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東京にて 二

 東京の夜。ヨウマは、ホテルの廊下に立って、優香の部屋の前で警備任務に就いていた。手を腰の後ろで組み、通路の一番奥から、誰もいない虚空を見続ける。退屈な時間だ。


 その背後で、扉が開いた。ネグリジェ姿の優香が半身を出していた。


「ね、お話しよ」

「ホテルの人から入るなって言われてて」

「じゃ、どこか行こうよ。いいでしょ?」


 了承の返事の前に、彼はポケットの携帯電話に手を伸ばす──しかし、細い手が飛んできてそれを止めた。


「お忍びで! 二人で出かけるって言うの、恥ずかしいし」


 上目遣いで頼み込む姿。ヨウマは、怒られることが面倒くさいという思いと、誰にも言わない外出というシチュエーションへの期待との間で揺らいでいた。


 だが、結局は首を縦に振ったのだった。東京までニーサオビンカが追いかけてくることはまずないであろうし、そこらの地球人であれば簡単に切り捨てられるだろう、という判断だった。


 一応のポーズとして、腕時計を見る。アナログだが秒についてはデジタルで、ごつごつとした見るからに頑丈そうなものだ。九時ちょうど。


「あと三時間で交代だから、それまでに帰るよ?」

「うん! ちょっと待ってて、着替えてくる」


 バタン、と閉じた扉を見ながら、彼は少し先のことについて考える。きっと露呈するだろう。キジマは、呆れながら頭を小突いてくるだろう。ジクーレンはどうか。これもまた、呆れるのだろう、と。


 ぼんやりしていると、優香が戻ってくる。薄手のパーカーにショートパンツという出で立ちだ。


「さ、行こ!」


 手が掴まれる。引っ張られる。彼は、昼間のことを思い出していた。冷たかった。柔らかかった。


(何考えてるんだ、僕)


 行き先を完全に任せ、歩く。彼女はスマートフォンを見ながらエレベーターを待ち始めた。


(落ち着けよ、ヨウマ)


 一階に降りると、サングラスをかけた男と遭遇する。右手に膨らんだビニール袋があった。


「優香様、どちらへ?」


 落ち着いた声は、冬治だ。


「えっと、散歩?」

「お二人で?」

「……いいじゃん、別に」


 呟くように言った彼女は、その横を通り抜ける。少し遅れてヨウマが動くと、彼はその肩をポンと叩いた。任されたのだ。


「ねね、これ見て。チーズケーキが美味しいんだって」


 外に出た所で、優香が電話の画面を見せる。近くの喫茶店だという。歩きでもそう時間はかからない距離だ。


 夜の東京とは、ヨウマの予想よりも静かなものだった。電気自動車の普及、というよりも、街全体が少ししんみりとした空気になっているように思える。それでもねっとりとした暑さが残り、ジャケットを脱いだとは雖も辛いものがあった。


 残るバスは一本。それもしばらく待つ必要がある。結局は歩きか、と二人は眠りに傾いた街を歩いた。


 十五分ほどして、目的の店に着く。ハーフティンバー様式を模した建物は、親しみやすい雰囲気だった。


「何名でしょうか」

「二人でーす」


 こなれた口調で優香が言う。平日の夜ということもあり、待つことはなかった。案内されたのはボックス席。赤いソファと、シックな机の組み合わせだ。


 グランドメニューを開いて悩んでいる相手を見て、ヨウマは店員を呼び出す。だが、ない。小さな立て札があるだけ。


「これ、どうやって注文するの?」

「QRコードでしょ。飲み物何にする?」


 優香はスマートフォンで立札の二次元コードを読み取り、注文を送信する準備を整える。


「えっと……ロイヤルミルクティーで」


 タタンッ、と入力を済ませた彼女は、あっという間にやるべきことをやってしまった。


「ヨウマの腕時計って、カッコいいよね。どこの?」

「シーチョックっていう……丈夫な奴。初任給で買った」


 水が来る。


「こういう所、よく来るの?」


 ヨウマはそれを一口飲んでから問うた。


「友達と行ってた。過去形だけど」

「ああ……」


 その理由は、他でもない彼が一番よく知っている。


「また、好きに行けるようにならないかな」

「僕らが頑張るしかない、か」

「頼りにしてる」


 それから、不思議とどちらも黙って、夜の空気に沈んだ。カタカタとキーボードを叩く音が、軽やかなピアノジャズのBGMの中に紛れて聞こえてくる。


「曽田敏則」


 優香が小さな声で言った。


「誰?」

「これの作曲者。パパが結構好きでさ」


 音楽の『お』も知らないヨウマは、乗っかることも退くこともできず、ただ注文した品が来るのを待っていた。


 数分の沈黙があって、件のそれがやってきた。プレミアムチーズケーキ、一つ六〇〇円。真っ白な、レアチーズケーキだ。


「こういう贅沢も、あんまりできないね」


 少し陰のある表情で、優香が言った。


「なんで?」

「ほら、お金はパパと仲が良かった弁護士の人に管理してもらうじゃない? 大学行くにしても、パパの遺産から出すことになるし……無限じゃないもの」

「うちで働く?」

「家政婦さんは二人もいらないでしょ?」


 彼女はフォークを取り、ケーキを一口運んだ。しっとりしたそれを咀嚼するたびに、甘さが口腔に広がり──そして、彼女は涙した。


「大丈夫?」

「なんで……なんで、パパは死んじゃったんだろう」


 ヨウマは何も言えなかった。すすり泣く声を聴きながら、必死に言葉を探す。しかし、ない。


「パパ、何か悪いことしたのかな」

「それは……」


 殺されて当然の人間などいない。そう言いかけて、彼は詰まる。誰かを殺そうとした存在と、殺した存在。そういうものを幾多手にかけて、彼は今ここにいる。


 彼らは、死ぬべきだったのか。悩んでも底はない。しかし、殺さねば、殺される者がいただろう。そう、殺さなければならなかったのだ!


「僕は、さ」


 ケーキに手を付けられないまま、彼は言葉をたどたどしく紡ごうとする。


「優香の親父のこと、何も知らない。だから、慰め方なんてわかんないけど……何かできることがあるなら、何でもするよ」

「ありがと。気持ちは受け取っておく」


 涙を振り払うような笑顔を前にして、彼は無力を痛感する。刀を振って命を救うことはできても、心は救えない。周囲からの注目から逃げたくて、フォークを握った。


「ごめんね、暗い話しちゃって」

「優香は悪くない。そういうことを考えるのは、自然だと思う」


 その場しのぎ的に、彼は文章を生み出していく。目の前の涙が彼を快に傾けることはない。どうにか笑ってほしい、と願っても、術はなかった。


「ヨウマはさ、自分の親のこと、知りたいと思う?」


 ケーキも六割食べたという所で、問いが投げかけられた。


「興味ないかな。顔も覚えてないんだよ。だから、今更出てこられても……邪魔、って言ったら失礼かも。でも、実際そうなんだ」

「一人で生きていけるから?」

「一人じゃないよ。深雪とか、キジマとか、いろんな人に助けられてる」


 ケーキを平らげた彼女は、皿をどけて机に突っ伏した。


「遺産のこととか、考えたくないなァ」

「大変?」

「ん~、額が大きすぎて、どう使ったらいいかわからない、っていうのが正確かな。言ったでしょ? 後見人になってくれた弁護士さんがいた、って。色々清算してくれたんだけどね、これだけあるの」


 彼女の右人差しが、ピンと立つ。


「一千万?」

「一億」

「……ほんとに?」


 頷きが、ヨウマの背を冷たくする。


「やっぱり、私の分の食費とか出した方がいい?」

「いいよ、優香の護衛手当で、暫くは僕も結構な収入あるし」

「でも、お金で命って張れる?」


 考えたこともない質問を受けて、ヨウマは首を捻る。


「別に、お金の量で戦うかどうかは決めてない。親父に任されたなら、全力でやるだけだよ」


 二人は同時にグラスを持った。


「ヨウマ、あのさ──」


 その瞬間、窓ガラスが割れた。ヨウマが横を見れば、赤い角が動いていた。


「オビンカ……!」

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