ヨウマと深雪は空いた地下鉄に乗っていた。前者は吊革を握り、後者は膝の上に大きな紙袋を乗せて俯いていた。
「これで買い物は終わりかな」
彼が深雪に尋ねる。
「は、はい。リストにあるものは、買いました。で、でも不便ですね。ニェーズ居住区にも地球人の服あれば、って思いませんか?」
「仕方ないよ、居住区に住んでる僕らみたいなのが珍しいんだから」
あれから三日。円形都市フロンティアセブンにテロの脅威が迫っていることを、誰も知っていた。学生やホワイトカラーは家から授業なり仕事なり課題なりをこなし、外に出るのは怖いもの知らずか、馬鹿か、日々を維持するために出るしかない者だけだ。
ヨウマたちは最後のそれだ。現在捜査が行われている出渕家宅に戻ることもできず、優香が必要とする、当分の服や下着を買いに出たのだ。
刀を落とし差し──地面と垂直に近い状態で差している彼は、自然と周囲の人間を観察していた。スマートフォンを触っている若者も、談笑する女子高生も、潜在的な敵である。
「ゆ、優香さんはどうしてるんでしょうね。テレビでも見てるんですかね」
深雪の瞳も右に左に忙しかったが、それはヨウマとはまた違う意味があった。
「やっぱり、電車は緊張する?」
「人がいっぱいいると、どうしても。でもでもでも、ヨウマさんがいるなら大丈夫です。守ってくれ……ますよね?」
「うん。約束する」
「うへ、うへへ……」
にへらと不器用に笑う彼女を見ると、ヨウマの中で心にぼうっとした温かさが宿る。
「まっすぐ帰っても遅くなっちゃいますね……晩ごはんの買い物もしなきゃですね」
「確かにそうだ──」
「キャーッ!」
向こうの車両から、悲鳴が聞こえてきた。
「深雪、動かないで」
それだけ言い残して、彼は走る。人の流れを遡上して、左親指を鍔にかける。二両ほど抜けたところで、血濡れの剣鉈を持った、一本角の男オビンカを認めた。
(二メートル六十。あのコートに鉈を隠してた?)
足元には、頭を割られた地球人の死体が転がっている。夏だというのに真っ黒なコートを着たオビンカは、酷く興奮している様子だった。
「みんな、逃げろ!」
声を上げながら、ヨウマは刀を抜いた。魔法を使うか考える。雷の槍は貫通しすぎる。二次被害も出るだろう。なら、刀しか頼れない。何よりの信頼を寄せている、この刀を。
幸い、退避はすぐに終わった。皆、別の車両に移り、動画を撮っている。怒鳴ってしまいたいが、そんな余裕もなくオビンカが向かってきた。
二、三度斬り結ぶ中で、彼は戦い方を頭の中で組み立てていた。コートのせいで、体の状態は窺えない。だが、袖口から僅かに見える手首は、守られていなかった。
(胴体を狙うのは……リスキーかもな。戦えない状態にしてしまうのが、確実だ)
下段に構え、見合う。
「なんでこんなことしてるのさ」
「うるせえ! 地球人は皆殺しにしてやるってんだよ!」
「うるさいのはそっちでしょ……」
突っ込んでくるのを躱して、躱して、躱して。怒りに任せた連撃は、手摺やポールを歪めるばかりだ。
「不可能な理想を掲げるのはやめなよ。こんなことで死にたくないでしょ?」
「てめえ、ユーグラスのヨウマだろ⁉ お前らユーグラスが権力側についてから、オビンカは生きづらくてたまらねえ! だから変えてやるのさ、全部!」
「暴力は良くないよ」
列車が急ブレーキをかける。よろけたオビンカに、ヨウマが素早く寄る。鉈を持つ右手首を斬り落とし、足払い。鮮血が散る社内の中で、彼の、夜を閉じ込めたような刃が、オビンカの首元に突きつけられた。
「次は首を刺すよ」
ヨウマは冷淡に告げた。
「降参するなら傷口を塞ぐ。どうする?」
憎しみに満ちた表情で、オビンカは少年を睨めつける。
「その出血だ。あんまりもたないと思う。早く判断しなよ」
「殺せ。情けはいらない」
「情けじゃない。僕が殺したくないから、片手で終わらせようって話をしてるんだ」
苛ついてきたヨウマは、このまま一突きしてしまおうか、とさえ考える。だが、それですっきりするか、というとそうではない。畢竟、心のどこかにしこりを残すだけなのだから。
「……俺の負けだ」
「はいはい」
そう口にしながら、彼は相手の傷口に左手を当てる。指輪が広がると、出血が止まった。
「僕ができるのはこれだけ。輸血とかは、病院に着いてからね」
ポーチから縄を取り出して、左手を手摺に縛り付ける。
「そこの人、車掌さんに伝えて。動かしていい、って」
一人の少年を指差して、指示を出す。それから、ポーチから引っ張り出した黄色と黒の立ち入り禁止テープを張り巡らせて、本部に連絡し始めた。
「もしもし? え? 自分の携帯で専用回線に繋ぐなって? それはごめん。で、本題なんだけど──」
今しがた起きたことを、簡潔に説明。
「そういうわけで、捜査員の派遣よろしく」
電話を仕舞った彼は、鉈を拾い上げる。そして、オビンカの前にしゃがみ込んでその目を見た。動かした電車の中、その姿勢は全くブレない。
「地球人、嫌いなの?」
「好きになれるわけないだろ」
「でも、親父は僕を拾って育ててくれたし、ユーグラスのみんなは、表向きには僕をちゃんと扱ってくれるよ」
「利用価値があるからだ。違うか」
否定も肯定もしない内に、列車は最寄り駅に停車した。
◆
ヨウマが自宅の鍵を回した時、ドタドタという足音が中から響いてくる。
「ただいま──」
と言うのが早かったか、
「大丈夫⁉」
という声がしたのが早かったか。優香が焦燥に足首を掴まれた顔で待っていた。護衛任務の継続が下達され、同居生活が始まったのだ。
「地下鉄で殺人事件、って……」
「大丈夫。僕らは何ともないよ」
「じゃあ、その血は……」
左手に付着した血を見て、彼女は声を震わせた。
「僕のじゃない。相手の」
「よかった……」
体の血が抜けたようにふらついたその小さな体を、ヨウマが支える。そのまま、リビングの椅子に持って行った。テレビの前には、ソファに腰掛けるキジマの姿。
「じゃ、僕は手洗ってくるから」
その間、深雪は手早く料理の準備を始めた。
「キジマさんも、冷やし中華、食べていきますか?」
「お、いいのか? ありがとな」
「そう思って多めに買ってきましたから……」
錦糸卵を慣れた手つきで用意する彼女を見て、優香は素直な疑問をぶつける。
「深雪ちゃんって、いつからここにいるの?」
「じゅ、十三歳の時からなので……えっと……二年、ですね」
「学校は?」
「お母さんが死ぬまでは……」
心の触れたくない部分に指先を当ててしまったことを恥じながら、
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなくて」
と優香は謝罪を述べた。
「いえ、よくあることですから……」
話しながらも、深雪の手は淀みない。テキパキと動き、あっという間に四人分の食事が供された。少し赤みがかった黄色い中太麺の上に、トマト、卵、胡瓜、ハム。冷やし中華だ。
だが、ついさっきリビングに戻ってきたヨウマは、携帯のコールでまたも廊下に出る。
「もしもし?」
『俺だ』
ジクーレンだった。
『お前が捕まえた奴が吐いた。夜明けのタルカ……そのアジトの場所がわかったんだ。今裏付けを進めている』
「じゃ、カチコミ?」
『ああ。抵抗が予想される。お前とキジマを使いたい』
「それはいいけど、優香はどうするのさ」
電話の向こうで何かを飲む音がした。
『こちらから人員を派遣する。何、家の外で見張らせるだけだ。深雪の精神状態は考慮している』
「ならいいけど……」
『状況が変われば、また連絡する。ではな』
「うん。おやすみ」
ぽつねんと、静かな廊下に残された。
「どうして、暴力で何かを変えようとするんだろう」