魔法理論の授業中、退屈そうに教科書を眺めていた。
黒板には複雑な魔力循環図が描かれ、教師が淡々と解説を続けている。
バクは頬杖をついたまま、窓の外をぼんやりと見つめていた。
魔法理論の教科書が開かれてはいるが、内容はほとんど頭に入ってこない。
(やっぱ……こういうの、性に合わねぇな)
小さくため息をついた、その瞬間。
脳内に、別の声が響いた。
≪……この理論書、ようやく出てきたか。“外装型魔力操作”。媒体に魔力を浸透させ、形状と効果を変化させる……ふむ≫
≪魔力を放つのではなく、纏うことで”接触制御”を可能にする。未熟な術者でも一定の制御ができる──面白い≫
(……なにかヒントになりそうか?)
≪魔力放出に失敗し続ける者が、逆に保持する方向へ進むのは理に適っている。……未完成なお前には、ちょうどいいおもちゃだ。暴れ馬には手綱が似合う≫
(毒舌だけは相変わらずだな……)
だが、その言葉の裏にある可能性を感じ取っていた。黒炎を放つのではなく、纏う。その発想は、確かに理に適っているように思えた。
講義の内容なんかよりも、その声のほうがずっと興味深かった。
昼休みになると、真っ先に訓練室へ向かった。
他の生徒は昼食や休憩に向かっており、訓練室は無人だった。扉の前には新しい張り紙が貼られている。
《※破壊厳禁》
それを見て、ネロが嫌味を言ってきた。
≪見ろ、最初からお前の犯行が想定されている≫
「破るつもりはない……つもりだけどな」
そう呟きながら扉を開ける。静寂に包まれた訓練室で、深く息を吸った。
「さて……やってみるか」
≪焼け焦げて泣きつくなよ? 止めるつもりはない≫
「そう言うと思ったよ……」
拳を握り、集中する。これまでとは違うアプローチを試す時だった。
右手に意識を集中し、黒炎を込めようとする。だが、制御できず一瞬で爆ぜた。
熱が弾け、袖が焦げる。
「……クソ、まだ暴れるか」
≪放つのではなく、抱き込むように。魔力の流路を外ではなく、内へ回せ。纏う意識だ≫
深く息を吸い、拳を見つめた。
黒炎が、掌に集まり始める。
それは熱ではなかった。内側から神経を焼くような痛み。
皮膚のすぐ上を、なぞるように黒い火が輪郭を描いた。
拳の感覚が鈍くなる。
だが、崩れる前に押さえつけた。
掌の骨が軋み、筋肉が焼かれる匂いのなかで、拳を固めた。
──そして炎は、静かにまとわりついた。
黒炎が、暴れるのをやめた。
わずか数秒。しかし確かに、纏っていた。
「──止まった。ほんの一瞬、けど……俺の手にあった」
≪奇跡だな、お前にしては。……ほんの数秒だけ、魔法使いに見えたぞ≫
汗が滴る。
けれど、あの感覚は残っていた。
≪暴走の直前で押さえ込む。お前のやり方は……無理やりではあるが、最も合理的だ≫
立ち上がり、焦げた袖を見下ろす。
手はまだ痛む。だが、悪くなかった。
拳を握り直す。
「──これなら……少しは扱えそうだな!」
そのまま壁へと歩を進める。
拳を構え、黒炎を静かに纏わせた。
──振り抜く。
鈍い音と共に、コンクリートに鋭い亀裂が走る。
爆ぜることも、暴れることもなかった。
ただ、正しく打ち抜いた。
「……やった。できた……!」
ガキみたいな喜びが、声になった。
──張り紙が、ひらりと落ちる。
《※破壊厳禁》
≪……またか。救いようがないな、お前は≫
「やっべ、テンションぶっ壊れてた」
訓練を終えたあと、汗だくのまま壁際に腰を下ろしていた。
呼吸はまだ浅く、拳には痛みが残る。
焦げた袖から覗く皮膚は赤く、わずかに熱を帯びていた。
そんな彼の前に、足音がひとつ近づいてくる。
「……あなたって、どうしてそんなに立ち上がれるの?」
その声に顔を上げた。
リナだった。
普段の冷静な雰囲気とは違って、ほんの少しだけ目を伏せるようにして、こちらを見つめていた。
答えず、少し間を置いて視線を落とした。
「……昔の話だ。村で、家族と暮らしてた」
ゆっくりと、語り始める。
あの頃、まだ何も知らなかった自分。
小さな村。穏やかな時間。笑い声。
「妹がいたんだ。よく笑う、元気な子だったよ」
あの日の記憶が、鮮やかに蘇る。
村を襲ったのは、魔物ともつかぬ異形だった。
鉄のような体、魔力を持たないはずなのに、魔法のような攻撃を繰り出してきた。
炎と轟音の中で、家も、村も──妹も、消えた。
「……俺、守れなかった」
あのとき、何がどうなったのかも覚えていない。
ただ、気づいたときには──妹の姿はなかった。
村人たちは口をそろえて言った。
「死んだんだ」と。
墓も作られた。皆、それで終わったつもりだった。
けれど、納得できなかった。
夜、ひとりで墓の前に立ち、手で土を掘り始めた。
周囲には虫の声すらなく、冷たい闇だけが広がっていた。
土をかく指先だけが、自分の世界のすべてだった。
一秒が一時間にも感じられる沈黙のなかで、彼は止まらなかった。
指の皮が剥けても、爪が割れても、血が滲んでも──それでも掘り続けた。
だが、そこには──何もなかった。
空っぽの墓の前で、彼は崩れるように座り込み、土まみれの手を膝に置いた。
「……そこには何も入ってなかったんだ」
血塗れの手のまま、地面に崩れ落ちて、泣いた。
声を押し殺して、嗚咽が止まらなかった。
それでも誰も、何も教えてはくれなかった。
騎士団にも問い詰めた。何度も、何度も。
だが、誰も答えなかった。
1人の騎士が、静かに声をかけてきた。
「悔しいだろうが、泣くな。
泣いても、誰も話しちゃくれねえよ。
今のお前じゃ、この国の裏側には触れられない」
「だから──強くなれ。
魔法を学び、技を磨き、力を持って──この国の内側に入ってこい」
「そのときは……俺が全部教えてやるよ。
お前のその力も、妹のことも、
そして、近いうちにこの国に起きることもな」
それが、すべての始まりだった。
「妹の真実を知るために、俺は止まるわけにはいかないんだ……」
語り終えた後、深く息を吐いた。
沈黙が落ちた。
リナは、視線を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「……そんなこと、言われても困るのよ」
思わず目を細めた。
彼女の横顔には、僅かに揺れる表情があった。
「私、そういうの……慣れてないから」
小さく息を吐き、顔を背ける。
「……とにかく、無茶はやめなさい。あんたが倒れたら、何の意味もないんだから」
「……なんだ、心配してくれてんのか?」
「ち、違う! そんなんじゃ……!」
「はいはい。ありがとな」
その一言に、リナは睨むような視線を送ってから、目を逸らした。
「……ほんと、変なやつ」
ふと、リナの表情が静かになる。
俯きながら、ほんの小さな声で訊ねた。
「……その子、名前は?」
驚いたように彼女を見たあと、目を細めた。
「……イレア。イレア・ノヴァリス」
リナは、何かを飲み込むようにまばたきをした。
その視線が、一瞬だけバクの横顔を射抜いたあと、すぐに逸らされた。
「イレア……そっか」
ぽつりと、呟くようにリナが言った。
それはいつもの冷静さとは違う、少し揺れた声だった。
バクは気づかないふりをして、そっと目を伏せた。
探られるのは苦手だ。でも、嫌じゃなかった。
リナの手が、わずかに制服の裾を掴んでいたのが視界の端に映った。
彼女がなにを思っているのかはわからない。
ただ、ほんの少しだけ──自分の話が、届いたような気がした。
「……その子の名前、すごく綺麗ね」
彼女は目を閉じ、小さく微笑んだ。
「なんだか……私も、その子に会いたくなったわ」
わずかに目を見開いた。
リナは、照れ隠しのように顔を背け、わずかに頬を指で掻いた。
「協力してあげる。……無茶しない範囲で、ね」
「……ありがとな」
言葉が、自然とこぼれた。
ただ、それだけだったのに──心のどこかが、少し軽くなった気がした。
訓練室に、一人だけ残っていた。
昼のざわめきが嘘のように遠く、壁に映る影だけが静かに揺れている。
焦げた袖の奥にある拳を見つめていた。
皮膚の下が、まだわずかに痛む。
じりじりと、内側が焼け残っているような感覚。
けれど、不思議と──悪くない、と思っていた。
「……イレア」
ぽつりと名前をこぼした瞬間、リナの顔が脳裏を過った。
あのときの視線。言葉。
気まぐれで話しかけてきたように見えたけど──確かに誰かに届いた顔をしていた。
「……その子、名前は?」
ふいに蘇るリナの声が、胸の奥をゆっくり撫でていく。
あの一言が、今も引っかかっている。
名前を口にしたときの、自分の声。
あれは確かに──嘘のない本音だった。
「……まだ、何もできちゃいない。けど──」
焦げた袖に目を落とす。
指先で布をつまみ、乱暴に引きちぎった。
乾いた布が裂ける音。灰が舞い、赤くただれた皮膚が露わになる。
そこには、まだ熱を帯びた魔力の残滓が滲んでいた。
焼けた痕ではない。
魔法が、皮膚を通り越して、肉の奥にまで染み込んでいる。
その痛みごと、ゆっくりと拳を握り込んだ。
黒炎が、ふわりと揺らぐ。
熱は、暴れずに指先へまとわりついてくる。
さっきまでのあの獰猛さが、今は──共にある。
「──絶対に騎士団に行く」
呟いた声には、迷いはなかった。
沈黙の中に、別の声が割り込んでくる。
≪……寝言は寝てから言え≫
後ろから聞こえてきたような、しかし誰にも聞こえない声。
≪ただし、さっきの一撃は、ほんの少しだけ可能性を感じた。指の一本ぶんくらいには、な≫
「お前、ほんと素直じゃねえな」
≪お前が単純すぎるんだ≫
「て言うか、お前指ねーだろ」
≪……イメージの話だ。脳内構造において、五本ある設定にしてある≫
「細けぇな」
≪当然だ≫
やり取りのあと、再び沈黙が戻る。
黙って拳を見つめていた。
皮膚の奥に、まだ熱が灯っている。
あの痛みが、今だけは自分の中にある”証”のように思えた。
「……それでも、行くよ。俺はこのままじゃ終われない」
静かに、だが確かに。
拳を握る。そこにはまだ、黒炎の名残が微かに残っていた。
≪……ならばせいぜい這い上がれ。騎士団だろうが、未来だろうが、君の拳で勝ち取ってみせろ≫
「当然だ。……全部、俺がぶっ壊してでも、奪い返す」
一拍置いて、ぽつりと付け足す。
「──イレアの笑顔を、もう一度、見るために」
≪──言ったな、“バク・ノヴァリス”≫
訓練室は静まり返っている。
だが、そこに立つ少年の背には、確かに新たな強さが宿り始めていた。
差し込む陽の光が、黒炎の揺らぎをうっすらと赤く照らす。
ゆっくりと立ち上がった。
拳を構え、深く呼吸を整える。
「もう一回だけ、やってみるか」
再び、黒炎が揺れた。
落ち着きのない風が、訓練室を通り抜けていく。
昼休みの終わりかけ。
演習場の片隅には、ひと気がなかった。
先ほどまで賑わっていた声は遠のき、陽射しだけが淡く地面を照らしている。
午後の授業に備えて、生徒たちはすでに戻り始めていた。
その中で──ただ一人、ゼア・ノクティスだけが残っていた。
彼は無言のまま、訓練に集中していた。
重力魔法。
地面がわずかに波打つようにうねり、足元の空気が圧を孕むように重く沈む。
ゼアの周囲で、大小さまざまな石球がふわりと浮かび上がった。
宙に浮かび、静止し、まるで時間が止まったかのように空間が整う。
詠唱はない。
彼はただ、指をかすかに動かすだけだった。
それだけで、複数の石球は回転しながら軌道を描き、ぴたりと同じ線上に揃う。
動きに乱れはなかった。
余計な力が存在しない。
そこにあったのは、制御ではない。完成だった。
その光景を──遠くからじっと見つめていた。
物音ひとつ立てず、黙って、ただ見ていた。
(……くそ。なんであんなに……綺麗にできんだよ)
黒炎は纏えた。
だが、まだ荒い。
制御は不完全で、手は焼け、痛みは引かない。
それでも、自分なりに掴んだ感触はある。
──なのに。
ゼアの魔法は、別次元だった。
まるで呼吸のように、自然で無駄がない。
崩れがなく、焦りがなく、躊躇もない。
すべての動作が、流れるように繋がり──そのどれもが、静かに強いと訴えてくる。
(……全部が、無駄なくて、綺麗で……それで、ちゃんと強い)
(……俺とは、全然違ぇ)
自分の拳にわずかに残る疼きを感じた。
黒炎の残滓が、皮膚の奥で微かに震えている。
ゼアのそれとはまるで異なる。
荒く、歪で、暴れ馬のような力。
けれど──それでも、羨ましいと思った。
そこへ、静かに別の声が届く。
≪ほう。珍しいな、お前が認めるとは≫
≪で、どうする。憧れで終わるか?≫
答えなかった。
ただゼアの背中を見つめたまま、息を吐いた。
「……終わらせねえよ」
その声には、誇張も、虚勢もなかった。
ただ、確かに宿っていた。
意志だけが、そこにあった。
「──あいつみたいになりたい、とは思わねえ」
「でも……いつか超えてやる」
≪……無謀にもほどがあるな≫
「知ってるよ。でも──やるんだよ」
誰に届くわけでもない、ひとりごと。
だが、その言葉は胸の奥に宿った火種を、確かに燃やしていた。
遠くで──昼休みの終わりを告げる鐘が、鳴る。
ゼアは振り返ることなく、ただ静かに、最後の石球を地へ落とした。
音はなかった。
重力が収束し、空気が平らに戻る。
その背中を、拳を握り込んだまま、見続けていた。視線だけは、決して逸らさなかった。
昼休みが明けたばかりの廊下。
生徒たちがざわざわと教室へ戻るなか、ひときわ目を引く人だかりができていた。
掲示板の前。
そこには──新たな一枚の紙が貼られていた。
《選抜戦予選 来週月曜より開始》
人々の視線が集まるその紙には、こう記されていた。
【選抜戦予選・開催要項】
・各学年から代表者を選出する上位選抜形式。
・予選通過者は”本戦”への出場資格を得る。
・評価基準:魔力操作、戦闘応用、判断能力を含む総合判定。
ざわめきが少しだけ大きくなる。
それを、少し離れた場所から見上げていた。
焦げたままの制服の袖。
その奥で、まだ拳は微かに熱を帯びていた。
肌の奥に残るあの黒炎の疼きが、消えていない。
≪予選、などと軽く言うが……これはふるい落としだぞ≫
≪実力のない者は、そこで終わる≫
≪──Eランクの烙印を押されたままで終わるか、それとも……這い上がるかだ≫
ネロの声が、静かに響く。
答えなかった。
ただ掲示を見つめたまま、ふっと笑った。
その笑みには、確かな自信があった。
たとえ誰にも届かなくとも、自分の拳だけは──もう、信じてみようと思えた。
「──バク・ノヴァリス……!」
背後から、鋭い声が響いた。
振り返った瞬間、そこにいたのは鬼の形相の教官・ガクだった。
手には、例の張り紙。
《※破壊厳禁》
「てめぇ……何度言えば分かるバカやろう!!!」
肩をすくめる。
「……やっべ」
≪予選が始まる前に、退学もあり得るぞ≫
「冗談やめろよ……マジで」
そう呟きながらも、心の奥で、黒炎の疼きを──どこか、嬉しそうに感じていた。
それは痛みではなかった。
確かに、ここにある火だった。