪お前が単純すぎるんだ≫


「て言うか、お前指ねーだろ」


≪……イメージの話だ。脳内構造において、五本ある設定にしてある≫


「細けぇな」


≪当然だ≫


やり取りのあと、再び沈黙が戻る。


黙って拳を見つめていた。


皮膚の奥に、まだ熱が灯っている。


あの痛みが、今だけは自分の中にある”証”のように思えた。


「……それでも、行くよ。俺はこのままじゃ終われない」


静かに、だが確かに。


拳を握る。そこにはまだ、黒炎の名残が微かに残っていた。


≪……ならばせいぜい這い上がれ。騎士団だろうが、未来だろうが、君の拳で勝ち取ってみせろ≫


「当然だ。……全部、俺がぶっ壊してでも、奪い返す」


一拍置いて、ぽつりと付け足す。


「──イレアの笑顔を、もう一度、見るために」


≪──言ったな、“バク・ノヴァリス”≫


訓練室は静まり返っている。


だが、そこに立つ少年の背には、確かに新たな強さが宿り始めていた。

差し込む陽の光が、黒炎の揺らぎをうっすらと赤く照らす。


ゆっくりと立ち上がった。

拳を構え、深く呼吸を整える。


「もう一回だけ、やってみるか」


再び、黒炎が揺れた。

落ち着きのない風が、訓練室を通り抜けていく。


昼休みの終わりかけ。


演習場の片隅には、ひと気がなかった。

先ほどまで賑わっていた声は遠のき、陽射しだけが淡く地面を照らしている。

午後の授業に備えて、生徒たちはすでに戻り始めていた。


その中で──ただ一人、ゼア・ノクティスだけが残っていた。


彼は無言のまま、訓練に集中していた。


重力魔法。


地面がわずかに波打つようにうねり、足元の空気が圧を孕むように重く沈む。

ゼアの周囲で、大小さまざまな石球がふわりと浮かび上がった。

宙に浮かび、静止し、まるで時間が止まったかのように空間が整う。


詠唱はない。


彼はただ、指をかすかに動かすだけだった。

それだけで、複数の石球は回転しながら軌道を描き、ぴたりと同じ線上に揃う。


動きに乱れはなかった。

余計な力が存在しない。

そこにあったのは、制御ではない。完成だった。


その光景を──遠くからじっと見つめていた。


物音ひとつ立てず、黙って、ただ見ていた。


(……くそ。なんであんなに……綺麗にできんだよ)


黒炎は纏えた。

だが、まだ荒い。

制御は不完全で、手は焼け、痛みは引かない。


それでも、自分なりに掴んだ感触はある。


──なのに。


ゼアの魔法は、別次元だった。


まるで呼吸のように、自然で無駄がない。

崩れがなく、焦りがなく、躊躇もない。

すべての動作が、流れるように繋がり──そのどれもが、静かに強いと訴えてくる。


(……全部が、無駄なくて、綺麗で……それで、ちゃんと強い)


(……俺とは、全然違ぇ)


自分の拳にわずかに残る疼きを感じた。

黒炎の残滓が、皮膚の奥で微かに震えている。


ゼアのそれとはまるで異なる。


荒く、歪で、暴れ馬のような力。

けれど──それでも、羨ましいと思った。


そこへ、静かに別の声が届く。


≪ほう。珍しいな、お前が認めるとは≫


≪で、どうする。憧れで終わるか?≫


答えなかった。


ただゼアの背中を見つめたまま、息を吐いた。


「……終わらせねえよ」


その声には、誇張も、虚勢もなかった。

ただ、確かに宿っていた。

意志だけが、そこにあった。


「──あいつみたいになりたい、とは思わねえ」


「でも……いつか超えてやる」


≪……無謀にもほどがあるな≫


「知ってるよ。でも──やるんだよ」


誰に届くわけでもない、ひとりごと。

だが、その言葉は胸の奥に宿った火種を、確かに燃やしていた。


遠くで──昼休みの終わりを告げる鐘が、鳴る。


ゼアは振り返ることなく、ただ静かに、最後の石球を地へ落とした。


音はなかった。

重力が収束し、空気が平らに戻る。


その背中を、拳を握り込んだまま、見続けていた。視線だけは、決して逸らさなかった。


昼休みが明けたばかりの廊下。


生徒たちがざわざわと教室へ戻るなか、ひときわ目を引く人だかりができていた。


掲示板の前。


そこには──新たな一枚の紙が貼られていた。


《選抜戦予選 来週月曜より開始》


人々の視線が集まるその紙には、こう記されていた。


【選抜戦予選・開催要項】


・各学年から代表者を選出する上位選抜形式。


・予選通過者は”本戦”への出場資格を得る。


・評価基準:魔力操作、戦闘応用、判断能力を含む総合判定。


ざわめきが少しだけ大きくなる。


それを、少し離れた場所から見上げていた。


焦げたままの制服の袖。


その奥で、まだ拳は微かに熱を帯びていた。

肌の奥に残るあの黒炎の疼きが、消えていない。


≪予選、などと軽く言うが……これはふるい落としだぞ≫


≪実力のない者は、そこで終わる≫


≪──Eランクの烙印を押されたままで終わるか、それとも……這い上がるかだ≫


ネロの声が、静かに響く。


答えなかった。


ただ掲示を見つめたまま、ふっと笑った。


その笑みには、確かな自信があった。


たとえ誰にも届かなくとも、自分の拳だけは──もう、信じてみようと思えた。


「──バク・ノヴァリス……!」


背後から、鋭い声が響いた。


振り返った瞬間、そこにいたのは鬼の形相の教官・ガクだった。


手には、例の張り紙。


《※破壊厳禁》


「てめぇ……何度言えば分かるバカやろう!!!」


肩をすくめる。


「……やっべ」


≪予選が始まる前に、退学もあり得るぞ≫


「冗談やめろよ……マジで」


そう呟きながらも、心の奥で、黒炎の疼きを──どこか、嬉しそうに感じていた。


それは痛みではなかった。

確かに、ここにある火だった。

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