一先ず、出渕家宅からノートパソコンや文房具が送られ、優香は夏休みの課題に取り掛かることができた。リビングのテーブルで数学の問題を解く彼女のノートを薄炉から覗き見て、ヨウマは吐き気さえ覚えるところだった。
そんな彼女は、一旦シャープペンシルを置き、傍らの麦茶を飲んだ。
「気になってたこと、聞いていい?」
勉強の様子が気になって仕方ないヨウマに、彼女は呆れながら問う。
「その指輪、クリムゾニウム?」
彼の左中指にある指輪は、赤い。だが、表面は揺らめく炎のようで、一様に光を反射し続ける、というものではなかった。
「そうだよ。一人前の戦士の証だって、親父は言ってた」
現代文明の礎、クリムゾニウム。魔力を蓄積し、それを電力として取り出す技術の開発が、文明の躍進を支えたのだ。有限たる化石燃料とは違い、無限の魔力──自然界が持つマナと呼ばれる種のエネルギーを電力に変換できる。有毒であったり環境を破壊したりする類のものも排出しない。まさに最高のエネルギー源だった。
しかし、それだけではない。アーデーンに息づく魔法は、このクリムゾニウムと自身の魔力、オドを共鳴させることで超常現象を引き起こすものなのだ。
「私も、使えたらいいな。そしたら、守られなくてもいいから」
「習得は楽じゃないよ。僕だって、雷の術をちょっと使えるだけだし」
今、優香の脳裏で何が流れているのか。ヨウマはそれを察することはできずとも、昏い瞳が力を失って手元を見つめていることで、黙っていようと思えた。
「今度さ、魔法使ってる所見せてよ」
「居住区の訓練場なら借りれるかもしれないけど……あんまり派手なことはできないよ?」
「ほら、学校って魔法は教えてくれないじゃない? 気になるの」
背後でぴょこぴょこするのを止めたヨウマは、向かいの椅子に座る。
「そんなに言うなら、いいよ。今からでも行く?」
「ちょっと待って。これだけ解くから」
手早く解答をノートに記し、閉じる。そして立ち上がった。
「深雪も来る?」
フローリングワイパーで掃除をしている家族に、彼は何気なく声をかけた。
「い、いいんですか。お掃除ももうすぐ終わるので、待ってもらえると……」
「オッケー。じゃ、連絡しとくよ」
廊下に出て訓練場の管理人へ電話をかけるヨウマ。残された二人は邪魔しないように声を抑えて話し出した。
「深雪ちゃんって、家事上手よね。私の所にいた家政婦にも見せてあげたいくらい」
「い、いえいえ……私にはこれしかないので……」
「どうしてここで働いてるの?」
浅慮なままに、優香は尋ねた。
「む、昔はお母さんがジクーレンさんの家政婦をしてたんですけど……お父さんがオビンカから借金をして、いなくなって、お母さんが自殺して……ジクーレンさんに拾ってもらったんです。それから、ヨウマさんが家を出る時についてきたんです」
「なんか、ごめん」
「い、いえ……」
グッ、と深雪はワイパーを握り締めた。
「しょ、正直なことを言うと、お母さんもお父さんも嫌いだったので、いなくなってよかったです。あの家にも帰りたくないので、ヨウマさんにはずっと置いててほしいな、って……」
「よかった、って……何があったの?」
「言えない、です」
彼女の瞳が、床を撃ち抜くように見つめる。
「言いたくない、です」
それが震え出して、大粒の涙が零れ落ちる。そのタイミングで、ヨウマが戻ってきた。
「どうしたの?」
「私が変なこと聞いちゃって……いない方がいい?」
「そこまでは言わないけど、もう出るから準備してきて」
逃げるようにリビングから部屋に向かった優香を見送って、彼は深雪の頭にそっと手を乗せた。ジクーレンの真似事だ。
「優香も、悪意があったわけじゃないよ」
「わわ、わかってます。でも、お父さんの顔が出てきて、怖くなっちゃっただけなんです」
「大丈夫。お父さんはいない。誰も深雪を傷つけたりはしない」
凭れかかって呻く彼女を、ヨウマは静かに抱きしめた。
◆
「やったか?」
通りから一つ角を曲がった、狭い道。三本角の男が、息を切らす一本角の男に問うた。
「ああ、確かに仕掛けた」
一本角が自慢げに答える。室外機の吐き出す熱い空気の中、三本角がクリムゾニウムの指輪がある右手を突き出した。
「行くぜ。三、二、一──」
その指輪が光る。彼の予期するは、派手な爆発音。しかし、聞こえない。静かだ。何度も念を送り、指輪を煌めかせても、何も起こらない。
「なんだ、どういうんだ……」
慌てて隘路から出れば、バスから降りて不平を漏らす人々が、彼らの前を通り過ぎた。
「バスが、爆発していない⁉」
「ちゃちな術ね」
彼らの横から、低く太い声がした。
「んだとテメエ!」
顔を向けた所には、銀髪と煙管を持った、ニェーズ。イルケだ。左手には黒い塊がある。
「爆弾はアタシが無効化したわ。魔法で遠隔起爆するつもりだったんでしょうけど……もっと解析しづらい術にしないからこういうことになるの」
「このッ……!」
三本角は腰背部から短刀を抜き、斬りかかる。だが、するりとイルケが避けたと思えば、輝きを放つ煙管が首筋に当てられた。すると、三本角は蝋で固められたように動かなくなり、倒れた。
残った一本角がポケットからバタフライナイフを取り出して振り回す。
「く、来るんじゃねえ! 切り刻むぞ!」
「抵抗するなら殺すわよ」
「やってみろ!」
表情に一部の揺らぎも見せず、イルケは相手に一歩ずつ近づく。ランウェイを行くモデルのようだ。美しい。しかし、そこに付け入る隙はない。細い目が、冷徹に敵を見下す。
「二回目。武器を捨てて、抵抗をやめなさい」
一本角は震える手でナイフを握り締めている。
「で、でりゃあ!」
と、声を上げながら彼は突撃する。が、煙管で刃を受け流し、蹴り飛ばされてしまった。
「三回目。次はないわ。投降しなさい」
「う、うるせえ! ユーグラスも地球人も血祭りにあげてやる!」
ナイフを構え直した相手を見て、イルケは溜息を吐くしかなかった。
「残念ね」
その瞬間、イルケは間合いを詰めていた。反応する暇もなく、左手が頭を掴む。指輪の一つが輝きを放ち──男の頭が、破裂した。飛散した血液、脳漿、脳味噌、頭蓋骨。
「この術、汚れるから嫌いなのよね」
血に染まった左手を見ながら、呟いた。ポケットから黒いハンカチを取り出し、それらを消し去る。一旦、待たねばならない。行くべきところがあるというのに。
◆
「でも、イルケさんが遅れる以上、無理はできないっすね」
揺れる車の中で、キジマが防刃ベストを着たニェーズを前に言った。壁沿いの長椅子に、似たような装備のヨウマとキジマを含めて十名座っている。刀、短剣、己、槍。それぞれが得意とする武器を持ち、静かに時を待っていた。
「やるしかない。だろ、キジマ」
ヨウマは静かに言った。
「そうだな。次の被害が出る前に、仕留めるんだ」
「ニーサオビンカがいたら、どうします」
隊員の一人が不安げな声で問う。
「まさか。下部組織に力を貸すほど余裕はないっすよ」
車が停まる。扉が開く。
「行きますよ」
放たれた猟犬のように、彼らは走り出す。古びたアパートの階段を上り、一室の前で止まる。後ろから前へ、肩を叩くリレー。それがヨウマから先頭のキジマに伝わると、彼は扉を蹴破った。
「ユーグラスだ! 武器を捨てて手を挙げろ!」
踏み込んだ先は、ツーエルディーケーの部屋。玄関から上がって左の戸を開けば、ダイニングだ。しかし、誰もいない。四角いテーブルに、椅子が一つ置いてあるだけだ。
「ガセネタを掴まされた……ってとこか?」
キジマが呟く。
「いや、いる」
ヨウマが鋭く言った。
「多分、あの部屋」
ダイニングの奥、扉が一つ。それが、ゆっくりと開かれた。
「なんだ、騒がしい」
出てきたのは、上裸のニェーズ。顔以外の全身を覆う、傷だらけの紅い甲殻。腰まで伸びる長い赤髪。両腰の手斧が、揺れている。側頭部に一対の角が長く伸びる。そう、オビンカだ。
「誰?」
刀を向けて、ヨウマが問う。
「フランケ……ニーサオビンカ、第八席だ」