目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第10話 花束と共にわたくしは去るのですわ

「さあ、真実を知るための実験をここに用意しましたわ」


 テーブルの上に整然と並べられた器具。

 小さな蒸留器と、磨き上げられた数本のガラス瓶。光に透かすと琥珀色にきらめく瓶には、ヒースの雫が注がれておりました。


「これが事件のサンプル。そして、こちらが新品のもの」


 わたくしはピペットをつまみ、慎重にそれぞれの酒を吸い上げ、試験管に注ぎ分けました。目盛りに合わせどちらも等量。余分な香料とアルコールを揮発させ、有効成分を濃縮。


 観客たちは、不可解そうにしています。


「えっと、エリーちゃん。これはなにをしてるの?」

「要するに、わたくしが今回、毒に使われたと思っている物質を検出しようとしているのですわ」


 出来上がった濃縮サンプルに、氷酢酸を加えます。

 尖った臭いが、辺りに鋭く満ちました。さらに濃硫酸にごく少量の三塩化鉄を混ぜた溶液を滴下。試験管の側壁に沿わせて、ゆっくりと注ぎ込みます。手元を震わせぬよう、細心の注意を払って。


 混じり合わぬ液体の境界に、まるで魔法のようにぼんやりとした色が現れます。新品のウィスキーは何の変化もありません。けれど――。


「……ご覧なさいませ」


 事件のサンプルは示しました。溶液との境界線に、くっきりと紫がかった赤色の輪が浮かぶ。それはまさしく、強心配糖体が含まれている反応――ジギタリスの存在の証でした。


「これはジギタリスに含まれる成分の反応です。新品のボトルには、この色は現れません。しかし、この事件に用いられたヒースの雫には、間違いなくジギタリス……即ち、毒が混入されている」


 室内に、重い沈黙が落ちました。誰もが、色の輪を見つめて言葉を失っています。


「つまり、この毒は誰かが意図的に混入したもの。いつの段階でしょうね?」


 次に、全員の注視が移ったのは、当然、甥のブライアン氏。


「なにを馬鹿なことを。私は叔父上と酒を飲み交わした、そのヒースの雫をな!」

「そう、まさにそこが重要な点でした」


 イェイツ氏が普段から服用していたジギタリスは、一般的な心臓の薬。しかし、薬もまた過ぎれば毒となる。


「毒かどうかは量が決めるのですわ。ちなみに、ジギタリス中毒症状は心臓への負担だけでなく、頭痛や吐き気そして目の異常……ですわね」


 そこまで説明すると、普段の様子を知っていた人々は「そういえば」と納得と共に頷きます。最初から真実へのヒントは散りばめてあったのですわ。


「……にしても、さすが甥ですわね、好みも把握してらっしゃるし。……イェイツ氏に贈り物をすれば、毒見させられるのわかっておられたのでしょう? 普通は、自分も飲まされるなんてまっぴらごめんですわよね」


 自分は多少ならば飲んでも、害が薄いと踏み計画を実行。標的は限界を超え、中毒となる。

 なんとまあ、見上げた根性ですわね。


「違うっ! ああ、そうだ。私が贈った後に誰かが混入したのだろう。そこの女がな!」


 甥のブライアン氏が指したのは、シボーン夫人でした。


「そこの女がジギタリスなんて毒花を育ているのは、誰もが知っている。花壇を調べてみれば、使用した痕跡が見つかるやもしれんぞ」


 やはり、と言うべきか。この計画は、いざという時に夫人になすりつけるためでもあったのでしょう。実際、庭のジギタリスを使用したのかもしれませんわ。

 しかし、苦しい言い訳ですわね。


「それは不可能なのですわ。なんと、イェイツ氏はお酒の保管場所にまで鍵をかけておられたのです」

「なんっ、だとっ」

「ふふ、ご存じなかったのですわね。その上、シボーン夫人はイェイツ氏から酷い扱いを受け、強く警戒されていたそうです。……あなたと違ってね。……あら、ではやっぱり、ここであなたを拘束するには十分な初期証拠と言えるのかしら」


 完全に逃げ道がふさがれたことに気付いたブライアン氏は、きょろきょろと辺りを見渡します。


「おや、まだ言い足りないことがおあり? ……逃げるのは無理ですわよ」


 わたくしは剣に手をかけ、ネロは指をポキポキと鳴らします。当然、その背後にはミアとフィン様もいるわけです。

 警察士だけでなく、腕に覚えのある猛者たちに囲まれていることを認識すると、力なくブライアン氏はその場にうずくまったのでした。



 *



 それから、わたくしたちは支度を整えて庭先に出ました。

 しかし、背後から声を掛けられ振り向きます。儚げな微笑みを浮かべたシボーン夫人が、ゆっくりと歩み寄ってきました。

 手には、小さな花束が握られています。


「この度は、夫の事件を解決していただき、誠にありがとうございました」


 夫人は、わたくしたちに丁寧に頭を下げました。


「いえ、当然のことをしたまでですわ」

「……あの、キーラはどうなるのでしょうか。あの娘はとてもいい子でした」

「恐らくですが、そこまで罪は重くならないかと。悪戯としては悪質ですが、死の原因はブライアン氏ですし、情状酌量の余地もあるのではないでしょうか」

「そう、よかったわ。ターグがね、こうなってしまった以上、もうメイドは続けられないだろうから、あの娘を養子にしてあげたいって。……本当に、優しい人よね」


 ぎこちなく、わたくしは笑みを返します。正直、裁判の行方次第ですが、あのまま捕まるよりは心証も違うはずです。ですが、不幸なのはあの二人だけではありません。


「その、シボーン夫人。この度は、その、お辛かったでしょうね」


 気の利いたことが言えず、口を突いたのはそんな言葉。夫人は返答なく、長い睫毛を伏せました。

 しかし、そこで無遠慮にネロは尋ねたのです。


「なあ。アンタさ、あのジジイのこと殺したかったんだろ」


 夫人は目を丸くしましたが、すぐに静かな笑みを浮かべました。


「あらあら、ずいぶんと単刀直入なのですね」

「回りくどいのは苦手でよ、色々聞いてて思ってたんだけど。遺言状が書き変えられるかもって噂、アンタが流したんじゃねえのか」


 わたくしはネロを止めようとした。止めようとしたのですが、夫人の表情に思考が凍り付いてしまったのです。何も変わらない。静かなままの、笑み。


「だとしたら、なにか罪に当たるのかしら?」


 鈴の音のように澄んだ声でした。違和感が繋がる。


「お庭の花、全て毒花でしたわ。ジギタリスはもちろん、ヘリオトロープと……ラッパスイセンも」

「ええ、そうね。それがなにか問題になるのかしら」

「……イェイツ氏は病的なまでに、毒殺を警戒していましたわ」

「そうね。だからこそ私は疑われずに済んだわね、よかったわ」


 まさか、そんな。頭の中で全てが繋がっていく。

 自分を毒殺するかもしれない妻に、財産を残そうと遺言状を書きかえるなんてありえない。


「バンシー騒動……あれも、きっかけは噂が流れたことでしたわね。キーラさんは便乗して変装したに過ぎない」

「そうだったかも知れないわ。そういえば、あの笛ってとっても珍しいものなんですってね。こんな田舎でキーラったらどこで見つけてきたのかしら」


 鳥肌が立ちました。目の前の底知れないほどの悪意と悲しみに、もう言葉を紡ぐことすらできません。幼馴染への想い、そしてイェイツ氏への憎しみ全てを秘めて、この方は静謐せいひつに復讐を果たしたのです。


 ほのかに夫人の中に、塚の底に感じたバンシーのオーラと同じものを感じます。

 ああ、もしかしたら。わたくしは今、新たな妖精の誕生を目撃しているのかもしれない。あるいは――この方はあのバンシーになんらかの影響を受けていた?


「ふーん。じゃ、これから幼馴染の所に帰るのか?」


 ネロだけはいつものトーンで会話を続けました。


「……わからないわ。だってもう、あの頃の私じゃないもの」

「帰んなよ。きっと、待ってるから」


 ――ただ、その一言。


 その一言で、くしゃりと夫人の顔が歪み、大粒の涙がこぼれ落ちました。凍えるようなオーラが霧散していく。


「……ささやかですが、これはお礼です。これだけは間違いなく私のものですから」


 涙と共に差し出されたのは、黄色と紫の毒花で作られた悲しい花束。それをあっさりとネロは受け取ります。


「おう、ありがとうな。元気で」

「ええ、さようなら、エリー様、ネロ様。遠い所からお越しいただき、本当に感謝しています」


 夫人が深々と頭を下げました。顔を上げた時には、既にいつもの儚げな微笑みが浮かんでいました。

 わたくしは、立ち尽くしていました。夫人が屋敷の中へと戻っていくまで。


 馬車に乗ると、ミアとフィン様は離れた場所で、わたくしたちを見送っていました。ミアは笑顔に少しだけ悔しさを滲ませ、フィン様はただ頷いてくださいました。


 キケロ村を出た頃、ネロが大きく伸びをします。


「やっと終わったな、クソッタレな事件だったぜ」

「ええ、本当に。……夫人は少しでも、救われたのかしら」


 答えを求めていない呟きに、ネロはぶっきらぼうなまま、でも優しげな目をしました。


「さあな。だが、生きてりゃなんとかなんだろ。何にせよ、お手柄だったな。これでエリーも夢に近づく」

「ふふ、もう。あなたは本当にシンプルな方ですわね」

「生きていくのに大事なことだけ考えてりゃいいんだよ、だろ」


 無造作に、ネロは花束を差し出してきます。


「ほら、花束だぜ。嬉しいだろ、綺麗だし」

「それ、ぜんぶ毒の花なのですけれどね」

「いや、でも綺麗じゃん。んだよ、せっかくやろうと思ったのに」


 ネロは花束を大切そうに抱えました。彼には毒花かどうかはさして重要ではないのでしょう。


 今回の事件は、バンシーの噂から始まった複雑怪奇な物語でした。キーラの復讐心、ブライアン氏の野心、ターグ氏の献身、そしてシボーン夫人の深い悲しみと憎悪。様々な感情が絡み合い、迎えた一つの結末。

 バンシーは確かにいました。人の悲しみから生まれ出でた存在が、確かに。


「妖精と人を繋ぐ妖精姫プリンセスとは、その境界線を覗きこむ存在なのでしょうか」

「んー? ……ああ、そっか。エリー、疲れたんだろ。ちょっと寝てろよ」


 ネロの優しい言葉に甘えて、わたくしは目を閉じました。聞こえる馬車のひづめの音が、子守唄のように心地よく響きます。

 あなたは知らないのでしょうね、自分が差し出した花束の意味なんて。ヘリオトロープ愛よ永遠なれラッパスイセン報われぬ恋。どちらも悲恋の花ですのよ。

 そんなものを受け取りたくは……ないのですわ。


 ――ああ、でもこの花束にはジギタリスが入っていませんでしたか。


 揺蕩たゆたう意識の中、ふと思い出す。

 ジギタリス。……花言葉は欺瞞的で偽善的インシンセリティ


 ああ、どうして、あの儚くも美しい夫人を彩るのに相応しいなんて……全てを偽ったあの方に。


 それから、どんな夢を見たのか……わたくしは覚えておりませんでした。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?